第拾肆話 境界のフローラ 白衣とドレスの狭間編(序)
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研究室カルテ No.014
患者:毒島龍司(帝王大学医学部 神経行動学研究室 教授)
来院目的:合同カンファレンスで、私の論文をゴミ箱に捨てた
主訴:本人いわく「ウンコの話は便所でやってくれたまえ!」
麗の診察:企業からの接待ゴルフと飲み会で大荒れのオヤジ腸
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「腸内細菌で脳を守る、だぁ? 基礎医学をなめたオカルトなんだよぉ!」
帝王大学医学部、合同カンファレンス。
大講義室の壇上で、いかにもインテグリティが欠如していそうな色黒の教授が、私の論文の束を振りかざしていた。
毒島龍司。
神経行動学研究室の教授。脳神経の基礎研究では、国内でも指折りの権威だ。
年は五十代の半ば。ゴルフ焼けなのか日焼けサロンなのか分からない、つやつやの小麦色の肌。
後ろになでつけた黒髪は、整髪料で固められて、蛍光灯の光をぎらりと跳ね返している。
仕立てのいいピンストライプのスーツに、袖口からのぞく金色の腕時計。胸ポケットには、製薬会社のロゴ入りのボールペンが三本、きれいに並んで刺さっていた。
研究者というより、テレビショッピングの司会者に近い。
声も、同じくらい大きい。
臨床系二十講座、基礎系八講座。日本最大級の白い巨塔、帝王大学医学部が、年に一度だけ一堂に会する合同カンファレンス。今年のホストは、毒島教授の研究室だった。
テーマは「神経系と多角的視点の医学研究」。
そこに私は、「プレバイオティクスによる神経変性疾患の予防」という演題を出した。
……そして、今、こうなっている。
「プレバイオティクスで認知症を防ぐぅ? エビデンスがSFレベルなんだよぉ! 地下の弱小ラボは、これだから困るんだよぉ!」
会場の後ろのほうで、くすくすと笑い声が起きた。
温水研は、医学部内で最弱のラボと呼ばれている。
そして、そのラボの主である温水教授は、例によって欠席だった。……いたところで、たぶん、なんのやくにもたたないが。
毒島教授は、論文の束を――会場の隅のゴミ箱に、勢いよく叩き込んだ。
ばさっ。
会場に、乾いた笑いが広がった。
「脳はなぁ、脳で決まるんだよぉ! ウンコの話は便所でやってくれたまえ! こんなものを出すとは、医学の名門、「御門」の名が泣くぞぉ。ねぇ、御門講師しぃ!」
最前列の端で、私は静かに手を挙げた。
「毒島教授。一つだけ、よろしいですか」
「なんだぁ?」
「そのゴミ箱、『燃えるゴミ』ですよね」
「それがどうしたぁ?」
「論文は紙ですから、資源ゴミです。分別をお願いします」
会場が、一瞬静まり返った。
「それに――」
私は、ゴミ箱の中の紙の束に目をやった。
「その論文は、燃やしても消えません。いつか必ず、どこかの雑誌に載って、教授の研究室の誰かに引用されて戻ってきます。……ですから、リサイクルのほうに」
どこかで、誰かが吹き出した。
会場の笑いが、別の種類の笑いに変わった。
毒島教授の色黒の顔が、みるみる赤黒くなっていく。
「つ、次の発表に行ぞぉ!」
私は、壇上の教授をまっすぐに見上げた。
「毒島教授。――後悔なさらないことね」
その声は、マイクを通さなくても、会場の端まで届いた。
◇ ◇ ◇
「麗先生……」
カンファレンスのあと、廊下で、吉野くんが青い顔をしていた。
「なんで、あそこで分別の話するんすか……」
「事実を言っただけよ。紙は資源だもの」
「そういう問題じゃないっす! 毒島教授、めちゃくちゃ顔真っ赤でしたよ!」
吉野くんの手には、私の論文の束があった。
ゴミ箱から、拾ってきてくれたらしい。
「……ありがとう、吉野くん」
「いや、これ、ちょっとコーヒーの匂いしますけど」
「菌の匂いよりは、ましね」
◇ ◇ ◇
帝王大学医学部、基礎医学研究棟の地下二階。
大腸機能性研究室――通称、温水研。
窓のない、カビ臭い部屋。
古い培養器のうなる音と、蛍光灯のかすかなちらつき。
ここが、私のもう一つの世界だ。
華やかなドレスを脱ぎ捨て、白いスウェットの上から白衣を羽織る。
ボサボサの髪を一つにまとめて、一日中、顕微鏡と培養皿に向き合う。
夜の私を知る人がこの姿を見たら、たぶん、同一人物だとは気づかない。
私は、嫌気培養のフラスコをゆっくりと揺らしながら、小さく口ずさんだ。
「酸素が嫌いな子も〜♪ 寂しがりやもいるわ〜♪
時間をかけて♪ 咲かせる命の花が、輝くとき〜♪」
「……麗先生。また、その『菌の歌』っすか」
吉野くんが、ピペットを持ったまま、呆れた顔でこちらを見ていた。
「菌の歌?? そんなダサい題名じゃないわ。まだ題名が決まってないだけよ(作詞作曲、御門麗)」
「題名がないなら、菌の歌でいいじゃないっすか。さすがに培養室で歌うのは……」
「あら、この子たちは繊細なのよ。私の歌声を聞くと、プレバイオティクスを分解する効率が、三割増しになるわ」
「……n数は?」
「三回」
「有意差は」
「菌に聞いてちょうだい」
「論文に書けないじゃないっすか、それ」
「だから歌うのよ。論文に書けないことは、歌にするの」
吉野くんは、深いため息をついた。
「学会からは、異端扱いなのに……」
「学会からは異端扱いでも、菌たちは私の良き理解者よ」
◇ ◇ ◇
私の研究テーマの一つは、特定のプレバイオティクスが、腸内細菌を通じて、全身の病気をどこまで防げるのか――その仕組みを解き明かすことだ。
とくに、アルツハイマー病やうつ病のような、脳と心の病。
そして、大腸がんのような、消化器のがん。
それらを、病気になる前に、腸から食い止める。
それが、私が人生をかけて掲げている目標だった。
