第98話 届かない知らせ
翌朝、僕は昨日広げたままにしていた資料から、もう一度整理を始めた。
美咲さんは昨日の午後に帰った。
帰る前に、翌日の午前中に片づけなければならない仕事があると言っていた。
そのため、僕が先に調べてから、結果を知らせることにしていた。
机の上には、二つ目のノートと最初の資料が並んでいた。
資料を確認しようとして、手を止めた。
「先に朝ご飯を食べようかな。」
最近は、ずっと朝食を抜いていた。
最初は特に気にしていなかった。
資料を見ているうちに時間が過ぎれば昼食を食べ、夕食もいつもどおり食べていた。
けれど数日続くと、昼と夜をきちんと食べても、なかなか体に力が入らないような感じがした。
昨日も美咲さんを見送ったあと、資料をもう少し見るつもりだったが、そのまま疲れて早く寝てしまった。
この状態でまたノートに向かうより、まず何か食べたほうがよさそうだった。
僕は着替えて外へ出た。
どこがいいだろう。
スマートフォンで近くの評判を検索した。
ジョイフルという店が目に入った。
地図を見ながら店まで行き、メニューから釜揚げしらすの玉子雑炊朝食を選んだ。
しばらくして、温かい玉子雑炊が出てきた。
やわらかく溶けた卵のあいだから、小さなしらすが見えた。
ひと口すくって食べた。
温かい汁と一緒にやわらかく喉を通るご飯が、空腹の胃にちょうどよかった。
何日も朝食を抜いていたせいか、何口か食べると胃も楽になり、頭も少しずつすっきりしてくる気がした。
僕は残った雑炊をゆっくり食べた。
食事を終えて外へ出ると、ようやく一日が始まったような気がした。
宿へ戻った僕は、母が送ってくれた箱を確認した。
昨日すぐに確認するつもりだったが、美咲さんを見送ったあとは思った以上に疲れて、そのまま早く寝てしまった。
僕は箱を机の近くへ移した。
中には、祖母が持っていた資料が入っていた。
これから、こちらも一つずつ整理していくつもりだった。
何枚か取り出そうとしたとき、スマートフォンが鳴った。
美咲さんからのLINEだった。
[ハルさん、今大丈夫ですか?]
僕はすぐに電話をかけた。
しばらくして、美咲さんが出た。
―もしもし?
「はい。仕事は大丈夫ですか?」
―はい。思ったより早く終わりました。ハルさんは朝ご飯、食べました?
「はい。ジョイフルというところで食べてきました。店もきれいで、よかったですよ。」
―何を食べたんですか?
「釜揚げしらすの玉子雑炊朝食です。」
―おいしかったですか?
「はい。朝に食べるのにちょうどよかったです。韓国にいたときは、朝食にコンナムルクッパを食べるのが好きだったんですが、これもおいしくてよかったです。韓国にも店舗があればいいのにと思いました。」
―コンナムルクッパ?
「はい。豆もやしが入った熱いスープに、ご飯を入れて食べる料理です。店によって少しずつ違うんですが、僕がよく食べていた店では、卵を小さな器に別に出してくれました。そこに熱いスープを少し入れて卵を溶いて、海苔と一緒に食べるとおいしいんです。朝に食べると胃も楽ですし。」
―おいしそうですね。韓国に両方あったら、どちらを食べますか?
答えはすぐに出た。
「店のスタイルそのものが違うので、その日の状況に合わせて食べ分けると思います。どちらも好きです。」
―今度、私も韓国のコンナムルクッパというものを食べてみたいですね。そういえば、私もジョイフルのメニューは好きですよ。
軽く朝食の話をしたあと、美咲さんが本題を切り出した。
―ところでハルさん。昨日の佐伯さんのお父さまの話なんですけど。
「はい。」
―米軍の爆撃で亡くなった事件、韓国側の記録を詳しく探せば残っていないでしょうか?
「一度探してみます。」
電話を切ったあと、僕はノートパソコンを立ち上げた。
朝鮮戦争当時、米軍機の爆撃や機銃掃射で民間人が死亡したり負傷したりした事件は、各地で確認することができた。
もちろん、事件が起きてすぐに知られたものばかりではなかった。
戦争が終わって長い時間が経ってから調査された事件もあり、被害者や遺族の証言によって後になって知られたものもあった。
そして、そうした事件の資料をまとめているサイトもあった。
祖父の両親が避難していたと記録されている慶尚道の地域。
その周辺の地名と一緒に検索した。
ないな。
僕が確認した資料では、その地域と直接つながる記録を見つけることはできなかった。
検索結果だけを見るのではなく、朝鮮戦争当時の記録を一つずつ確認した。
似たような事件はいくつも出てきた。
けれど祖父の手帳に残っている内容があまりにも少なく、
明確に特定するのは事実上不可能だった。
しばらく画面を見ていたが、結局手を止めた。
僕は美咲さんにもう一度電話をかけた。
しばらくして、彼女が出た。
―もしもし?
