↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/20

第壱話 プレバイオティクス、覚醒の夜

━━━━━━━━━━━━━━━

来店カルテ No.001

客:鮫島社長(不動産会社経営・五十六歳)

来店目的:見栄

主訴:本人いわく「特になし」

零の診察:見栄っ張り腸

━━━━━━━━━━━━━━━


「……ねぇ、そのシャンパン。抜く前に、自分の腸の『悲鳴』を聞いたことがある?」


 私の一言で、VIP席の空気が凍りついた。


 歌舞伎町、最高級クラブ「フローラ」。

 金曜の深夜一時。シャンデリアの光がグラスの縁で砕け、ピアノの生演奏が笑い声の隙間を埋めている。

 その真ん中で、高級ボトルを自慢げに掲げたまま、不動産会社の鮫島社長が固まっていた。


「……は? 腸?」


 鮫島社長が、間の抜けた声を出す。


「ええ、腸よ」


 私は脚を組み替え、冷たい視線で彼を射抜いた。


 源氏名、零(れい)。

 フローラ不動の指名No.1。


 けれど、それは夜の顔にすぎない。

 私の本当の姿は――既存の医学界に愛想を尽かした、はぐれ消化器内科専門医だ。


 だから私の目は、彼のシルクのスーツもロレックスも見ていない。

 見ているのは、その下にある、荒れ果てた腸内環境だ。


 むくんだまぶた。

 ファンデーションでは隠しきれない、目の下のくすみ。

 ウエストのボタンを苦しそうに押し上げているお腹。

 そして、シャンパンの泡の向こうから漂ってくる、かすかに甘ったるい口臭。


 ――全部、腸からのSOSだ。


 私は、ゆっくりと口を開いた。


「社長、その顔色。典型的な『腸内バリア崩壊(リーキーガット)』のサインが出ているわよ。よくその状態で生きていられるわね」


「お、おい零ちゃん! ここをどこだと思って――」


 慌てる社長の言葉を、私はさえぎった。


「最後に気持ちよく出たのは、いつ?」


「…………三日前、かな」


 社長が、気まずそうに目をそらす。


「でしょうね」


 私は小さくため息をついた。


 隣のヘルプの子が、グラスを持ったまま固まっている。

 遠くの席では黒服が、また始まった、という顔で天を仰いでいた。


 私は身を乗り出し、社長の目をまっすぐに見た。


「教えてあげるわ。今のあなたに必要なのは、高級なシャンパンでも、女との駆け引きでもない。ただ一つ――」


 ピアノの音が、偶然途切れた。


「――腸活よ」


     ◇ ◇ ◇


 私はかつて、ある一族の名を背負っていた。


 日本の医学界の頂点に君臨する、名門中の名門。

 その名を口にするだけで、大学病院の教授たちが背筋を伸ばすような家だ。


 けれど私は、その家の医療に限界を感じていた。

 現代医学は、病気になってから、メスを振るう。

 それは結局、壊れたものの後始末にすぎない。


 つまり、人々の真の健康をつくることは現代医学では不可能なのかもしれないのだ。


 医学の研究に全てを捧げていた私にとって、この絶望は凄まじいものだった。


 しかし、その絶望の淵で私を救ったのは、体の奥深く、大腸に棲む百兆の共生者たち――すなわち、腸内細菌だった。


 そして私は、その名を捨てた。

 ……あるいは、捨てられたのかもしれない。どちらでも同じことだ。


 今の私の拠点は、とある大学の基礎研究棟、地下二階の片隅にある古びたラボ。

 カビ臭い空気と、唸りを上げる年代物の遠心分離機だけが、私の味方だ。


 そこで私は確信した。

 現代人の病の多くは、腸内細菌の多様性が失われること――「ディスバイオーシス」から始まっている。


 私は、目の前の社長に向き直った。


「いい? 腸を見れば、その人の五年後の健康状態が予測できると言っても過言ではないの。病気を抱えた人の腸内細菌は、バランスが大きく崩れていることが、最新の遺伝子解析で次々に突き止められているわ。あなたの腸は今、崩壊のカウントダウンを始めているのよ」


