第拾伍話 境界のフローラ 白衣とドレスの狭間編(破)
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来店カルテ No.015
客:毒島龍司様(帝王大学医学部 神経行動学研究室 教授)
来店目的:製薬会社様の接待
主訴:本人いわく「脳はなぁ、脳で決まるんだよぉ!」
零の診察:即リジェクト腸
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午後九時。歌舞伎町、クラブ「フローラ」。
VIPルームの扉を開けると、ブランデーの甘い香りと、聞き覚えのある笑い声が流れ出してきた。
「ガハハ! だからねぇ、脳はなぁ、脳で決まるんだよぉ!」
ソファの真ん中で、製薬会社の重役たちに囲まれて、色黒の男がふんぞり返っていた。
昼と同じピンストライプのスーツ。金の腕時計。ただ、ネクタイだけがゆるめられて、小麦色の顔は、お酒でさらに赤黒く染まっている。
毒島龍司。
――ほんの数時間前、私の論文をゴミ箱に叩き込んだ男だ。
「失礼いたします。零です」
「おぉ! キミが噂のNo.1、零ちゃんかぁ!」
毒島教授は、私の顔をまじまじと見た。
一秒。
二秒。
「いやぁ、美人だねぇ! 大学にはこういう子、いないんだよぉ!」
――気づかない。
当然だ。昼の私は、白いスウェットにボサボサの一つ結び。夜の私は、黒のドレスと赤い口紅。
同じ顔でも、人は見たいものしか見ない。
それは、脳の性質だ。
皮肉なことに、この教授の専門分野の。
「さぁさぁ、零ちゃんも飲みなさい! 今夜は製薬会社さんのおごりだからねぇ、シャンパン、どーんと開けちゃおう!」
「ありがとうございます。でも、私はお酒は飲まないの」
「えぇ? キャバクラで?」
「ええ。キャバクラで」
私は、炭酸水のグラスを軽く掲げた。
「私の腸の菌たちが、アルコールを嫌がるのよ。とても繊細な子たちなの」
「ガハハ! 菌が嫌がるぅ? 零ちゃんまで、あの女講師みたいなことを言うんだねぇ!」
――ええ。だって、同じ女だもの。
◇ ◇ ◇
「いやぁ、今日はね、零ちゃん。大学で、ひどい目にあったんだよぉ」
毒島教授は、ブランデーをあおった。
「合同カンファレンスでねぇ、地下室の弱小ラボの女講師が、とんでもない論文を出してきたんだ。腸内細菌で脳を守る、だよぉ? オカルトだよ、オカルト!」
「まあ。それで、どうなさったの?」
「ゴミ箱に捨ててやったよぉ! ガハハ!」
製薬会社の重役たちが、手を叩いて笑った。
「そしたらその女、なんて言ったと思う? 『論文は資源ゴミです、分別をお願いします』だよぉ! 会場が笑っちゃってさぁ! この俺が帝王大学の合同カンファレンスで赤っ恥書かされたんだぞぉ! この毒島がだぞぉ!」
「……ふふ、面白い方ね、その講師さん」
「面白くないよぉ! クソ地味でさぁ、ボサボサでさぁ、スウェットでさぁ!ホント、あれがいわゆる典型的な冴えないリケジョっていうんだろうなぁ! すかん女だゼェ」
――聞こえているわよ。
私は、にっこりと微笑んだ。
「その方、きっと優秀なのね。教授をそこまで本気にさせるなんて」
「はぁ?? 優秀ぅだぁ? ……まあ、アイツのいいところは血統くらいだなぁ。まあ、いくら血統が良くても駄馬は駄馬だがなぁ!!ガッハハハハ!!」
毒島教授は、いつも以上に威勢のいい馬鹿笑いをはじめた。おそらくは医者としての自分の血統に自信がないのだろう。
◇ ◇ ◇
「それでなぁ、零ちゃんよ。私が若いころ、アメリカの学会で基調講演をしたときの話なんだけどねぇ」
「ええ」
「会場が総立ちになってさぁ! ノーベル賞候補の先生が、私の手を握って言ったんだよぉ、『リュージ、君は天才だ』って!」
「まあ、すごい」
十分後。
「零ちゃん、私が若いころ、アメリカの学会で基調講演をしたときの話、したっけ?」
「……いいえ」
「会場が総立ちになってさぁ!」
さらに十分後。
「そういえば零ちゃん、アメリカの学会の話なんだけどねぇ」
私は、グラスの炭酸水をそっと置いた。
「毒島様」
「んん?」
「そのお話、今夜三回目よ」
VIPルームの空気が、ぴたりと止まった。
製薬会社の重役たちが、顔を見合わせる。
毒島教授は、口を半開きにしたまま、固まっていた。
「……さ、三回?」
「ええ。ノーベル賞候補の先生が手を握るところまで、三回とも一字一句、同じだったわ」
◇ ◇ ◇
「毒島様。その顔の赤黒さ、ゴルフ焼けとお酒のせいだけじゃないわ」
私は、毒島教授の顔を、研究者の目で見据えた。
「毎晩の接待のお肉と、強いお酒。それに、権威を守り続けるストレス。お酒をたくさん飲み続けると、腸の菌の顔ぶれが乱れて、腸の壁のすき間がゆるむの。そこから漏れ出した細菌の毒素が、全身に小さな炎症の火をつける」
「な、なんだってぇ……? 腸?」
「ええ。腸よ。毒島様の大好きな、脳の話をしましょうか」
