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第拾壱話 渇望のフローラ 更衣室回診編(序)

━━━━━━━━━━━━━━━

楽屋カルテ No.011

患者:愛莉(フローラNo.2)

来院目的:更衣室の鏡の奪い合い

主訴:本人いわく「一週間、完璧にデトックスしてるの」

零の診察:ゾンビグリーン×ポイズンパープルの枯渇腸

━━━━━━━━━━━━━━━


夜の帳《とばり》が下りるころ、私はまったく別の戦場に立つ。


 夕方六時。帝王大学、地下二階のラボ。

 最後のシャーレを培養器にしまい、白衣を脱いでハンガーにかける。


「あれ、麗先生、もう上がりっすか?」


「ええ。今夜は、外せない用事があるの」


「最近、いつも六時ぴったりに消えますよね。……まさか、彼氏っすか」


「菌よ」


「……は?」


「夜にしか採れない、貴重なサンプルがあるの」


「夜行性の菌なんて、いるんすか」


「いるのよ。歌舞伎――」


 私は、口を閉じた。


「かぶき?」


「……世の中には、という意味よ。吉野くん、明日の朝の培地、よろしくね」


「了解っす。……あと先生、指から菊芋の匂いしますよ」


「香水よ」


「絶対違うっす」


     ◇ ◇ ◇


 午後八時。新宿・歌舞伎町、最高級クラブ「フローラ」。


 一族を捨てた私が、研究費を稼ぐため――そして、本物の腸活研究のための臨床フィールドワークの場として選んだ店だ。


 ここでは、酒とストレスと、ゆがんだ美意識が、人々の腸内フローラを毎晩むしばんでいる。


 更衣室の鏡の前で、私は髪をほどいた。

 ドレスに袖を通し、最後に口紅を引く。


 帝王大学医学部の講師、御門麗は、ここで終わる。


 鏡の中にいるのは、フローラ不動のNo.1――零《れい》だ。


「ちょっと、そこ。邪魔よ」


 鋭い声が、更衣室に響いた。


「新人の分際で、鏡を独占しないでくれる?」


 隣の鏡で準備をしていた新人のヒカリが、肩を突き飛ばされてよろめいた。


「す、すみません、愛莉さん……!」


 割り込んできたのは、愛莉。

 フローラのNo.2だ。


 モデルのような長い手足。小さな顔。

 けれど、自慢の金髪は、最近どこかパサついて見える。


「チッ。これだから『零信者』は」


 愛莉は、鏡越しに私を見た。


「あら、失礼。いたのね、零。今日もお綺麗で、絶好調みたい。……でも、そんなに食べてばかりで大丈夫?」


「何の話かしら」


「さっき、まかないのおにぎり、二つも食べてたでしょ」


 愛莉は、くるりとこちらに体を向けた。

 そして、ドレスの裾をたくし上げて、お腹を見せつけた。


「私はこの一週間、スムージーとサプリだけ。完璧に『デトックス』してるの。ほら、ウエストもこんなに細くなって」


 あばらの浮いた、薄いお腹だった。


「零。あなたの時代も、そろそろ終わりじゃない?」


 更衣室の空気が、ぴりっと張りつめた。


     ◇ ◇ ◇


 私は、鏡越しに愛莉を一瞥した。


 青白い肌。

 コンシーラーで隠しきれない、目の下のくま。

 そして、化粧台の上に、ペットボトルが一本。

 中身は、紫と緑がまだらに渦を巻いたまま、決して混ざり合おうとしない液体だった。


『お通じビョウデル茶 〜ゾンビグリーン×ポイズンパープル味〜』


 ――お茶の色ではない。

 それに、裏ラベルの隅に小さく刷られた、三つ並んだ「X」のロゴ。

 ……結愛が昔食べていたグミと、同じマーク。「XXX(トリプルエックス)社」だ。


「愛莉。それ、何味?」


