第拾話 神の手の失墜、砂漠の残照
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往診カルテ No.010
患者:御門厳一郎(御門一族総帥、 外科医「神の手」/私の父)
来院目的:兄からの、脅迫に近い招待状
主訴:本人いわく「臓器は、精神力で屈服させるものだ」
麗の診察:神の手届かずのカラカラ砂漠化腸
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二度と、この冷たい廊下を歩くことはないと思っていた。
深夜一時。御門総合病院、最上階。
消毒液の匂い。磨き上げられたリノリウムの床。足音だけが、やけに大きく響く。
あの日、父から「御門の名を汚す異端児」と言い渡されて、私はこの病院の敷居と一緒に、父との縁も断ち切ったはずだった。
私をここへ呼び戻したのは、父本人ではない。
『ここ最近、父上が手術を前に、執刀不能なまでの体調不良に陥っている。お前の「泥遊び」が、もしこの事態を救えるというなら、一度だけチャンスをやる。――彰』
一族専用端末GENPAKUに届いた、兄からの「招待状」。
招待というより、ほとんど脅迫状だった。
――ギチ。
廊下の角の向こうで、聞き覚えのある音がした。
私は、足を止めずに言った。
「隠れるなら、腹帯を外してからにしなさい、兄様」
返事はなかった。
ただ、もう一度だけ、小さく「――ギチ」と鳴った。
◇ ◇ ◇
院長室の扉を、二度叩いた。
「……入れ」
低い声だった。
部屋の奥、巨大なモニターの前に、父が座っていた。
画面には、立体的に映し出された人間の肝臓。その上を、手術器具のCGが滑らかに動いている。
御門厳一郎。
元帝王大学医学部長にして、御門総合病院院長、そして現御門一族の総帥。「神の手」と呼ばれる外科医でありあらゆる意味で日本医学会の頂点である。
「……誰かと思えば、麗か」
父は、モニターから目を離さなかった。
「彰の差し金だな。あいつめ、余計な真似を」
「お久しぶりでございます、お父様」
「私は今、明日の『帝国肝切除術』のシミュレーション中だ。些末な雑音に割く時間は、一秒たりともない」
その声には、かつての鋼のような張りがなかった。
かすかにかすれ、焦りがにじんでいる。
そして、マウスを握る右手。
――レセプションの夜と、同じだ。
指先が、ほんのわずかに、震えている。
◇ ◇ ◇
「お父様」
私は、デスクの前に立った。
「あなたの『神の手』も、一族を統べる誇りも、あなたの腸の中では、まったくの無力よ」
マウスの動きが、止まった。
「明日の大手術。その重圧で、今夜もあなたの腸は砂漠のように干上がっている。そして、手術の最中に『もしも』が起きることを、何より恐れているんでしょう?」
父は、何も言わなかった。
この人は、昔からそうだった。
不規則な長時間労働も、極限のストレスも、すべて「精神力」でねじ伏せてきた。
正直まところ、私はこの人以上にタフな医者を見たことがない。
「臓器は、意志で屈服させるものだ」
幼い私に、父はそう言った。
私は、その言葉を信じて育った。
――信じて、そして、裏切られた。
「精神力で病を制御できるというのは、外科医の傲慢な幻想よ。強いストレスは、腸の壁のすき間を広げ、腸内細菌を乱し、過敏な腸をさらに悪化させる。お父様の腸は今、内戦状態だわ。善玉菌は壊滅して、腸の壁の守りはがたがた。わずかな刺激で自律神経がパニックを起こす」
「なにを、馬鹿げた戯言を」
父が、初めてこちらを見た。
「この私に、腸の異常だと?」
「ええ。お父様、百兆の共生者の声に、今こそ耳を傾けてください」
父の目が、私の手元に落ちた。
フローラ仕様に整えた、淡い色のネイル。
父は、一瞬だけ眉を動かした。
けれど、何も言わなかった。
――知らないことに、してある。
兄の言葉が、頭の中でよみがえった。
◇ ◇ ◇
「……ふん」
父は、椅子の背にもたれた。
「医学とは、不具合を排除する『秩序』だ。異物は切除し、菌は殺し、乱れは正す。菌という名の異物に運命を委ねるなど、外科医の末裔として恥を知れ」
「いいえ、お父様。その菌たちこそが、脳のストレス反応を左右しているの。腸と脳は、双方向に話をしている。腸の菌が乱れれば、ストレスへの耐性も変わる。あなたのような、極限の集中力が必要な人間ならなおさらよ」
私は、静かに続けた。
「抗生物質と無菌室で世界を塗り固めようとする御門の医学こそ、この病院を、一族を、砂漠に変えていく『病巣』だわ」
父のこめかみに、青い筋が浮いた。
そのとき、私は、デスクの端に置かれたものに気づいた。
メロンパンだった。
「……お父様。それは?」
「夜食だ。脳には糖が要る」
「一つだけ?」
父は、答えなかった。
私は、いつも父が間食を入れておく、デスクの一番下の引き出しを開けた。
メロンパンが、七つ、整然と並んでいた。
「…………」
「…………」
院長室に、沈黙が落ちた。
「……明日の分だ」
「七つとも?」
「手術は....長い....お前.....知っているだろう......何を当たり前のことを......」
私は、無言でメロンパンを一つずつ取り出し、ゴミ箱に落としていった。
ぽす。
ぽす。
ぽす。
父は、一つ落ちるたびに、ほんのわずかに肩を動かした。
七つ目が落ちたとき、「神の手」は、膝の上で小さく握りしめられていた。
