第拾弐話 渇望のフローラ 更衣室回診編(破)
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楽屋カルテ No.012
患者:愛莉(フローラNo.2)
来院目的:接客中のふらつき
主訴:本人いわく「食べたら、終わりなの」
零の診察:食欲ハイジャック腸
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昼の十二時。帝王大学、地下二階のラボ。
私は、炊き上がった大麦を、刻んだ菊芋と一緒に鍋でことことと煮ていた。
ブイヨンは控えめ。塩は、ひとつまみ。仕上げに、冷ましておいたもち麦を少し。
ふたを閉めたタッパーを、作業台の端に置いて、私は顕微鏡に戻った。
「あ、麗先生、お昼作ってくれたんすか! いただきまーす」
「待ちなさい、吉野くん」
遅かった。
振り返ったときには、吉野くんはもう、スプーンを口に入れていた。
「……うまっ。なんすかこれ。地味なのに、うまい」
「それは、あなたのお昼じゃないわ」
「えっ」
「ある人の、処方箋よ」
「処方箋って……リゾットっすよね、これ」
「リゾットの形をした、処方箋よ」
吉野くんは、スプーンをくわえたまま固まった。
「……誰の、っすか」
「秘密」
「先生、最近ほんと秘密多いっすよね……」
私は、二口分減ったタッパーのふたを、静かに閉め直した。
◇ ◇ ◇
その夜。フローラのフロア。
VIP席から戻ってきた愛莉の足が、通路の途中で、ふっともつれた。
「愛莉さん!」
トレイを持っていたヒカリが、とっさに肩を支える。
愛莉は、その手を乱暴に振り払った。
「触らないで。……ちょっと、ヒールが引っかかっただけ」
そう言って、愛莉は更衣室のほうへ消えていった。
顔色が、悪すぎた。
ファンデーションの下で、唇まで白くなっている。
私は、ヒカリに目で合図をした。
ヒカリは小さくうなずいて、バックヤードの冷蔵庫へ走っていった。
◇ ◇ ◇
更衣室の扉を開けると、愛莉が鏡の前で、小さな銀色のシートから錠剤を押し出していた。
二粒。三粒。
水も飲まずに、そのまま口に放り込む。
「……何を、飲んだの」
愛莉の肩が、びくりと跳ねた。
「関係ないでしょ」
化粧台の上に、派手なパッケージの箱が転がっていた。
『ハラペコ・ヴァニッシュ 〜食べたら負けラムネ〜』
蛍光の緑と紫。
SNSの広告で最近よく見る、「飲むだけで、食べたい気持ちが消える」とうたう、話題の限定サプリだ。
私は、箱を裏返した。
成分表示の一番下。
小さく、三つ並んだ「X」のロゴ。
――また、このマーク。
私は、表の成分表示に目を戻した。
食欲を抑えるとうたう成分と、刺激性の下剤になる植物の抽出物が、並んで書かれていた。
「愛莉。これを、いつから飲んでいるの」
「……先週から」
「一日何粒?」
「……決まってない。お腹が空いたら、飲むの」
――お腹が空くたびに。
つまり、一日中だ。
「あなた、この前のビョウデル茶を捨てられたから、今度はこっちに乗り換えたのね」
「だって!」
愛莉が、振り返った。
目が、真っ赤だった。
「結果を出さなきゃいけないのよ! あなたに勝つためには、もっと細く、もっと白くならなきゃいけないの!」
◇ ◇ ◇
「愛莉さん……!」
扉の陰から、ヒカリが顔を出した。
両手で、タッパーを大事そうに抱えている。
「新人のあんたは、黙ってて」
「黙りません! だって愛莉さん、さっき倒れそうだったじゃないですか!」
ヒカリの声が、震えていた。
私は、愛莉の手から、銀色のシートをそっと抜き取った。
「返して!」
「返さないわ」
「あんたに分かるの? 食べたら太る。太ったら、お客が離れる。お客が離れたら、私には何も残らない。その怖さが、あんたに分かるの!?」
愛莉の声が、更衣室の天井にぶつかって、跳ね返った。
私は、少しだけ間を置いてから、静かに言った。
「愛莉。その『怖さ』の一部は、あなたの根性の問題じゃないわ」
「……は?」
「あなたのお腹の中で、百兆の菌が、飢えているの」
私は、銀色のシートを指先でつまんで見せた。
「エサをもらえない腸の菌たちは、生き残るために、宿主に『早く何か食べろ』と信号を送ってくる。甘いもの、脂っこいもの、すぐにエネルギーになるものを欲しがるように。腸の菌が、食べたいものの好みにまで口を出しているかもしれない――そういう仮説を立てた研究者もいるのよ」
「……そんなの」
「だから、あなたは今、自分の食欲と戦っているつもりで、本当は、自分のお腹の中の飢えた住人たちと戦っているの。薬で頭を麻痺させても、その飢えはごまかせないわ」