「……ゾンビとポイズン」


「味を聞いているのよ」


「だから、ゾンビグリーン×ポイズンパープル味。限定なの」


「限定にしないと、売れない色ね」


 愛莉が、むっとした顔でボトルを抱え込んだ。

 私は、その薄いお腹に、視線を戻した。


「愛莉。そのお腹、中身は空っぽでも、腸の中は細菌たちの『死体置き場』になっているわよ」


「……は?」


「その『ビョウデル茶』。刺激性の下剤の成分が入っているわ。腸を無理やり動かして、出しているだけ。デトックスなんかじゃない。ただの、追い出しよ」


 愛莉の眉が、ぴくりと動いた。


「食べ物が入ってこない。入ってきても、すぐに押し流される。そんな腸には、菌が住めないの。栄養を吸収する小さな突起――絨毛もやせ細って、腸は草一本生えない荒れ地になっていく」


「な、なによ、いきなり」


「マウスの研究では、食物繊維の少ない食事が続くと、腸の菌の種類がどんどん減っていった。しかも、それが子や孫の代になるほど積み重なって、エサを戻しても、もう戻らない菌が出てきたのよ」


 私は、ゆっくりと振り返った。


「愛莉。あなたの腸は今、大絶滅の真っ最中よ。菌はいなくなって、残っているのは荒れた粘膜だけ。そのお茶と同じ――ゾンビグリーン×ポイズンパープルの、枯れ果てた腸よ」


「く……っ」


 愛莉の唇が、わなわなと震えた。


「ちょっと人気があるからって、偉そうに! 科学者ぶった能書きはやめて。私は現に、こうして痩せて、お客を呼んでるのよ!」


     ◇ ◇ ◇


「『痩せたい』から食べない。ナンセンスの極みね」


 私は、化粧台に腰を預けた。


「腸の中には、食物繊維を食べて短鎖脂肪酸を作り、代謝を助けてくれる菌たちがいる。俗に『痩せ菌』なんて呼ばれる子たちよ。でも、その子たちは、エサがなければ働けない」


「エサって……」


「あなたが目の敵にしている炭水化物。その中に含まれている、消化されにくい食物繊維や、レジスタントスターチ。それが、あの子たちのお給料なの」


 私は、指を一本立てた。


「お給料も払わずに、社員を奴隷みたいに働かせようとするなんて。ブラック企業の経営者より、たちが悪いわ」


 ヒカリが、思わず小さく吹き出した。

 愛莉に睨まれて、慌てて口を押さえる。


「太っている人と痩せている人で、腸の菌の顔ぶれが違うことは、もう二十年近く前から研究されているわ。そして、無理な食事制限は、かえって『太りやすい菌』を有利にすることがある。体が飢えに備えて、少しのエサからでもエネルギーを溜め込もうとするのよ」


「…………」


 愛莉の顔から、余裕が消えていた。


 そのとき。


 ――きゅるるるるる。


 愛莉のお腹から、鋭い音が鳴った。


 愛莉の顔が、さっと青くなった。

 さらに白くなり、最後に、紙のような色になった。


「……ちょっと、失礼」


 愛莉は、ドレスの裾をつかんで、更衣室の奥のトイレに駆け込んでいった。


 ばたん、と扉が閉まる。


 更衣室に、沈黙が落ちた。


「……ヒカリ」


「は、はい」


「今日、何回目?」


 ヒカリは、指を折って数えた。


「……三回目、です。出勤してから」


「そう」


 私は、紫と緑のペットボトルを手に取った。


「これが、『ビョウデル』の正体よ」


     ◇ ◇ ◇


「零様の、言う通りです」


 ヒカリが、ぎゅっと拳を握った。


「私、零様に言われて腸活を始めてから、あんなに悩んでた肌荒れが、消えたんです。毎朝ちゃんと出るし、体も軽くなって。……零様の言葉は、私たちを助けるための『処方箋』なんです」


