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第伍話 砂上の健康日本、官僚の腐敗腸

━━━━━━━━━━━━━━━

往診カルテ No.005

患者:御門彰(厚生労働省 医系技官・大臣補佐官/私の兄)

来院目的:呼び出したのは向こう(今月二度目)

主訴:本人いわく「腹帯は体型管理のためだ」

麗の診察:上から目線の傲慢腸

━━━━━━━━━━━━━━━


 霞が関の裏通りに、看板のない料亭がある。


 予約は紹介制。政治家と官僚だけが、裏口から出入りする店だ。

 仲居に案内されて奥の個室の襖を開けると、兄はもう、箸を動かしていた。


「遅い。四分の遅刻だ」


 御門彰《みかどあきら》。

 厚生労働省の医系技官で、青山大臣の補佐官。国民の健康増進プロジェクトを指揮する、影のフィクサー(黒幕)。帝王大学医学部を卒業した後、お父様の名により、御門による国家医療の統制のために、医者ではなく、厚生労働省に送り込まれた、御門家の後継者筆頭のスーパーエリートである。


 真っ黒な高級スーツに身を包み、兄は、鋭い眼光で私を一瞥した。

 手元には、最高級の和牛のステーキ。そして、食べたものの重さと栄養素を記録する、計量アプリを開いたタブレット。


「お久しぶりね、兄様。相変わらず、ご飯をグラムで食べているのね」


「数字で管理できないものは、存在しないのと同じだ」


 兄は、和牛を一切れ口に運び、タブレットに何かを打ち込んだ。


「座れ」


 私は兄の向かいに座った。


 ――ギチ。


 兄が姿勢を正した瞬間、どこからか、革がきしむような音がした。


 音の出どころは、すぐに分かった。

 兄の、スーツの腹のあたりだ。


 特注の腹帯で、お腹を締め上げている。

 シルエットを保つためか、それとも、張ったお腹を隠すためか。


 私は、何も言わないことにした。

 ――今は、まだ。


     ◇ ◇ ◇


「キャバクラ、で働いているそうだな......」


 兄は、静かに口火を切った。


「母上から聞いた。それに、青山(厚生労働大臣)からもだ。御門の娘が、歌舞伎町で酒を注いでいるだと.....この恥知らずが!!卑しい職で、一族の顔に泥を塗るのもいい加減にしろ」


「お酒は注がないわ。私が注ぐのは、特性プレバイオティクスよ」


「バカめ、同じことだ」


 ――ギチ。


 腹帯が鳴った。


「政策で国民を救う私と、酒場で男を惑わすお前。どちらが社会に貢献しているか、言うまでもないだろう」


「そうね。言うまでもないわ」


 私は、湯呑みを両手で包んだ。


「兄様。今日も、『出すもの』が出ていないのかしら」


 ――ギチッ。


 さっきより、大きな音だった。


 兄の箸が、宙で止まる。

 鋭い眼光が、さらにすっと細くなった。


「……貴様.....食事の席で、品のないことを言うな、愚か者が」


「医者の問診よ。それに、さっきからお腹が答えてくれているわ」


 ――ギチ。


 腹帯が、返事をした。


     ◇ ◇ ◇


 兄はタブレットを操作し、一枚のグラフを表示して、こちらに向けた。


「これを見ろ」


 国の「食事摂取基準」の表だった。

 その中の、食物繊維の欄が赤く囲まれている。


いわゆる、腸活に有用な大腸に利用される大腸的な成分だ。


「働き盛りの男性で、一日二十二グラム以上。女性で十八グラム以上。これが国の目標量だ」


「知っているわ」


「では、これも知っているか。国民の大半は、この目標に届いていない」


 兄は、淡々と続けた。


「当然だ。野菜だけでこの量をとろうとすれば、種類によっては一日一キロ近く食べなければならない。普通の人間には、まず不可能だ」


「……それで?」


「不可能な目標を掲げておけば、届かない国民は『不摂生』だと言える。健康を損ねたのは、本人の努力不足だと」


 兄は、和牛を口に運んだ。


「――それが、統治の効率だよ、麗」


 個室の空気が、冷えた。


 私は、湯呑みを置いた。


「兄様。それは統治じゃないわ」


「ほぅ。。。では何だというのだ?」


「国による、『腸のネグレクト』よ」


 兄の眉が、わずかに動いた。


「届かない数字を掲げて、届かない人を責める。どうすれば届くのか、具体的な道は示さない。国民の腸は、国から放ったらかしにされているのよ」


「ふ、青臭い、感情論だな」


「数字よ」


 私はバッグから、一枚の紙を取り出して、兄のタブレットの横に置いた。


 手書きのグラフだった。

 横軸は日付。縦軸は回数。折れ線が、右肩上がりに伸びている。


「……なんだ、これは」


「私の患者さんの、一日の排便回数の推移よ。食物繊維とプレバイオティクスを足しただけで、三日に一回が、毎朝になった」


 兄は、無言でグラフを見下ろした。


「N=1だ」


「ええ」


「痴れ者が。。。。N=1で、国の政策を語るな」


「兄様のお腹も、N=1よ」


 ――ギチッ。


 ふすまの外で、仲居が小さく咳払いをした。


     ◇ ◇ ◇


「いいか、麗」


 兄は、身を乗り出すように私を睨みつける。


「お前の言う『腸が心を変える』などという話は、根拠のない夢物語だ。腸で作られたセロトニンは、脳には届かん。血液脳関門を通らないからな。医学部の一年生でも知っている常識だ」