◇ ◇ ◇
「それに、もう一つ」
私は、鏡越しに愛莉の目を見た。
「無理な食事制限で痩せた体は、元に戻りやすい。マウスの研究では、太ったあとに痩せさせても、腸の菌の顔ぶれがしばらく『太っていたころ』の状態を覚えていて、次に食べたとき、前より早く太り直したの」
「……覚えてる? 菌が?」
「ええ。リバウンドは、意志が弱いからじゃない。飢えさせられた体と菌の、生き残るための逆襲よ」
愛莉は、何も言い返さなかった。
ただ、両手で自分のお腹を抱えるようにして、小さく震えていた。
「この錠剤と、下剤を毎日飲み続けたら、腸は自分の力で動くことを忘れていく。そして、ある日、本当に食べられなくなるか、止まらなくなるか、どちらかよ」
私は、銀色のシートと箱を、ゴミ箱に落とした。
かさり、と軽い音がした。
◇ ◇ ◇
「ヒカリ」
「はいっ!」
ヒカリが、タッパーのふたを開けた。
湯気はもう立っていなかったけれど、大麦と菊芋の、やさしい匂いが広がった。
「大麦と菊芋のリゾットよ。大麦の食物繊維と、菊芋のイヌリン。どちらも、腸の菌たちの大好物。菌がちゃんと食べられれば、偽物の空腹の信号は、少しずつ静かになっていく」
「……こんなの、食べたら」
「太らないわ。少なくとも、あなたが毎晩飲んでいるシャンパン一杯より、ずっと軽い」
「ちょっと、二口分減ってません?」
ヒカリが、首をかしげた。
「……味見よ」
私は、目をそらした。
愛莉は、タッパーを見下ろしたまま、長いあいだ動かなかった。
やがて、震える手で、スプーンを取った。
一口。
それから、もう一口。
三口目で、愛莉の目から、大粒の涙がこぼれた。
「……なんで」
声が、かすれていた。
「なんで、こんな地味なのが、おいしいのよ……」
「あなたの体が、ずっと欲しがっていたからよ」
愛莉は、スプーンを握ったまま、声を殺して泣いた。
ヒカリが、そっと愛莉の背中に手を置いた。
今度は、振り払われなかった。
「拒食と過食のループを断ち切れるのは、意志の力じゃないわ。百兆の共生者との、調和だけ」
「零さま! 『調和』ですね!」
ヒカリが、なぜか拳を突き上げた。
「……そこは、今、叫ぶところじゃないわ」
「えっ、違いました!?」
愛莉が、泣きながら、少しだけ吹き出した。
◇ ◇ ◇
閉店後。
ゴミ箱の底の、蛍光色の箱が、目の端に引っかかっていた。
三つ並んだ「X」。
結愛のグミ。愛莉のお茶。そして、この錠剤。
――偶然にしては、私の周りに、多すぎる。
私はスマホで箱の写真を一枚だけ撮り、更衣室の電気を消した。
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零の腸活ワンポイント
「リバウンド」=極端な食事制限のあと、体重が元に戻ったり、前より増えたりすること。
マウスの研究では、痩せたあとも腸の菌が「太っていたころ」を覚えていて、太り直しを早めることが分かってきたわ。痩せるなら、削るより、育てなさい。
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――次回、第拾参話「渇望のフローラ 更衣室回診編(終)」。
涙のリゾットから数日。……新人のヒカリに、初めての本指名が入ったわ。
♪今回のテーマソング
『渇望のフローラ〜愛すべき歌舞伎町の花たちへ〜』(第拾壱話〜第拾参話)
零のEvidence Log(参考文献)
・Alcock J, Maley CC, Aktipis CA. (2014) Is eating behavior manipulated by the gastrointestinal microbiota? Evolutionary pressures and potential mechanisms. BioEssays 36(10): 940–949.
・Thaiss CA, et al. (2016) Persistent microbiome alterations modulate the rate of post-dieting weight regain. Nature 540(7634): 544–551.
※本作はフィクションです。作中の商品は架空のものです。作中の医学的な説明は一般的な研究知見をもとにしていますが、診断や治療の代わりにはなりません。食欲を抑えるとうたうサプリや下剤を、自己判断で飲み続けるのはとても危険です。食べることや体型のことでつらいと感じている方は、ひとりで抱えずに、医療機関や専門の相談窓口に相談してください。