 まっすぐな目だった。


 ヒカリは、私の「菌の哲学」を、最初に信じてくれた子だ。

 私にとっての、最初の弟子。


「ヒカリ。弟子にした覚えはないわよ」


「え?? うそ??」


 ヒカリは、本気で目を丸くした。


「なってますよね?? だって私、毎朝、零様に便の報告LINE送ってますよ? 形と色と、あと点数も」


「……それは、ただの報告よ、あと写メは.....毎回は不要よ.....」


「えー、じゃあ、弟子じゃなかったら何なんですか、私」


「……患者さん、かしら」


「やったー! 昇格だ!」


 どちらが上なのかは、聞かないでおいた。


 トイレの扉が開いた。


 愛莉が、壁に手をつきながら戻ってきた。

 額には、うっすらと汗が浮いている。


 私は、愛莉の手からビョウデル茶を取り上げた。


「ちょ……あ、あなた、いきなり何すんのよ!」


 答えずに、更衣室の流しで、キャップをひねる。

 紫と緑のまだらが、ごぼごぼと音を立てて、排水口に吸い込まれていった。


「限定なのに!」


「限定でよかったわ。二度と手に入らないもの」


 私は、自分の炭酸水のボトルを取り出し、ポーチから小さな袋を開けた。


 高純度のキクイモイヌリン・パウダー。


 さらさらとボトルに流し込み、キャップを閉めて、軽く振る。

 澄んだ水の中で、白い粉がゆっくりと溶けていった。


「これが、本当の美しさを作る『肥料』よ」


「明日から、鳥のエサみたいなサプリはやめなさい。根菜たっぷりの野菜と、このプレバイオティクスを、少しずつ。最初は、ほんのひとさじから。荒れた腸に、急にたくさん入れたらお腹が張るから」


「…………」


「あなたのそのカサカサの肌に潤いをくれるのは、高い美容液じゃないわ。腸の菌たちが作るビタミンや、短鎖脂肪酸なのよ」


 愛莉は、私の手の中のボトルを見下ろしたまま、黙っていた。


「いいから、飲みなさい」


 私は、ボトルを愛莉の手に握らせた。


「悪いようには、しないわ」


     ◇ ◇ ◇


 開店のベルが鳴った。


 キャストたちが、次々と更衣室を出ていく。

 ヒカリも、私に小さく頭を下げて、フロアへ向かった。


 最後に残った愛莉は、ボトルを持ったまま、鏡の前に立っていた。


「愛莉」


 更衣室を出る前に、私は振り返らずに言った。


「勘違いしないで。私は、あなたとNo.1を競っているんじゃない。私は、自分の中にいる百兆の菌と対話しているだけ」


「……」


「あなたに私を追い越すチャンスがあるとしたら、それは、あなたが自分の腸内細菌と和解できたときだけよ」


 扉を閉める直前、鏡の中の愛莉と、目が合った。


 その目は、まだ、少しも笑っていなかった。


 ――ふん。何を、医者ぶって。

 ――ここでは、医学なんて通じないってこと、分からせてあげる。


 そんな声が、聞こえた気がした。


 閉じた扉の向こうで、ごとん、とペットボトルがゴミ箱に落ちる音がした。


挿絵(By みてみん)


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零の腸活ワンポイント

「腸内細菌の大絶滅」=食物繊維の少ない食事が続くと、腸の菌の種類が減り、なかには元に戻りにくくなる菌もあるという考え方。

痩せるために食べないのは、腸の住人を追い出すのと同じよ。「痩せる」とうたうお茶やサプリは、飲む前に必ず成分表示を確かめなさい。

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――次回、第拾弐話「渇望のフローラ 更衣室回診編(破)」。

ゴミ箱に捨てられた、私のボトル。……愛莉、あなたが次に手を伸ばしたのは、もっと危ない「近道」だったのね。


零のEvidence Log(参考文献)

・Sonnenburg ED, et al. (2016) Diet-induced extinctions in the gut microbiota compound over generations. Nature 529(7585): 212–215.

・Ley RE, et al. (2006) Microbial ecology: human gut microbes associated with obesity. Nature 444(7122): 1022–1023.


※本作はフィクションです。作中の医学的な説明は一般的な研究知見をもとにしていますが、診断や治療の代わりにはなりません。下剤や「痩せるお茶」の常用、極端な食事制限はとても危険です。食べることや体型のことでつらいと感じている方は、ひとりで抱えずに、医療機関や専門の相談窓口に相談してください。


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