     ◇ ◇ ◇


 VIPルームに場所を移すと、鮫島社長は苦笑いしながら、少し得意げに胸を張った。


「おいおい、物騒なこと言うなよ。乳酸菌なら毎日飲んでるぞ? 秘書に毎朝買わせてるんだ。体には気を使ってるんだよ、俺は」


 私はふっと、冷ややかに笑った。


「無知ね。菌を外から放り込むだけなんて、焼け石に水だわ」


「や、焼け石……」


 絶句する社長に、私は畳みかけた。


「大事なのは、今あなたの体の中にいる善玉菌という名の軍勢に、良質なエネルギー源を供給すること。それが『プレバイオティクス』の本質よ」


 私はドレスのスリットに指を滑らせた。

 社長の喉が、ごくりと鳴る。


 ――期待しているところ悪いけれど、取り出したのは小さなガラスの小瓶だ。


「……なんだそれは」


 社長が、拍子抜けしたように眉をひそめる。


「菊芋(きくいも)イヌリン」


 中で、白い粉がさらさらと揺れた。


 地下のラボで、既存の理論を疑いながら精製を繰り返した、私の唯一の武器。

 あの日――家を出たその日に、最初に完成させた一本だ。


 私は小瓶を光にかざしながら、説明を続けた。


「イヌリンみたいな食物繊維は、人間の消化酵素では分解できない。だから小腸を素通りして、大腸まで届くの。そこで待っているビフィズス菌たちが、これを食べて増える。実際、イヌリンを毎日とってもらった臨床試験で、ビフィズス菌が増えたことが確かめられているわ」


「……食べて、どうなる」


 社長が、いつの間にか身を乗り出している。


「菌たちがこれを発酵させると、短鎖脂肪酸という物質ができる。腸の壁の細胞のエネルギーになって、体の炎症を落ち着かせる方向に働く。あなたの腐りかけた代謝を、内側から立て直すための兵糧よ」


 私は小瓶の蓋を開け、ほんのひとさじ分を、社長のシャンパングラスに落とした。

 金色の泡の中で、白い粉が静かにほどけていく。


「お、おいおい! 俺のシャンパンに何を……!」


 声を上げる社長に、私は涼しい顔で答える。


「今夜だけよ。アルコールは腸のバリアを傷める。だったらせめて、壊すものと一緒に、育てるものも入れなさい」


 私は自分のグラスを持ち上げた。

 中身は、炭酸水だ。私は夜の街で、一滴も酒を飲まない。


 そして、社長のグラスに自分のグラスを軽く当てた。


「社長。あなたを本当に癒すのは、お酒でも、お金でも、女でもないわ。――プレバイオティクスよ」


 社長はしばらくグラスを睨んでいたが、やがて毒気に当てられたように、一気に飲み干した。


「……味、変わらんな」


 空のグラスを見つめて、社長がつぶやく。


「でしょう? 腸の味方は、舌にはやさしいのよ」


 社長が、初めて笑った。

 見栄で固めた笑い方じゃない。少し照れくさそうな、五十六歳の男の顔だった。


 私はネオンの滲む窓の外に目をやり、誰にも聞こえない声でつぶやく。


(……お父様、見ていなさい。あなたがメスで切り取ろうとしているその病気。私はこの夜の街から、善玉菌のエサ=プレバイオティクスひとつで、未然に止めてみせるわ)


