第弐話 成金解体、腸からの倒産宣告
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来店カルテ No.002
客:五十嵐様(IT企業経営・三十代)
来店目的:成功の誇示
主訴:本人いわく「人生、絶好調」
零の診察:破産寸前腸
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私がフロアに足を踏み入れるだけで、空気の密度が変わる。
新宿・歌舞伎町の頂点に君臨するクラブ「フローラ」。
ざわめいていたテーブルがひとつ、またひとつと静まり、視線がこちらに集まってくる。
フローラ不動のNo.1、零。
――今夜も、回診の時間だ。
「零! 待ってたよ」
VIP席の奥で、若い男が片手を上げた。
五十嵐。
テレビや経済誌でよく見かける、IT界の風雲児だ。三十代にして数千億を動かす若き成功者。高級ブランドのジャケットを無造作に着こなし、白い歯を見せて笑っている。
「今夜は全部開けていいぞ。君にふさわしい、最高の一夜にしよう!」
五十嵐が指を鳴らすと、黒服たちがシャンパンタワーを組み始めた。
グラスが何段にも積み上がり、シャンデリアの光を浴びてきらめく。
周りの客たちから、ため息まじりの歓声が上がった。
けれど私の目には、それが成功の証には見えなかった。
――彼の寿命を少しずつ削り取る、ギロチンの列だ。
私は席に着き、五十嵐の顔をまっすぐに見た。
照明でごまかされているが、肌がくすんでいる。
笑うたびに、かすかな口臭が漂う。
そしてジャケットの下の腹部が、わずかに張っている。
自信に満ちたその瞳の奥に、隠しきれない「淀み」があった。
「五十嵐様」
私は、静かに口を開いた。
「その太っ腹なご提案は嬉しいけれど……あなたのその『くすんだ肌』と『かすかな口臭』。それ、数千億の資産を持っていても、腸内環境は破産寸前だって告白しているようなものよ」
フロアが、凍りついた。
タワーを組んでいた黒服の手が止まる。
隣のテーブルの客が、グラスを持ったまま振り返った。
「……は?」
五十嵐が、笑顔のまま固まる。
構わない。
本当の真実を告げることこそが、私の「指名料」なのだから。
「『高級』なら何でもいいと思っているのが、成金思考の限界ね。あなたの専属シェフ、糖質と脂質であなたの脳を喜ばせることしか考えていないわ。あなたの腸内細菌は今、飢餓状態で暴動を起こしている。その証拠に、お腹、少し張っているでしょう?」
五十嵐は反射的に、自分の腹に手を当てた。
脂っこい食事ばかりが続くと、腸の壁のバリアが壊れていく。
すると、腸内細菌が持つ毒素――LPSが、血液の中に漏れ出してしまう。
五十嵐の肌のくすみは、その「毒の漏洩」の証拠だ。
「な、なんだって……?」
五十嵐が、ようやく声を絞り出した。
「僕は毎日、超高級なジムに通って、専属シェフの料理を食べてるんだぞ! 健康には人一倍、金をかけてるんだ!」
「お金をかけることと、腸を大切にすることは別の話よ」
私が即答すると、五十嵐はむっとした顔で腕時計型の端末を突き出してきた。
「別の話なもんか。見ろよ、これ。睡眠も心拍も歩数も、全部このウェアラブルで管理してる。朝はプロテイン、昼は低糖質のステーキ、夜は会食。サプリも毎日十種類以上飲んでる。僕は、自分の体に投資してるんだ」
「そう。じゃあ聞くけど」
私は、端末の画面を指先で軽く弾いた。
「その中に、腸内細菌のデータはあるの?」
「……え?」
「あなたの体には、自分の細胞の数より多い菌が住んでいる。その子たちが何を食べて、何を作り出しているか。一度でも測ったことがある?」
五十嵐が、言葉に詰まった。
「心拍も歩数も大事よ。でもね、百兆の社員がいる会社で、その社員の給料を一度も確認したことのない社長を、あなたは経営者と呼ぶかしら」
「……」
「肉とプロテインばかりで、野菜も海藻も豆もほとんど食べていない。あなたの腸の社員たちは、もう何か月もタダ働きよ。暴動が起きて当然だわ」
私は、テーブルの端に置かれたボトルに目をやった。
「五十嵐様。あなたが景気よく開けようとしているそのブランデー。アルコール度数四十パーセント。それはあなたの喉を潤す飲み物じゃない。腸の中の善玉菌を根こそぎ焼き払う、『殺菌剤』よ」
「さ、殺菌剤……」
「アルコールは腸内細菌のバランスを乱して、腸の壁を穴だらけにする。そこから漏れた毒が、全身に炎症を起こすの」
私は身を乗り出し、彼の目を覗き込んだ。
「いい? 本当の成功者は、ポートフォリオより先に、自分の中の『百兆の細菌投資』を管理するものよ」
五十嵐は、何も言い返せなかった。
数千億を動かす男が、二十代の女ひとりに、言葉を失っている。
◇ ◇ ◇
私は、ボーイに目で合図を送った。
運ばれてきたのは、銀色のワインクーラー。
五十嵐が期待するように身を乗り出す。
――けれど、私が取り出したのはシャンパンではない。
琥珀色の液体が入った、ラベルのない小瓶だ。
「……なんだ、それ」
五十嵐が、眉をひそめた。
「菊芋から精製した、プレバイオティクス・トニック。私の特製よ」
