第拾陸話 境界のフローラ 白衣とドレスの狭間編(急)
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来店カルテ No.016
客:鮫島社長(不動産会社経営・五十六歳/常連)
飛び入り:吉野くん(帝王大学 温水研 助教/招かれざる見学者)
来店目的:社長は「零ちゃんに会いに」、助教は「書類にサインを」
主訴:本人いわく「零ちゅわーん、今日もいいものくれるんでちゅかー?」
零の診察:赤ちゃん返りの幼児退行腸
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「……うそ、だろ」
フローラの入口で、吉野くんは、封筒と肉まんの袋を胸に抱えたまま、石像のように固まっていた。
「あそこにいるの……御門麗先生、なのか……?」
私は、VIPルームを出て、まっすぐ入口へ向かった。
ヒールの音が、大理石の床に響く。
吉野くんの目が、私の頭のてっぺんから、つま先まで、ゆっくりと往復した。
黒のドレス。ほどいた髪。赤い口紅。
昼間の、白いスウェットとボサボサの一つ結びとは、何もかもが違う。
「せ、先生……ですよね……?」
「吉野くん」
私は、声を落とした。
「何をしているの。ここは、あなたの月給を一晩で溶かす男たちが集まる場所よ」
「い、いや、その」
「研究室のノリで入ってくるなんて。相変わらず、リスクマネジメントが欠如しているわね」
「すみませんっ!」
吉野くんは、封筒を差し出した。
「研究費の申請書類なんす。締め切り、明日の朝九時で……。先生のサインが一か所だけ足りなくて、電話しても出ないし、LINEも既読にならないし……」
「それで、どうしてここが分かったの」
「先生の机の引き出しに、メモがあったんす」
吉野くんは、くしゃくしゃのメモ用紙を広げてみせた。
見覚えのある、私の字だった。
『緊急時のみ連絡:歌舞伎町○丁目○番地 フローラ (※夜行性の菌を採取中)』
「……書いたわね、私」
「書いてましたね、先生」
――『先生、一回くらい、その菌見せてくださいよ』
夕方の、吉野くんの声がよみがえった。
まさか、その日のうちに本当に見せることになるとは。
◇ ◇ ◇
「黒服さん。この人を、三番テーブルの端に。私の見学者よ」
「け、見学者っすか」
「立っていると目立つの。座りなさい。それから、その肉まんはしまって」
三番テーブルでは、常連の鮫島社長が、すでに出来上がっていた。
不動産会社の社長、五十六歳。
私がこの店で最初に「診察」した客で、以来、律儀に通ってくれている。
――ただ、最近は、少し様子がおかしい。
「零ちゅわーん! おかえりぃ! 寂しかったヨォ。今日は、VIPルームにこもりっきりで、なかなか、おじさんのテーブルに来てくれないんだものぉ。ねぇ、今日も僕に、いいものくれるんでちゅかー?」
吉野くんが、ソファの端で小さく「ひっ」と声を漏らした。
鮫島社長の顔は、くすんだ黄土色をしていた。
お腹は、スーツのボタンがはじけそうなほど張っている。
そして、ときどき――ぐるるる、と、低い音が鳴る。
「吉野くん、静かにしなさい」
私は、鮫島社長のグラスに、ラベルのない小瓶から、とろりとした琥珀色の液体を注ぎ込んだ。
「特製の、菊芋由来のプレバイオティクス・シロップよ。社長、これを飲んでから、次のお酒にしましょう」
「わぁい、零ちゃんのシロップぅ!」
社長は、子どものようにグラスを両手で抱えて飲み始めた。
私は、吉野くんのほうを振り向かずに言った。
「これは『フィールドワーク』よ」
「ふぃ、フィールドワーク……?」
「社会で成功者と呼ばれる人たちの腸が、どれだけもろいか。毎晩、ここでデータを集めているの。……ほら、突っ立っていないで、社長の『腹鳴』を記録して。今ので、三回目」
「は、はいっ!」
吉野くんは、反射的にリュックからタブレットを取り出した。
研究者の悲しい習性だった。
◇ ◇ ◇
タブレットに数字を打ち込みながら、吉野くんの目の色が、少しずつ変わっていった。
驚きと、恐怖と、それから――研究者の顔に。
「……先生。この社長さんの顔色と、お腹の張り。先生の論文にあった、短鎖脂肪酸が足りなくなって、脳の関所がゆるくなるっていうモデルに……似てないっすか」
シャンパンタワーの光が、タブレットの画面に映り込んでいた。
「ほう」
私は、少しだけ吉野くんを見直した。
「その視点は、悪くないわね。腸の菌が、脳を守る関所の働きに関わっていることは、無菌のマウスで確かめられているわ」
「で、ですよね」
「でも、甘いわ」
私は、鮫島社長の口元に、そっと手をかざした。
「吉野くん。社長の息を、少しだけ嗅いでみなさい」
「えっ」
「研究者でしょう」
吉野くんは、おそるおそる顔を近づけて――すぐに、眉をしかめた。
「……なんか、生臭いっていうか、卵が腐ったみたいな……」
「そう。札束の匂いじゃなくて、腸内腐敗の匂いよ」
私は、静かに続けた。
