第拾参話 渇望のフローラ 更衣室回診編(終)
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来店カルテ No.013
客:大手商社の重役様(五十代)
来店目的:接待の二次会、という名の一人反省会
主訴:本人いわく「何を飲んでも、味がしない」
零の診察:……今夜の担当は、私じゃないわ
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あのリゾットの夜から、五日が過ぎた。
更衣室の空気が、少しだけ変わった。
誰かが誰かを突き飛ばして鏡を奪うこともない。舌打ちも聞こえない。
理由は、鏡の前に立つ愛莉の顔を見れば分かった。
青白かった頬に、ほんのりと血の色が戻っている。
パサついていた金髪にも、少しだけツヤがある。
目の下のくまは、コンシーラーなしでも、ほとんど目立たなくなっていた。
「……零」
愛莉が、鏡越しに私を呼んだ。
「なに?」
「ちゃんと、食べてるのに。前より、体が軽いの」
愛莉は、自分のお腹にそっと手を当てた。
骨が浮くほど薄かったお腹は、ほんの少しだけ、やわらかい丸みを取り戻していた。
「朝、ちゃんと出るようになった。むくみも、だるさも、減った。……なんで?」
「大麦と菊芋をエサにした菌たちが、腸の壁を修理して、炎症を静めたのよ。あなたの細胞が、腸からもう一度、息をし始めた音ね」
愛莉は、しばらく黙っていた。
それから、くるりとこちらを向いて――深々と、頭を下げた。
「……ありがとう、零様」
更衣室にいたキャストたちが、いっせいに手を止めた。
フローラのNo.2が、No.1に頭を下げている。
「顔を上げなさい、愛莉」
「でも」
「あなたを助けたのは、私じゃないわ。あなたの中にいる、共生者たちよ。私は、エサを運んだだけ」
愛莉は、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、もう少しも尖っていなかった。
「壊した多様性は、一晩じゃ戻らない。根気よく、毎日、エサを届けて、菌たちと契約を結び直していくの。……でも、その目の光があれば、大丈夫よ」
◇ ◇ ◇
開店前の休憩時間。
バックヤードの隅で、愛莉がそっとヒカリの袖を引いた。
「ちょっと、新人」
「は、はいっ! 愛莉さん!」
「……あんた、零に毎朝送ってる、あれ」
「あれ?」
「だから、その……便の、報告」
ヒカリの顔が、ぱあっと輝いた。
「あっ、LINEですね! 形と色と、点数のやつ!」
「声が大きい!」
愛莉が、慌ててヒカリの口を押さえた。
「……点数って、どうやって付けてるの。教えなさいよ」
ヒカリは、愛莉の手をそっとどかして、スマホの画面を見せた。
「えっとですね、形がバナナっぽかったら三十点で、色が黄色っぽい茶色だったら三十点で、するっと出たら二十点で、あと、気分で二十点です!」
「気分って何よ」
「その日の、出たときの達成感です!」
愛莉は、数秒ほどヒカリの画面を見つめた。
それから、自分のスマホを取り出した。
「……今朝のは、たぶん、七十点」
「えー! 初日で七十点はすごいですよ! 私、最初三十点でした!」
「……あんた、意外とやるわね」
「えへへ」
少し離れた場所で、私は聞こえないふりをした。
――私のスマホに届く報告が、明日から二件になる予感がした。
◇ ◇ ◇
その夜。
ヒカリに、大きな転機が訪れた。
「ヒカリさん、三番テーブルのヘルプお願いします」
黒服に呼ばれて向かった先には、一人の客が座っていた。
大手商社の重役。五十代の半ば。
高そうなスーツなのに、肩が落ちている。
顔色は土色で、目は赤く充血していた。
接待の二次会で連れてこられて、取引先が先に帰ったあと、一人だけ取り残されたらしい。
「……いいよ、高い酒を開けてくれて。どうせ、何を飲んでも味がしないんだ」
重役は、力なく笑った。
「毎晩毎晩、会食で、腹に詰め込むだけ。最近は、何を食べても味がしない。高い酒を飲んでも、ちっとも楽しくない。……俺は、何のために働いてるんだろうな」
ヒカリは、すぐにはボトルに手を伸ばさなかった。
代わりに、重役の顔を、じっと見つめた。
――顔色が悪い。目が充血している。たぶん、何日も、まともに出ていない。
零様に、何十回も教わったことだった。
「……あの」
ヒカリは、小さく息を吸った。
「お客様。差し出がましいかもしれないんですけど」
「ん?」
「お客様のお腹の中の、百兆のパートナーが、悲鳴を上げてるんだと思います」
「……百兆の、パートナー?」
「腸内細菌です。お客様が毎晩、お腹に詰め込んでるだけだと、その子たちが、お腹を空かせちゃうんです。そうすると、体も、心も、元気がなくなっちゃうって」