「その通りよ」


 私は、あっさりと認めた。


「……何?」


「腸のセロトニンそのものは、脳には届かない。そこまでは一年生の知識。兄様は、そこで止まっているのよ」


 ――ギチ。


「腸内細菌は、セロトニンの材料になるトリプトファンの使われ方を左右している。迷走神経を通じて、脳に直接信号も送っている。そして、菌が食物繊維から作る短鎖脂肪酸は、脳の中の免疫細胞――ミクログリアの成熟や働きにまで関わっていることが分かってきているわ」


 兄は、何も言わなかった。


「脳と腸は、一方通行じゃない。電話みたいに、両方向で話している。腸の声を聞かずに脳だけを動かそうとするのは、相手の返事を聞かずに電話を切り続けるのと同じよ」


「……」


「兄様のその攻撃的な性格も、ひょっとしたら、腸から脳への『お便り』が途絶えているせいかもしれないわね」


 兄の箸が、ステーキの上で止まったまま、動かなくなった。


 そのとき、ふすまが静かに開いた。


「失礼いたします。先付けでございます」


 年配の仲居が、小鉢を二つ置いた。

 季節の野菜の白和えだった。


 私は、仲居を見上げた。


「すみません。このお料理、食物繊維は何グラムかしら」


「……はい?」


「大体でいいの」


 仲居は、一瞬だけ小鉢を見つめた。

 そして、表情ひとつ変えずに答えた。


「........このレシピだと、おそらくは、一・二グラムほどかと存じます」


「さすが、霞が関の料亭ね。ありがとう」


 仲居は一礼して、静かに下がっていった。


 兄が、わずかに口を開けたまま固まっていた。


「……なぜ答えられるんだ、あの仲居は」


「この店、霞が関のお客さんが多いんでしょう? きっと、兄様みたいな人に毎日聞かれているのよ」


 ――ギチ。


     ◇ ◇ ◇


 私はバッグから、小さな紙袋を取り出した。

 中身を白和えの小鉢の横に、さらさらと盛りつける。


 薄く揚げた、きつね色のチップス。


「……何をしている」


「菊芋《きくいも》チップスよ。私の特製」


 兄の顔が、引きつった。


「貴様、料亭に食べ物を持ち込むなど――」


 ふすまが、すっと開いた。


 さっきの仲居が、膝をついてこちらを見ていた。

 小鉢の横の菊芋チップスを一瞥し、深々と頭を下げる。


「――お持ち込みの、菊芋チップスでございます」


 まるで、コース料理の一品のように。


 ふすまが、静かに閉まった。


 兄は、仲居が消えたふすまと、菊芋チップスを、交互に見た。


「……この店は、どうなっている」


「......さすがね、プロの仕事だわ」


 私はチップスを一枚つまみ、兄の皿の上に置いた。


「菊芋には、イヌリンという食物繊維がたっぷり入っているの。腸の菌たちの大好物よ。兄様の、二十二グラムへの第一歩」


「.......食わんぞ」


「........そう」


 私は、自分の分を一枚かじった。

 ぱり、と小気味のいい音が個室に響く。


 兄は、皿の上の一枚を睨んでいた。


 一分。

 二分。


 ――ギチ。


 腹帯が鳴った。

 それが合図だったかのように、兄は苦虫を噛みつぶしたような顔で、菊芋チップスを口に入れた。


 ぱり。


「…………塩が、足りん」


「減塩よ。厚労省の推奨どおり」


 兄は、何も言い返さなかった。


     ◇ ◇ ◇


 店を出ると、霞が関の夜は静かだった。

 黒塗りの車が、兄を迎えに来ている。


 後部座席のドアに手をかけたところで、兄が振り返った。


「麗。一つだけ言っておく」


「何かしら」


「父上は、お前の夜のお遊びを、『まだ』知らないことになっている」


 私は、兄の顔を見た。


 街灯の光が眼鏡に反射して、その奥の目は見えなかった。


「……どういう意味?」


「言葉どおりの意味だ。――知らないことに、してある」


 それだけ言うと、兄は車に乗り込んだ。

 ドアが閉まり、車は静かに走り去っていく。


 私は、その赤いテールランプを、見えなくなるまで見送った。


 兄の言葉の意味を、私はまだ測りかねていた。

 脅しなのか。それとも――。


 ポケットの中で、スマホが震えた。

 見知らぬ番号から、一行だけのメッセージ。


『本日のお会計、菊芋のお持ち込み料を含め、ご兄様より頂戴いたしました。 料亭 霞』


「……持ち込み料、取るのね」


 私は、小さく吹き出した。


 兄の腸は、まだ固い。

 けれど、一枚だけ、扉の隙間にチップスを差し込むことはできた。


 ――国の数字より先に、まず兄様、あなたの腸を立て直してあげる。


挿絵(By みてみん)


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麗の腸活ワンポイント

「食物繊維の目標量」=国の基準では、働き盛りの男性で一日二十二グラム以上、女性で十八グラム以上。

野菜だけで足りないなら、海藻、きのこ、豆、もち麦、そして菊芋。腸の味方は、野菜以外にもいるのよ。

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――次回、第陸話「心、お腹、かさねて」。

心の病は脳の問題――そう言い張る精神科の権威。父の弟、私の叔父様よ。


麗のEvidence Log(参考文献)

・厚生労働省「日本人の食事摂取基準(2025年版)」食物繊維の目標量(18〜64歳)

・O'Mahony SM, et al. (2015) Serotonin, tryptophan metabolism and the brain-gut-microbiome axis. Behavioural Brain Research 277: 32–48.

・Erny D, et al. (2015) Host microbiota constantly control maturation and function of microglia in the CNS. Nature Neuroscience 18(7): 965–977.


※本作はフィクションです。作中の医学的な説明は一般的な研究知見をもとにしていますが、診断や治療の代わりにはなりません。体調に不安がある方は医療機関にご相談ください。


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