「肉と脂ばかりで、食物繊維をほとんど食べていない。そうすると、大腸に届いたたんぱく質を、別の種類の菌が腐敗させる。そこで、アンモニアや硫化水素のような、腸にも体にもよくない物質が増えるの。社長のこのぐったりした様子は、お酒だけのせいじゃないわ」
「……だから、プレバイオティクスなんすね」
「ええ。菊芋のイヌリンのような、大腸まで届くフラクタンを食べさせれば、ビフィズス菌のような菌が増えて、腐敗する側の菌を押し返せる。人で確かめた試験もあるわ」
鮫島社長が、空になったグラスを掲げた。
「零ちゅわーん、おかわりぃ」
「社長。次はお水よ。それから、明日は病院で、肝臓の数値も一度診てもらいなさい。顔の色が、気になるわ」
「えぇ〜、零ちゃんが言うなら、行くぅ〜」
――この人も、本当は分かっているのだ。
自分の体が、悲鳴を上げていることを。
◇ ◇ ◇
私は、吉野くんの封筒から書類を抜き取り、テーブルの上でさらさらとサインをした。
「はい。これで、明日の九時に間に合うわね」
「あ、ありがとうございます……!」
それから、ポーチから小さなカプセルケースを取り出して、吉野くんの手に握らせた。
「これは?」
「プレバイオティクスのカプセル。試供品よ。残業続きのあなたへの、福利厚生」
「ふ、福利厚生……」
「その肉まんだけで夜を越すつもりなら、せめて菌にもエサをあげなさい。……それから」
私は、吉野くんの耳元に、顔を寄せた。
「温水研の講師が、夜は歌舞伎町でキャバ嬢をしている――なんて学会に知れたら、査読どころの騒ぎじゃなくなるわ。分かるわね」
吉野くんの背筋が、ぴんと伸びた。
「……はい! 墓場まで持っていきます!」
「声が大きい」
「すみませんっ!」
吉野くんは、それから少しだけ顔を赤くして、私を見た。
「でも、先生……」
「何?」
「その、ドレス……めちゃくちゃ、似合ってます。昼間の百倍くらい、迫力があって……それに……綺麗っす」
私は、一秒だけ黙った。
「……バカなこと言ってないで、研究室に帰りなさい。今夜のデータの解析と、あなた自身の腸活をしなさい!」
「は、はいっ!」
吉野くんは、封筒とカプセルを胸に抱えて、何度も頭を下げながら、出口へ向かった。
――二つの世界の境界線が、今夜、一本だけ揺らいだ。
怖いはずなのに、ほんの少しだけ、楽しいと思ってしまった自分がいた。
◇ ◇ ◇
そのとき。
VIPルームのカーテンが、ふわりと揺れた。
トイレに立った毒島教授が、水のグラスを片手に、通路の途中で足を止めていた。
その視線の先には――零に、何度も深々と頭を下げている、見覚えのある若い男。
「……あれは」
色黒の顔が、ゆっくりと、いぶかしげにゆがんだ。
「温水研の……吉野、か……?」
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零の腸活ワンポイント
「腸内腐敗」=食物繊維が少なく、たんぱく質や脂の多い食事が続くと、大腸でたんぱく質が腐敗型の発酵をして、アンモニアなど体によくない物質が増えやすくなること。
お肉を食べた日は、野菜、海藻、きのこ、豆も一緒に。菌たちを「腐らせる側」ではなく「育てる側」に回しなさい。
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――次回、第拾漆話「境界のフローラ 白衣とドレスの狭間編(終)」。
翌朝の温水研に、毒島教授の怒声が響く。……吉野くん、あなたの腸、さっきから秘密をバラしたくて鳴っているわよ。
♪今回のテーマソング
『境界のフローラ〜白衣とドレスの狭間〜』(第拾肆話〜第拾漆話)
零のEvidence Log(参考文献)
・Braniste V, et al. (2014) The gut microbiota influences blood-brain barrier permeability in mice. Science Translational Medicine 6(263): 263ra158.
・Windey K, De Preter V, Verbeke K. (2012) Relevance of protein fermentation to gut health. Molecular Nutrition & Food Research 56(1): 184–196.
・Gibson GR, et al. (1995) Selective stimulation of bifidobacteria in the human colon by oligofructose and inulin. Gastroenterology 108(4): 975–982.
※本作はフィクションです。作中の人物・団体は架空のものです。作中の医学的な説明は一般的な研究知見をもとにしていますが、診断や治療の代わりにはなりません。顔色や白目が黄色っぽいなど、気になる症状がある方は、早めに医療機関を受診してください。