重役は、ぽかんとヒカリを見た。
「だから……今夜は、高いお酒より」
ヒカリは、まっすぐに言った。
「温かいお味噌汁を、一杯、飲んで帰ってほしいです。わかめとか、お豆腐とか、入ったやつ。それで、明日の朝、ちゃんと出たら……たぶん、ちょっとだけ、味がすると思います」
テーブルに、沈黙が落ちた。
キャバクラで、高い酒ではなく、味噌汁を勧めるキャスト。
普通なら、黒服に怒られる場面だ。
けれど、重役は――目を赤くしたまま、ゆっくりと笑った。
「……味噌汁、か」
「はい」
「死んだお袋が、毎朝作ってくれたんだよな。わかめと、豆腐の」
重役は、目元を指で押さえた。
「……君、名前は」
「ヒカリです」
「ヒカリさん。次から、君を指名する」
ヒカリが、固まった。
「えっ」
「この店に来て、初めて『救われた』気がしたよ」
◇ ◇ ◇
「零様ぁぁぁ!」
閉店後の更衣室に、ヒカリが飛び込んできた。
「ほ、本指名! 本指名いただきました! 初めてです!」
「おめでとう、ヒカリ」
「わたし、零様に教わったこと、そのまま言っただけなんです! お味噌汁って! キャバクラで!」
「知っているわ。見ていたもの」
ヒカリが、目をまん丸にした。
「み、見てたんですか!?」
「ええ。あなたが、ボトルより先に、お客様の顔色を見たところから」
私は、ヒカリの頭に、そっと手を置いた。
「あなたが今日つかんだ指名は、優しさだけでもらったものじゃないわ。あなたが自分の腸を整えて、あふれた元気が、あの人のお腹に響いたのよ。腸の乱れは、心の落ち込みや、人とのつながりにも関わっているかもしれない。あなたがあの人に渡したのは、お味噌汁じゃなくて、『もう一度、自分の体を大事にしてみよう』っていう希望よ」
「……零様」
「その指名は、百兆の菌たちが、あなたに贈った勲章よ」
ヒカリの目に、じわりと涙が浮かんだ。
その横で、愛莉が腕を組んで、そっぽを向いていた。
「……まあ、悪くないんじゃない。新人にしては」
「愛莉さん!」
「抱きつかないで!」
◇ ◇ ◇
更衣室の鏡に、三人の顔が並んで映っていた。
フローラ。
腸内細菌の集まりを指す言葉であり、「花畑」という意味の言葉でもある。
この店に咲く花たちは、ずっと、自分を削ることで美しくなろうとしてきた。
けれど、本当の美しさは、自分ひとりでは作れない。
百兆の共生者と、調和すること。
それが、本物の美しさと、人の心に響く力の鍵になる。
――渇望の夜は、終わった。
◇ ◇ ◇
翌日の昼。帝王大学、合同カンファレンス会場。
大講義室の壇上で、白髪まじりの教授が、マイクを握っていた。
「腸内細菌で脳を守る、だぁ? 基礎医学をなめたオカルトなんだよぉ!」
その手には、私が提出した論文の束。
教授は、それを――会場の隅のゴミ箱に、勢いよく叩き込んだ。
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零の腸活ワンポイント
「お味噌汁」=発酵食品の味噌に、わかめや豆腐、根菜などを入れれば、腸の菌たちのエサになる食物繊維もとれる、手軽な腸活メニュー。
高いお酒より、温かいお椀一杯。それが、疲れた夜のいちばんの処方箋よ。
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――次回、第拾肆話「境界のフローラ 白衣とドレスの狭間編(序)」。
昼の私は、ただの地味な講師。……そして、私の論文をゴミ箱に捨てた教授が、今夜、フローラに来るわ。
♪今回のテーマソング
『渇望のフローラ〜愛すべき歌舞伎町の花たちへ〜』(第拾壱話〜第拾参話)
零のEvidence Log(参考文献)
・Sherwin E, Sandhu KV, Dinan TG, Cryan JF. (2016) May the Force Be With You: The Light and Dark Sides of the Microbiota-Gut-Brain Axis in Neuropsychiatry. CNS Drugs 30(11): 1019–1041.
・Schmidt K, et al. (2015) Prebiotic intake reduces the waking cortisol response and alters emotional bias in healthy volunteers. Psychopharmacology 232(10): 1793–1801.
※本作はフィクションです。作中の医学的な説明は一般的な研究知見をもとにしていますが、診断や治療の代わりにはなりません。気分の落ち込みが続く方は、ひとりで抱えずに医療機関にご相談ください。




