第拾漆話 境界のフローラ 白衣とドレスの狭間編(終)
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研究室カルテ No.017
患者:毒島龍司(帝王大学医学部 神経行動学研究室 教授/再診)
来院目的:朝から温水研に怒鳴り込み
主訴:本人いわく「吉野ぉ! 貴様、昨日の夜、歌舞伎町にいただろぉ!」
麗の診察:口止め快便腸
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翌朝、九時ちょうど。
帝王大学医学部、基礎医学研究棟の地下二階。
薄暗い廊下のいちばん奥、古びたドアの向こうが、私たちの温水研だ。
私は眼鏡をかけて、顕微鏡をのぞいていた。
白いスウェット。ボサボサの一つ結び。昨夜の黒いドレスは、もうどこにもない。
隣の机では、吉野くんが、申請書類の封筒を抱えたまま、ぐったりとうなだれていた。
九時の締め切りには、ぎりぎり間に合ったらしい。
「……先生。僕、昨日の夜のこと、まだ夢だったんじゃないかって」
「夢よ」
「えっ」
「そう思っておいたほうが、あなたの肋骨のためよ」
吉野くんが、反射的に脇腹を押さえた。
そのとき。
ばぁん、と、ドアが壁に叩きつけられる音がした。
「吉野ぉぉぉ!」
色黒の顔。整髪料で固めたオールバック。研究者どころか医者としても怪しい出立。
毒島教授が、肩で息をしながら、戸口に立っていた。
「吉野くん! お前、昨日の夜、歌舞伎町のキャバクラにいただろぉ! しかも、あの『零』とかいう女の隣にぃ!」
吉野くんの顔から、血の気が引いた。
次の瞬間、彼は椅子ごと滑るように移動して、私の背後に隠れた。
「せ、先生……あの、これは……!」
――やれやれ。朝から、うるさいわね。
私は、ゆっくりと顕微鏡から顔を上げた。
眼鏡の位置を指先で直し、毒島教授に、とびきりの困惑の微笑みを向ける。
「あら、毒島先生。おはようございます。朝からそんなに血圧を上げて……先生の毛細血管が心配だわ」
「血圧の話はしとらん!」
「ところで、今、なんとおっしゃいました? 『零』?」
私は、首をかしげた。
「ああ。私たちのフィールドワークに協力してくださっている、外部協力者の方のことかしら」
◇ ◇ ◇
「が、外部協力者ぁ……?」
毒島教授の口が、半開きになった。
「で、でも昨夜、あの女とこの助教は、ずいぶん親しげに――」
「当然です。吉野くんは、私の指示で、検体の回収に行っていたんですもの」
「検体ぃ?」
「『夜の不摂生な生活を送る人間の腸内細菌叢調査』。温水研の、正式なフィールドワークです」
私は、机の上のファイルを、ぽんと叩いた。中身は、先月の培地の発注書だけれど。
「零さんは、私たちの研究に深く共感してくださって、VIPルームという特殊な閉鎖空間で、データを集めることを許してくださっているの。いわば、生きた実験場の管理人よ」
「い、生きた実験場……」
「先生もご存じのとおり、食事を変えると、人の腸内細菌は、たった数日で顔ぶれが変わります。だからこそ、夜の街の『食生活の現場』は、貴重なデータの宝庫なんです」
毒島教授は、ぱくぱくと口を動かした。
言い返す言葉を探しているのに、見つからないらしい。
◇ ◇ ◇
「それに、先生」
私は、背後で震えている吉野くんを振り返った。
「昨夜、吉野くんが震えていたのは、不純な動機のせいではありません」
「……え?」
と言ったのは、毒島教授ではなく、吉野くんだった。
「彼は、私が論文で提唱している、脂の多い食事による腸内環境の乱れと、そこから腸の毒素が血液に漏れ出す『エンドトキシン血症』の末路を、目の前で確かめて――そのエビデンスの確かさに、衝撃を受けて震えていたんです」
「そ、そうだったのか……?」
毒島教授が、思わずつぶやいた。
――そうだったのか!? 僕!?