私は、指を一本立てた。
「アルツハイマー病の患者さんでは、腸内細菌の種類が少なくなっていて、顔ぶれも健康な人と違っていた――そんな報告があるの。腸と脳は、迷走神経や、血液に乗った代謝物を通じて、毎日話し合っている。腸の菌が変われば、マウスでは不安や行動まで変わることが分かってきているわ」
「そ、それはマウスの話だろぉ」
「ええ。だから、人で確かめる研究を、誰かがしなきゃいけないのよ」
私は、毒島教授の目をまっすぐに見た。
「たとえば、地下室の、弱小ラボの、地味でボサボサの講師が」
毒島教授の赤黒い顔から、血の気が、すっと引いていった。
「……き、君は」
「なにかしら」
「君、医学部出身か、何かかね……?」
「さあ。キャバ嬢の秘密よ」
◇ ◇ ◇
私は、ボーイに目で合図をした。
運ばれてきた銀のトレイの上に、小さなガラス瓶。
中には、白い粉が詰まっている。
毒島教授が自慢げに頼んだサイドカーのグラスに、私は粉をさらさらと注ぎ込んだ。
「お、おい、零ちゃん、それは何だぁ」
「高濃度の菊芋プレバイオティクス・パウダーよ。腸の菌たちが食物繊維から酪酸を作るための、エサ」
ストローで、くるりとかき混ぜる。
「これは私からの、『夜の査読』よ」
「よ、夜の、査読ぃ……?」
「論文というのはね、読む気のない人には、一行も届かないものなの。でも、これは違うわ。飲めば、あなたの腸が、勝手に最後まで読んでくれる」
私は、グラスを毒島教授の前に滑らせた。
「それから、今夜のお酒は、これで最後。あとはお水にしなさい。あなたの腸の壁を、これ以上ゆるめないために」
毒島教授は、グラスを見つめたまま、ごくりとのどを鳴らした。
製薬会社の重役たちが、固唾をのんで見守っている。
やがて、毒島教授は、震える手でグラスを持ち上げ――一気に飲み干した。
「……ぬるい」
「でしょうね」
◇ ◇ ◇
グラスが空になるころには、毒島教授はすっかりおとなしくなっていた。
製薬会社の重役たちも、どこか毒気を抜かれた顔で、水のグラスを回している。
そのとき、黒服が、そっと私の耳元に顔を寄せた。
「零さん。入口に、ちょっと変わったお客様が……」
「変わった?」
「くたびれたスーツに、リュックを背負って、コンビニの袋を提げていて。『御門麗先生に、どうしてもサインをいただきたい書類がある』と」
私は、グラスを持つ手を止めた。
この店で、私を本名で呼ぶ人間は、ほとんどいない。
VIPルームのカーテンの隙間から、そっと入口のほうをのぞいた。
シャンデリアの下。
分厚い封筒と、肉まんの入ったビニール袋を胸に抱えて、場違いなほど背筋を伸ばして立っている男。
口が、ぽかんと開いている。
その目は、まっすぐ、カーテンの隙間の私を見ていた。
――吉野くんだった。
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零の腸活ワンポイント
「お酒と腸」=たくさんのお酒を飲み続けると、腸内細菌のバランスが乱れ、腸の壁のバリアがゆるんで、体の中で炎症が起きやすくなることが分かってきているわ。
飲む日は、合間にお水を。翌朝は、野菜と海藻のお味噌汁で、菌たちにお詫びのエサを届けなさい。
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――次回、第拾陸話「境界のフローラ 白衣とドレスの狭間編(急)」。
書類と肉まんを抱えた助教が、フローラの入口で固まっている。……吉野くん、私は夜行性の菌じゃないわよ。
♪今回のテーマソング
『境界のフローラ〜白衣とドレスの狭間〜』(第拾肆話〜第拾漆話)
零のEvidence Log(参考文献)
・Vogt NM, et al. (2017) Gut microbiome alterations in Alzheimer's disease. Scientific Reports 7(1): 13537.
・Cryan JF, Dinan TG. (2012) Mind-altering microorganisms: the impact of the gut microbiota on brain and behaviour. Nature Reviews Neuroscience 13(10): 701–712.
・Bishehsari F, et al. (2017) Alcohol and gut-derived inflammation. Alcohol Research: Current Reviews 38(2): 163–171.
※本作はフィクションです。作中の人物・団体は架空のものです。作中の医学的な説明は一般的な研究知見をもとにしていますが、診断や治療の代わりにはなりません。お酒は適量を守り、体調に不安がある方は医療機関にご相談ください。




