第参話 永田町沈没、支持率ゼロの腐敗腸
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来店カルテ No.003
客:青山大臣(厚生労働大臣・次期総理候補)
来店目的:息抜き、という名の逃避
主訴:本人いわく「少し、胃が重い」
零の診察:操り人形腸
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「れ、麗さん……ご無沙汰しております……」
VIP席に着いた私を見るなり、その男は腰を浮かせて頭を下げた。
店の中で、私をその名で呼ぶ客はいない。
源氏名の「零」ではなく、本名の「麗」で。
――この男を除いては。
青山。
この国の厚生労働大臣だ。
永田町では「次期総理候補」と目される若手政治家。国民の健康推進を掲げる清廉潔白なイメージで、テレビに出れば支持率が上がる。
けれど、その政治生命のほとんどは、医師会と、ある一族からの政治献金に支えられている。
御門一族。
私が捨てた――あるいは、私を捨てた家だ。
そしてこの男の実態は、御門一族、特に私の兄・御門彰が書いた「医療利権のシナリオ」を読み上げるだけの、操り人形にすぎない。
私とこの男の付き合いは、古い。
私がまだ子どもだった頃、御門の屋敷で開かれるパーティーに、彼はいつも父の取り巻きの一人として顔を出していた。当時はまだ若手の議員で、会場の隅で誰よりも深く頭を下げていた男だ。
あれから十数年。
頭を下げる相手が父から兄に替わっただけで、彼の姿勢は何も変わっていない。
だからこの男は、店の中でも私を「麗」と呼ぶ。
夜の顔の私ではなく、御門の娘としての私に、頭を下げているのだ。
「麗さん……彰さんから聞いています。あなたが、御門の異端児だと」
青山大臣は、額の汗をハンカチで押さえながら言った。
御門の名前を口にするだけで、声が震えている。
「その異端児を、わざわざ指名してくださるなんて。光栄ね、大臣」
私は脚を組み、テーブルの上を見渡した。
吸いかけの高級葉巻。
そして、店の料理ではない、紙袋に入った「秘密の出前」――油の染みたフライドチキン。
大臣の顔色は、土気色だった。
「青山大臣」
私は、ゆっくりと切り出した。
「彰兄様の操り人形を演じるのは、随分と胃にくるようね」
「……っ」
「あなたのその『清廉潔白なイメージ』は、国民は騙せても、腸内細菌は騙せないわ。その口臭……まるで国会図書館の古びた本棚から漂うカビの匂い。あなたのお腹の中、今、大荒れでしょう?」
フロアが、凍りついた。
大臣の隣に控えていた秘書が、血相を変えて身を乗り出す。
「き、君! 大臣に向かって何を――」
「黙っていて」
私は秘書を一瞥しただけで、視線を大臣に戻した。
秘書は、口を開けたまま固まった。
「国民には『健康寿命を延ばしましょう』と説きながら、自分は兄様に押しつけられるストレスを、ジャンクフードで紛らわせている。そんな崩壊した腸内環境で、どうやってこの国の未来を語るつもり?」
大臣が、膝の上で拳を握りしめる。
「あなたのスピーチ、腸内細菌からすれば『ただの空虚なガス抜き』よ」
◇ ◇ ◇
「……麗さん。私は、どうすればいい」
しばらくの沈黙のあと、大臣がかすれた声で言った。
「支持率は落ちる一方だ。会見では言葉に詰まる。夜も眠れない。……政治家として、もう限界なのかもしれない」
「限界なのは、あなたの腸よ」
私は即答した。
「最後に、自分で選んだものを食べたのはいつ?」
「……え?」
「朝は秘書が用意した会食、昼は弁当、夜は料亭か、こうして隠れて食べるフライドチキン。あなたの一日に、あなたが自分で決めた食事は一食でもある?」
大臣は、答えられなかった。
「スケジュールも、発言も、食事まで。全部、誰かに決められている。あなたの腸は、もう何年も、あなたの都合じゃなく、他人の都合で動かされているのよ。ストレスで腸の動きは乱れ、菌のバランスは崩れ、そこからまた不安と不眠が生まれる。悪循環だわ」
「……そんな」
「あなたが操られているのは、政治だけじゃない。お腹の中まで、すっかり操り人形なのよ」
大臣が、震える手で胃のあたりを押さえた。
図星を突かれた人間の、典型的な仕草だった。
「大臣。あなたが必死に追い求めている『支持率』や『政治力』。それ、実はお腹の中の酪酸菌が作っていると言っても、過言じゃないのよ」
「さ、酪酸菌……?」
大臣が、目を瞬かせる。
「酪酸菌は、プレバイオティクス――食物繊維やオリゴ糖を分解して、短鎖脂肪酸という物質を作る。それが腸から体中に届いて、脳の炎症を落ち着かせる方向に働くの。集中力や判断力を支える土台を、腸の中の菌たちが作っているのよ」
大臣の目が泳ぐ。額には、脂汗がにじんでいた。
「だが……彰さんは言っていた。脳こそがすべてを支配するのだと。私の腸が、国会を動かしているとでも……?」