「でも、麗先生」
吉野くんが、心配そうに言った。
「『プレバイオティクスで病気を防ぐ』なんて言ってたら、また医学部長に呼び出されますよ。もうちょっと、わかりやすいテーマにしませんか」
医学部長、一色権全。
御門家の分家、「一色家」の当主で、帝王大学医学部の人事と予算を一手に握る男。
私は、この半年で、もう三回も医学部長室に呼ばれている。
「呼び出されたら、行くわ。追放されたとはいえ、私は、御門本家の令嬢ですもの。毎回、お茶菓子付よ」
「そこじゃないっす」
「いい、吉野くん」
私は、フラスコを置いた。
「腸内細菌は、ただの消化の助手じゃないわ。あの子たちが食物繊維から作る代謝物は、血液に乗って全身を巡る。脳の働きや、脳を守る免疫の細胞にまで関わっていることが、少しずつ分かってきているの」
「……それは、まあ、否定できないっすね。代謝物が血液脳関門を越えて、脳に影響してる可能性は」
「それだけじゃない。大腸の菌が作る酪酸は、大腸の細胞のいちばんのエネルギー源で、粘膜を守って、炎症やがん化を抑える方向に働く。逆に、肉ばかりで食物繊維の少ない食事が続くと、菌は別の、体に悪い代謝物を作りやすくなる」
私は、吉野くんの目を見た。
「私たちの心も、病気になるかどうかの運命も――かなりの部分を、あの子たちが握っているのよ」
◇ ◇ ◇
私は、インキュベーターの扉を開けて、一枚のシャーレを取り出した。
寒天の上に、小さなコロニーが、星座のように点々と広がっている。
「ごらんなさい、吉野くん」
「……これ、例の株っすか」
「ええ。大腸の粘膜を守る代謝物を作る菌よ。豆のデンプンの中でも、消化されにくいタイプをエサにしたときだけ、こんなに増えたの」
吉野くんが、ごくりとつばを飲んだ。
「この菌、めちゃくちゃ培養難しいって、論文で読んだっすよ。酸素にちょっと触れただけで死ぬって」
「だから、歌うのよ」
「それ関係あります?」
「気持ちの問題よ」
私は、シャーレを光にかざした。
「このシャーレの中には、未来の軍隊がひしめいているわ。病気になってから戦うんじゃない。病気が生まれる前に、腸の中で、静かに勝っておくための軍隊よ」
吉野くんは、しばらくシャーレを見つめていた。
「……麗先生って、ほんと、何者なんすか」
「帝王大学医学部の、ただの地味な講師よ」
「ただの地味な講師は、毒島教授にゴミの分別を説教しないっす」
◇ ◇ ◇
午後六時。
私は、白衣を脱いでハンガーにかけた。
「麗先生、もう上がりっすか」
「ええ。今夜も、外せない用事があるの」
「……また、夜行性の菌っすか」
「そうよ」
「先生、一回くらい、その菌見せてくださいよ」
「そのうちね」
エレベーターの中で、スマホが震えた。
フローラの黒服からの、業務連絡だった。
『本日二十一時、VIP予約一件。製薬会社様の接待です。お連れ様は、帝王大学医学部の教授、毒島様です。先方様より、No.1を指定でのご指名です.....零さん、よろしくお願いいたします』
私は、画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
……今日、私の論文をゴミ箱に捨てた男。
エレベーターの扉が、地上階で開いた。
「――ふ、今夜の患者は、決まったわね」
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麗の腸活ワンポイント
「酪酸」=大腸の菌が、食物繊維などを発酵させて作る短鎖脂肪酸の一つ。大腸の細胞のいちばんのエネルギー源で、腸の粘膜を守る働きがあるわ。
酪酸を作る菌のエサは、野菜、豆、海藻、もち麦、冷ましたご飯。お肉ばかりの日が続いたら、次の食事で、菌たちにも給料を払ってあげなさい。
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――次回、第拾伍話「境界のフローラ 白衣とドレスの狭間編(破)」。
昼に私の論文を捨てた教授が、夜、私にシャンパンを勧めてくる。……まさか、同じ女だとは知らずにね。
♪今回のテーマソング
『境界のフローラ〜白衣とドレスの狭間〜』(第拾肆話〜第拾漆話)
麗のEvidence Log(参考文献)
・Gubert C, Kong G, Renoir T, Hannan AJ. (2020) Exercise, diet and stress as modulators of gut microbiota: Implications for neurodegenerative diseases. Neurobiology of Disease 134: 104621.
・O'Keefe SJD. (2016) Diet, microorganisms and their metabolites, and colon cancer. Nature Reviews Gastroenterology & Hepatology 13(12): 691–706.
・Savignac HM, et al. (2013) Prebiotic feeding elevates central brain derived neurotrophic factor, N-methyl-D-aspartate receptor subunits and D-serine. Neurochemistry International 63(8): 756–764.
※本作はフィクションです。作中の研究データや人物は架空のものです。作中の医学的な説明は一般的な研究知見をもとにしていますが、診断や治療の代わりにはなりません。病気の予防や治療については、医療機関にご相談ください。