 エリートの地位も、あの家の名も、もういらない。

 私はただ、この不夜城に集まる迷える人々の腸を、科学的エビデンスという名の光で照らしたいだけだ。


 私は立ち上がり、社長を見下ろして微笑んだ。


「さぁ社長。明日の朝の便は、報告しなさいよ」


「……は?」


 ぽかんと口を開ける社長に、私は最後の一言を告げた。


「それが私の『指名料』だから」


     ◇ ◇ ◇


 翌朝、九時。

 地下二階のラボに、遠心分離機の低い唸りが響いている。


 そこにいるのは、もう「零」ではない。

 グレーのスウェットに、よれた白衣。ボサボサの髪をひとつにまとめ、黒縁の眼鏡をかけた女が、顕微鏡にかじりついている。


 ――昼の私だ。


「……ふふ。いい子ね。今日もよく増えてる」


 シャーレの中の菌に話しかけていると、背後でドアが開いた。


「おはようございます、麗先生。……って、また徹夜っすか?」


 コンビニ袋を提げて入ってきたのは、助教の吉野くんだった。

 この研究室で、私のほかに唯一まともに働いている人間である。


「徹夜じゃないわ。少し、フィールドワークに出ていただけ」


 私は顕微鏡から目を離さずに答える。


「フィールドワーク? こんな時間まで?」


 吉野くんが、不思議そうに聞き返した。


「ええ。夜にしか採れないデータもあるのよ」


 吉野くんは首をかしげながら、デスクの下を覗き込んだ。


「……先生。なんでここにピンヒールが片方落ちてるんすか」


「研究用よ」


 私は即答した。


「どんな研究っすか」


 拾い上げようとする吉野くんに、私は冷たく言い放つ。


「触ったら、肋骨を折るわよ」


「理不尽!」


 吉野くんが悲鳴を上げた。


 彼が慌てて手を引っ込めたそのとき、白衣のポケットでスマホが震えた。


 鮫島社長からのメッセージだった。


『零ちゃん。出た』


 たった四文字。

 思わず、口元がゆるむ。


『いい報告ね。その調子で続けなさい』


 そう返信してスマホをしまおうとして、私は手を止めた。


 ポーチの底でもう一台、黒い端末が、短く一度だけ震えていた。


 家を出てから、一度も鳴らなかった一族専用の端末だ。

 画面を見ずに、私はそれを伏せる。


「先生? どうかしました?」


 吉野くんが、心配そうに私の顔を覗き込む。


「……なんでもないわ。吉野くん、培地の準備をして」


 遠心分離機が唸る。

 百兆の共生者たちが、今日も静かに働いている。


 ――夜の街で集めたデータは、いつか必ず、あの家の医療をひっくり返す。


 私はやる……いえ、やらなければいけないのだ。医学の未来のため、人々の健康のために。


「腸活による病気にならない世界」の実現を。


 ――私の名は、御門麗(みかどれい)。

 医学の名門を追放された医者にして、歌舞伎町の――腸活キャバ嬢だ。


挿絵(By みてみん)


━━━━━━━━━━━━━━━

零の腸活ワンポイント

「プレバイオティクス」=腸にもともと住んでいる善玉菌の“エサ”になる食べ物のこと。

外から菌を入れる「プロバイオティクス」とセットで覚えておきなさい。

━━━━━━━━━━━━━━━


零のEvidence Log(参考文献)

・Vich Vila A, et al. (2018) Gut microbiota composition and functional changes in inflammatory bowel disease and irritable bowel syndrome. Science Translational Medicine 10(472): eaap8914.

・Gibson GR, et al. (2017) Expert consensus document: The International Scientific Association for Probiotics and Prebiotics (ISAPP) consensus statement on the definition and scope of prebiotics. Nature Reviews Gastroenterology & Hepatology 14: 491–502.

・Holscher HD, et al. (2015) Agave inulin supplementation affects the fecal microbiota of healthy adults participating in a randomized, double-blind, placebo-controlled, crossover trial. Journal of Nutrition 145(9): 2025–2032.

・Koh A, et al. (2016) From dietary fiber to host physiology: short-chain fatty acids as key bacterial metabolites. Cell 165(6): 1332–1345.


※本作はフィクションです。作中の医学的な説明は一般的な研究知見をもとにしていますが、診断や治療の代わりにはなりません。体調に不安がある方は医療機関にご相談ください。


――次回、第弐話「成金解体、腸からの倒産宣告」。

資産数千億の男の腸に、いくらの値がつくのかしら。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。