グラスに注ぐと、ほのかに土の香りが立ちのぼった。
「プレバイオティクスは、腸の中の善玉菌のエサになる成分。これを届けると、善玉菌たちが元気に働いて、腸の壁を守る粘液の層を立て直してくれるの」
「……つまり?」
「つまり、これは酪酸菌への『再投資』よ」
私はグラスを、彼の前にすっと滑らせた。
「あなたのお腹の中で暴動を起こしている百兆の部下たちに、ちゃんとした給料を払ってあげなさい。そうすれば彼らは、あなたのために働き始める。明日の朝、二日酔いで頭を抱える代わりに、少しは澄んだ頭で事業計画を考えられるかもしれないわね」
五十嵐はしばらく、琥珀色のグラスを見つめていた。
シャンパンタワーの横で、泥臭い色をした一杯のトニック。
この店で、こんなものを差し出された客は、きっと彼が初めてだろう。
「……零」
五十嵐が、ぽつりと言った。
「君にそう言われると、この泥臭い液体が、ダイヤより輝いて見えるよ」
そして彼は、震える手でグラスを持ち上げ、一息に飲み干した。
周りの客たちが、息をのんで見守っている。
まるで、何かの儀式のように。
「……な、なんだ、この感じは」
空になったグラスを置き、五十嵐が目を見開く。
「芳醇で……体が、自然と求めてる……」
「当然よ。あなたの腸が、ずっと欲しがっていたものだもの」
私は微笑んで、席を立った。
「ポートフォリオが赤字になる前に、あなたの腸内フローラを『黒字』に立て直しなさい。それから――」
振り返り、最後のひと言を告げる。
「明日の朝の便は、報告しなさいよ。それが私の『指名料』だから」
◇ ◇ ◇
翌日の昼。
地下二階のラボで、私はシャーレに培地を流し込んでいた。
「麗先生、これ見ました?」
スマホを片手に、吉野くんが駆け寄ってくる。
「今、ネットでバズってるんすよ。IT長者の五十嵐って人の投稿」
差し出された画面には、見覚えのある顔写真と、短い一文が並んでいた。
『人生で一番すっきりした朝。今日から腸に再投資する』
いいねの数は、すでに数万を超えている。
「『腸に再投資』って、なんなんすかね。お金持ちの考えることはわからないっす」
吉野くんが首をかしげる。
「……さあ。いい先生に出会ったんじゃないかしら」
私は顔を伏せ、シャーレの蓋を閉めた。
口元がゆるんでいるのを、見られないように。
「先生? なんか、ちょっと嬉しそうっすね」
「気のせいよ。それより吉野くん、昨日頼んだ培地はできてるの?」
「あっ、やべ」
慌てて走り去る背中を見送りながら、私はスマホを取り出した。
メッセージアプリに、未読が一件。
送り主は、五十嵐だった。
『零。出た。……正直、ちょっと泣いた』
思わず吹き出しそうになって、私は口元を押さえた。
『いい報告ね。でも一日で満足しないこと。投資は続けてこそ、でしょう?』
そう返信すると、すぐに既読がつき、短い返事が届いた。
『了解。来週も指名する。腸の決算報告をしに行く』
……経営者は、飲み込みが早い。
私はスマホをしまい、小さく息をついた。
――数千億の資産も、百兆の腸内細菌には勝てない。
夜の街で集めた「改善データ」が、またひとつ増えた。
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零の腸活ワンポイント
「リーキーガット」=腸の壁のバリアがゆるみ、本来は入ってこないはずの毒素が体の中に漏れ出してしまう状態のこと。
脂っこい食事とお酒の飲みすぎは、腸の壁の大敵よ。
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――次回、第参話「永田町沈没、支持率ゼロの腐敗腸」。
次の客は、この国の厚生労働大臣。……あの人の操り人形よ。
零のEvidence Log(参考文献)
・Cani PD, et al. (2007) Metabolic endotoxemia initiates obesity and insulin resistance. Diabetes 56(7): 1761–1772.
・Engen PA, et al. (2015) The gastrointestinal microbiome: alcohol effects on the composition of intestinal microbiota. Alcohol Research: Current Reviews 37(2): 223–236.
・Everard A, et al. (2013) Cross-talk between Akkermansia muciniphila and intestinal epithelium controls diet-induced obesity. Proceedings of the National Academy of Sciences of the USA 110(22): 9066–9071.
※本作はフィクションです。作中の医学的な説明は一般的な研究知見をもとにしていますが、診断や治療の代わりにはなりません。体調に不安がある方は医療機関にご相談ください。