吉野くんの心の声が、顔に全部書いてあった。
「それに、吉野くん自身のお腹も、昨夜の肉まんとコンビニのから揚げの脂を必死で分解しようとして、悲鳴を上げていたもの。……ねえ、吉野くん?」
「は、はいっ!」
吉野くんは、勢いよく背筋を伸ばした。
「毒島先生! ぼ、僕は昨夜、動物性脂肪の取りすぎがもたらす腸内ディスバイオシスの、し、神経毒性の実態を、現場で確認していただけなんですっ!」
噛みながらも、言い切った。
――よくできました。
これこそが、帝王大学医学部で最弱と呼ばれる温水研の、鉄壁のチームワーク。
……別名、共犯関係。
◇ ◇ ◇
「そ、それにしたってだなぁ……」
毒島教授が、まだ何か言いかけた。
私は、静かに眼鏡を外した。
「それより、毒島先生」
「な、なんだぁ」
「昨夜のあのお店でのことですけれど」
毒島教授の動きが、ぴたりと止まった。
「脳神経の権威でいらっしゃる先生が、製薬会社の重役の方々に囲まれて、ずいぶん楽しそうに接待を受けていらしたとか。アメリカの学会のお話を、三回も」
「な……」
「おまけに、出どころの分からない粉の入ったカクテルで、『腸活』まで施されていたそうですね。カンファレンスでは、あれほど大腸の機能をコケにしていらしたのに」
私は、にっこりと笑った。
「このこと、もし医学部長のお耳に入ったら……どうなるかしら」
「な、なな、なんで君がそれを……!」
「零さんからは、研究に必要なデータが、逐一届くことになっているんです」
私は、毒島教授の足元に、ちらりと目をやった。
「そういえば、先生。今朝の足取り……ずいぶん、軽やかでしたわね」
「……っ」
「今朝、何かいいことがありました?」
毒島教授の色黒の顔が、みるみる赤黒く染まっていった。
「……べ、別に。ただ、その……久しぶりに……」
「出たのね」
「……」
「すっきり、出たのね」
「…………出た」
消え入りそうな声だった。
吉野くんが、私の背後で、こらえきれずに「ぶふっ」と吹き出した。
「菊芋のフラクタンが大腸の菌のエサになって、酪酸が増えて、腸が動き出した証拠です。先生の脳にも、少しはいい知らせが届いているはずですよ」
私は、眼鏡をかけ直した。
「先生。この件を『学術的な守秘義務』の中にとどめておきたいなら――これからも、私たちのフィールドワークを、温かく見守ってくださいますわよね?」
毒島教授は、口を何度か開けたり閉じたりしたあと、
「……き、今日のところは、これくらいにしておいてやるんだよぉ!」
と叫んで、研究室を飛び出していった。
廊下の向こうで、遠ざかっていく足音が聞こえた。
――確かに、昨日よりずっと、軽やかだった。
◇ ◇ ◇
ドアが閉まると、研究室に、培養器のうなる音だけが戻ってきた。
「……せ、先生……」
吉野くんが、私の背後から、そろそろと顔を出した。
「すごかったっす……。僕、生きた心地しなかったっす……」
「ナイスアシストだったわ、吉野くん」
「ほ、ほんとっすか!」
「ええ。……でも」
私は、吉野くんのお腹に、ちらりと目をやった。
――ぐるるる。
小さな音が、鳴った。
「あなたの腸、さっきから、ずっと鳴っているわね。『誰かに話したい、でも怖い』っていう音よ」
「えっ」
「吉野くん。前に、私をからかったとき、どうなったか覚えている?」
私は、右の拳を軽く握った。
ぱき、と、指の関節が鳴った。
「……正拳突きの味。あなたの肋骨は、しっかり覚えているわよね」
「お、覚えてますっ! 墓場まで持っていきますっ!」
「声が大きい」
「すみませんっ!」
私は、顕微鏡に向き直った。
昼は、白衣の講師、御門麗。
夜は、フローラのNo.1、零。
白衣とドレスの狭間で、私はいつも、少しだけ迷っている。
それでも、この二つの世界を行き来することをやめないのは――その先に、腸活で病気を防ぐ世界がつくれると、本気で信じているからだ。
「それから、吉野くん」
「は、はいっ」
「次にあのお店に来るときは、もう少しましなネクタイを締めてきなさい。百兆の腸内細菌たちが、あなたのセンスに呆れていたわよ」
「……次、あるんすか!?」
私は、答えずに、シャーレのふたを閉めた。
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麗の腸活ワンポイント
「食事と腸内細菌」=食べるものを大きく変えると、腸内細菌の顔ぶれは、早ければ数日で変わり始めることが分かっているわ。
脂っこい食事が続いた次の日は、もち麦や冷ましたご飯、豆、野菜を。腸の住人は、あなたの選んだ食事で毎日入れ替わっているの。
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――次回、第拾捌話「小腸vs大腸 生命の聖域 死闘篇(序)」。
地下二階の廊下に、ハイヒールの音が響く。……六・五メートルの小腸を背負った女王が、大腸に宣戦布告しに来たわ。
♪今回のテーマソング
『境界のフローラ〜白衣とドレスの狭間〜』(第拾肆話〜第拾漆話)
麗のEvidence Log(参考文献)
・David LA, et al. (2014) Diet rapidly and reproducibly alters the human gut microbiome. Nature 505(7484): 559–563.
・Maier TV, et al. (2017) Impact of dietary resistant starch on the human gut microbiome, metaproteome, and metabolome. mBio 8(5): e01343-17.
・Moreira AP, et al. (2012) Influence of a high-fat diet on gut microbiota, intestinal permeability and metabolic endotoxaemia. British Journal of Nutrition 108(5): 801–809.
※本作はフィクションです。作中の人物・団体は架空のものです。作中の医学的な説明は一般的な研究知見をもとにしていますが、診断や治療の代わりにはなりません。お腹の不調が続く方は、医療機関にご相談ください。