「兄様は、『統治』のために嘘をついているわ」
私は、きっぱりと言い切った。
「実際には、腸内フローラは免疫の仕組みを通して、脳の働きを調節している。脳と腸は、互いに話し合っているの。腸を無視して脳だけを支配しようなんて、兄様らしい傲慢な発想ね」
「……」
「兄様の台本をなぞるだけの『ガス欠の高級車』では、国民の期待は背負えない。土台の腸が腐った砂上の楼閣に、本物の政策は宿らないのよ」
大臣は、うつむいたまま動かなくなった。
◇ ◇ ◇
私は、ボーイを呼んだ。
「これを、下げて」
テーブルの上の、油の染みた紙袋を指さす。
「あっ……」
大臣が、名残惜しそうな声を漏らした。
構わず、ボーイは手際よくフライドチキンを片づけていく。
代わりに運ばれてきたのは、湯気の立つ小さな茶器だった。
「菊芋とサラシアのミックス・ティー。私の特製よ」
ほうじ茶のような、やわらかな香りが広がる。
「今夜は、これを飲みなさい。これはあなたが兄様の操り人形を卒業して、自分の意志で歩くための――『特別献金』よ」
「特別、献金……」
「腸を整えれば、頭の中の霧も少しずつ晴れていく。そうしたら今度こそ、誰かの台本じゃなく、自分の言葉で国民に語りかけなさい」
大臣は、震える手で湯呑みを受け取った。
両手で包み込むように持ち、しばらく湯気を見つめている。
それから、ゆっくりと一口すすった。
「……温かい」
小さな声だった。
テレビの中で見る、作り物の笑顔とは違う。疲れ切った一人の男の、素の表情だった。
「本当の腸活こそが……政治には、必要なのかもしれないな」
大臣の呟きに、私は何も答えなかった。
代わりに、窓の外――遠く霞が関の方角に、視線を向ける。
(彰兄様。あなたが糸を引くこの大臣も、私の「菌」が、その糸を一本ずつ切り刻んでみせるわ)
「青山大臣」
帰り支度を始めた大臣の背中に、私は声をかけた。
「誰かの台本を読み上げる前に、まず自分の腸を整えなさい。それが、本当の独立よ」
大臣は振り返り、深々と頭を下げた。
「……肝に銘じます」
「それから、明日の朝の便は報告しなさいよ。それが私の『指名料』だから」
「は……はい!」
大臣が、裏返った声で返事をした。
秘書が頭を抱えているのが、視界の端に見えた。
◇ ◇ ◇
午前三時。
閉店後の更衣室で、私はドレスのファスナーを下ろしていた。
そのとき、ポーチの底で、黒い端末が震えた。
家を出てから、一度も鳴らなかった一族専用の端末。
先日も一度だけ震えたが、私は画面を見なかった。
――今夜は、見ることにした。
液晶に浮かんでいたのは、短い一行だった。
『大臣で遊ぶのは、ほどほどにしておけ。――彰』
指先が、ほんの少しだけ冷たくなる。
今夜の会話は、もう兄の耳に届いている。
あの大臣の周りには、兄の目と耳がいくつも張り巡らされているのだろう。
私は端末を伏せ、鏡の中の自分を見つめた。
「……遊んでなんかいないわ、兄様」
鏡に映る女は、笑っていた。
「これは、宣戦布告よ」
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零の腸活ワンポイント
「腸脳相関」=腸と脳が、神経やホルモン、免疫の仕組みを通じて互いに影響し合っていること。
腸の調子が悪いと気分まで沈むのは、気のせいじゃないのよ。
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――次回、第肆話「表層の虚飾、腸内の真実」。
厚化粧の下に隠した、本当の顔。……次の患者は、私の母よ。
零のEvidence Log(参考文献)
・Cryan JF, Dinan TG. (2012) Mind-altering microorganisms: the impact of the gut microbiota on brain and behaviour. Nature Reviews Neuroscience 13(10): 701–712.
・Fung TC, Olson CA, Hsiao EY. (2017) Interactions between the microbiota, immune and nervous systems in health and disease. Nature Neuroscience 20(2): 145–155.
・Braniste V, et al. (2014) The gut microbiota influences blood-brain barrier permeability in mice. Science Translational Medicine 6(263): 263ra158.
※本作はフィクションです。作中の医学的な説明は一般的な研究知見をもとにしていますが、診断や治療の代わりにはなりません。体調に不安がある方は医療機関にご相談ください。