「美咲さん。さっきおっしゃっていたことを調べてみたんですが。」
―はい。何かわかりました?
「確認できませんでした。」
少し沈黙が流れた。
「同じような時期の民間人被害の記録はいくつもあります。でも今あるノートの記録と、その地域についての情報だけでは、見つけるのは難しそうです。」
―そうですか……。
「仕方がないと思います。でも、どうしてそんなにそれを探そうと思ったんですか?」
―悔しいじゃないですか。
「え?」
―米軍の爆撃でお父さまが亡くなって、お母さまも怪我をしたのに、佐伯さんが謝罪も補償も受けられないまま終わったと思うと、急に腹が立ってきて。
「そうですね。」
祖父の記録には、誰かがその事件について謝罪したとか、それに関して補償があったという内容はなかった。
「当時、祖父もかなり怒ったと思います。」
―そうでしょうね。
「でも当時は、現実的にどうにかする方法もあまりなかったでしょうし。」
―家族からすれば、本当にやりきれなかったでしょうね。
「はい。」
僕は少し言葉を止めてから、続けた。
「北朝鮮軍が奇襲的に南侵して朝鮮戦争が始まらなければ、こんなこともなかったでしょうね。」
電話の向こうが、しばらく静かになった。
―本当に、戦争というものは起きてはいけないことですね。
「そうですね。結局、いちばん大きな被害を受けるのは普通に暮らしていた人たちですから。」
―ええ……。
少しして、美咲さんが言った。
―では、引き続き確認してみてください。ほかの記録から何かわかるかもしれませんし。
「はい。そうします。」
通話を終えた僕は、もう一度二つ目のノートを開いた。
休暇をもらって家へ戻ってからの記録は、長くなかった。
母の状態と朴相吉氏の娘についての記録が、あと何度か続いていた。
そして次のページに、短い文が出てきた。
「明日、部隊へ戻る。」
僕はその下を読んだ。
もう一つ、短い文だった。
「朴相吉氏の娘に、母を頼んだ。」
手が止まった。
僕は、ついさっき通話を終えた美咲さんにもう一度電話をかけた。
―はい、ハルさん?
僕はノートを見ながら読み上げた。
「『朴相吉氏の娘に、母を頼んだ。』と書いてあります。」
電話の向こうで、しばらく言葉がなかった。
やがて美咲さんが言った。
―初めてじゃないですか?
「僕も、そう思っていました。」
―それまでは朴美來さんが自分から訪ねて、面倒を見ていたんですよね。
「はい。」
僕は、もう一度その文を見た。
「朴相吉氏の娘に、母を頼んだ。」
祖母を指す表現は、相変わらず同じだった。
まだ、朴相吉氏の娘だった。
けれど今回は、祖父のほうから母を頼んでいた。
何かが微妙に変わっていた。
―それでも、そんな状況で佐伯さんはまた部隊に戻らなければならなかったんですね。ひどすぎる気がします。
美咲さんの言葉に、僕は一瞬、何と答えればいいのか迷った。
軍隊を経験した僕には、あまりにも当然のことだったからだ。
「戻らないわけにはいかなかったと思います。」
―お父さまが亡くなって、お母さまもあんな怪我をしているのに?
「もし戻らなければ、脱走です。」
―あ……。
美咲さんが、ようやくわかったように短く言った。
―そうですよね。
「しかも戦時中でしたから。処罰もかなり重かったと思います。」
家族に何かあったからといって、軍人が勝手に部隊を離れたままでいることはできなかった。
休暇が終われば、戻らなければならない。
祖父もそうだったのだろう。
僕は次のページをめくった。
何もなかった。
もう一枚めくってみた。
そのページも空白だった。
「また、ありませんね。」
―え?
「大きいほうのノートです。部隊に戻ってから、また空白になっています。」
電話の向こうで、美咲さんが少し考えた。
―軍にいるあいだは、これを書いていなかったからでしょうか?
「その可能性が高いと思います。」
僕は机の横にある最初の資料を見た。
「そちらの記録は、別にあるはずです。」
―小さな手帳?
「はい。」
軍で書いた短いメモ。
僕は通話をスピーカーに切り替え、最初の資料を持ってきた。
原本の中には、小さな手帳から破り取られた紙片が、ほかの書類のあいだに挟まっていた。
「日付をもう一度合わせてみます。」
―私も、少ししたら行きましょうか?
「まず仕事をしてください。」
美咲さんが笑った。
―わかりました。終わったら連絡します。
電話を切った。
大きなノートの最後の日付。
祖父が休暇を終えて、部隊へ戻った日だった。
それより前の紙片を脇へよけ、そのあとの紙片を確認した。
日付のないものもあった。
何枚か見比べているうちに、大きなノートの最後の記録から数日後に書かれた紙片を一枚見つけた。
文字は、急いで走り書きされていた。
「補給物資、引き渡し。
明日また移動。」
その下には、さらに小さな文字があった。
「定期的に届いていた母の安否の知らせが来ない。」