◇ ◇ ◇
空になった引き出しの代わりに、私はデスクの上に、銀色のアルミの包みを置いた。
「御門麗式腸内改革ブレンド。高純度のキクイモイヌリンと、レジスタントスターチを合わせたものよ」
「……何だ、それは」
「レジスタントスターチは、小腸で消化されずに大腸まで届くデンプン。腸の菌たちがそれを食べて、酪酸を作る。酪酸は、腸の壁を修復して、炎症を鎮める。そして、腸が落ち着けば、脳との通信も落ち着いていく」
私は、包みを父のほうへ、すっと押し出した。
「メスは使えない。使うのは、百兆の菌を味方につける、地味で、でも強力なプレバイオティクスよ。――これが今、お父様に必要な処方箋」
父は、包みを見下ろした。
――プ、プレバイオティクス、だと。
声には出さなかった。
けれど、その唇が、確かにそう動いた。
「ただし、明日の朝いきなり全部は飲まないこと。手術の前に、お腹が張ったら困るでしょう。今夜は、少しだけ。続けるかどうかは――」
私は、父の目をまっすぐに見た。
「お父様の精神ではなく、お父様の『腸』で決めることね」
◇ ◇ ◇
父の返事を待たずに、私は院長室を出た。
背後で、重い扉が静かに閉まる。
張りつめていた空気が抜けて、私は廊下の壁に、そっと背中を預けた。
「……言いつけ通り、姿を見せたな、さすがの貴様でも医師としての社会的抹消は怖いと見える」
廊下の角から、兄が姿を現した。
端正な美形の顔に鋭い眼光、そして、黒いスーツに身を包んだ深夜の病院でみる兄はさながら死神のようにも見える。
「強力なオリジナルプレバイオティクス渡したわ。でも、飲むかどうかは、お父様の腸しだいね」
「フン」
――ギチ。
「兄様。お父様の手の震え、いつからなの」
兄の表情は、変わらなかった。
「……答える義務はない」
「医者として聞いているの」
「御門を追放された人間に、話すことはない」
兄は、それだけ言って、私に背を向けた。
けれど、数歩進んだところで、立ち止まった。
「……メロンパンの過剰摂取は……私も止めた....これでも私は内分泌の専門医だ.....」
「え?」
「三年前からだ。一度も、聞き入れられたことはないがな」
――ギチ。
兄の背中が、廊下の向こうに遠ざかっていく。
あの人が、父の夜食を止めようとしていた。
数字でしか物を見ない、あの兄が。
◇ ◇ ◇
病院の外に出ると、東の空が白み始めていた。
朝焼けが、御門総合病院の白い輪郭を、ゆっくりと浮かび上がらせていく。
最先端の医療機器。清潔に消毒された、完璧な秩序。
けれど、その一番奥に座る「神」の腸は今、私が置いてきた、ひと袋の粉に、その行く末を委ねている。
「……さよなら、お父様」
私は、一度も振り返らずに、白く乾いた巨塔を後にした。
歌舞伎町の、混沌と生命力に満ちた、菌たちの世界へ帰るために。
――お父様。
――いつか、また、お話しできる日が……。
その続きは、朝の冷たい風にさらわれて、自分でも聞き取れなかった。
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麗の腸活ワンポイント
「レジスタントスターチ」=小腸で消化されずに大腸まで届くデンプン。冷ましたご飯やじゃがいも、豆類、全粒の穀物などに多く含まれているわ。
大腸の菌たちのエサになって、酪酸などの短鎖脂肪酸を作る材料になるの。夜食のメロンパンを、冷やごはんのおにぎりに変えるだけでも、腸にとっては大きな一歩よ。
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――次回、第拾壱話「渇望のフローラ 更衣室回診編(序)」。
夜のフローラに戻った私を待っていたのは、骨の浮いたお腹を誇らしげに見せる、店のNo.2だった。
麗のEvidence Log(参考文献)
・Konturek PC, Brzozowski T, Konturek SJ. (2011) Stress and the gut: pathophysiology, clinical consequences, diagnostic approach and treatment options. Journal of Physiology and Pharmacology 62(6): 591–599.
・Mayer EA, Knight R, Mazmanian SK, Cryan JF, Tillisch K. (2014) Gut microbes and the brain: paradigm shift in neuroscience. Journal of Neuroscience 34(46): 15490–15496.
・Keenan MJ, et al. (2015) Role of resistant starch in improving gut health, adiposity, and insulin resistance. Advances in Nutrition 6(2): 198–205.
※本作はフィクションです。作中の医学的な説明は一般的な研究知見をもとにしていますが、診断や治療の代わりにはなりません。持病のある方や手術を控えている方は、食事やサプリメントを変える前に主治医にご相談ください。




