第96話 空白の先
僕は軍関係の書類を閉じ、もう一度、二つ目のノートのスキャンデータへ戻った。
二本線が引かれた帰国予定日のあとには、短い記録が続いていた。
「ソウル方面の知らせ、よくない。」
「人々が南へ下りてきていると聞いた。」
けれどノートには、まだ戦争という言葉はなかった。
祖父が日本へ戻るために準備していたことが、一つずつ止まっていった。
次のページには、朴相吉の名前が出てきた。
「朴相吉氏が、しばらく大通りを歩かないようにと言った。」
僕は次の記録を読んだ。
「父母が身を寄せる場所をもう一度探した。」
数日後。
「人の少ない場所を選んだ。
適当な場所を見つけた。」
正確な地名は書かれていなかった。
大まかな記録を見るかぎり、慶尚道の内陸にある田舎だということだけはわかった。
大きな都市から離れた場所に、しばらく父母を滞在させようとしていたようだった。
その過程でも、朴相吉氏の娘が出てきた。
「朴相吉氏の娘が先に行き、家を確認した。
米と布団を用意してくれた。」
普段から父母を訪ねていたことが、避難する場所を準備するところまで続いていた。
けれど祖父の記録の中で、呼び方は変わっていなかった。
相変わらず、朴相吉氏の娘だった。
僕はさらに先へ進めた。
「日本行きの船を調べてもらっていた仲介人から、船便を手配できると連絡を受けた。
前金が必要とのこと。」
数日後。
「船便をまもなく手配できると聞いた。
追加料金を支払った。」
状況が落ち着かなくなったあとも、祖父は日本へ戻る方法を探していた。
そして数日後、それまでとは違う記録が出てきた。
「船便を探すことになっていた仲介人が、急な事情の変化を理由に金の一部を返し、姿を消した。
彼を捜すため、市内へ出ることにした。
金が問題なのではない。
船便を必ず手配しなければならない。」
僕は手を止めた。
朴相吉は、大通りへ出ないようにと言っていた。
それでも祖父は、船便を探すために危険を冒した。
そこまで大きな危険だとは思っていなかったのかもしれない。
あるいは、どうしても日本へ戻り、千代子さんに会わなければならないと思っていたのかもしれなかった。
僕はその部分を撮り、美咲さんに送った。
そのあとの記録でも、船便を探す試みは続いていた。
祖父は別の仲介人を探していたが、信用できる人を見つけるのは難しかったようだった。
さらに何ページか進めた。
そして、あるページで手が止まった。
「新しい仲介人に会うため、市内へ出る。」
それで終わっていた。
次のページは空白だった。
もう一枚めくっても、同じだった。
僕はファイルのページ番号を確認した。
スキャンが抜けているわけではなかった。
ノートの原本そのものに、記録がなかった。
そのとき、美咲さんから電話がかかってきた。
僕は、追加で読んだ内容を話した。
電話の向こうが静かになった。
少しして、美咲さんが尋ねた。
―佐伯さんは、日本へ行く船便を探してくれる仲介人に会うため、市内へ出たんですよね?
「記録を見るかぎり、そうだったみたいです。」
―そして、そのあとから何もないんですよね?
「はい。」
しばらく言葉がなかった。
美咲さんが慎重に言った。
―そのとき、韓国軍の徴兵官に捕まったのではないでしょうか?
僕も似たことを考えていた。
「その可能性もあると思います。市内へ出たあとから、記録が途切れていますから。」
朴相吉の警告にもかかわらず、祖父は船便を探すために市内へ出た。
そして、そのあとから記録が途切れていた。
その間に、徴兵官に捕まったのではないか。
今のところ、そう推測することしかできなかった。
少し沈黙が流れたあと、僕は時計を見た。
いつの間にか、一時近くになっていた。
僕は食事のあとでまた連絡することにして、電話を切った。
外へ出ると、日差しが目に入った。
長いあいだ画面を見ていたせいか、路地がいつもより明るく感じられた。
僕は港のほうへ下りた。
昼時を少し過ぎていたため、通りは静かだった。
路地の奥にある店へ入った。
メニューを見て、鞆の浦らーめんを注文した。
しばらくして、澄んだスープのラーメンが出てきた。
スープをひと口飲むと、鯛だしの旨みが先に感じられた。最後に、柚子の香りがごくわずかに残った。
麺を何口か食べ、またスープを飲んだ。
朝からずっと画面ばかり見ていたせいか、温かいスープが入ってきて、ようやく自分が空腹だったことに気づいた。
半分ほど食べたところで、スマートフォンが鳴った。
母だった。
―ハル。
「うん。」
―箱がどこまで来てるか、確認してみた?
「まだ。」
―さっき私が見たら、日本の営業所まで行ったみたいよ。あなたが受け取るところ、一度確認してみて。
「もう着いたの?」
―そうみたい。
電話を切り、送り状番号を入力した。
追跡画面の最後には、福山南営業所と表示されていた。
美咲さんにメッセージを送った。
[箱が福山の営業所に到着しました。]
すぐに返事が来た。
[では、一緒に行きましょう。車を出します。]
彼女と時間を決めた。
残っていたラーメンを食べ、スープも少し飲んでから席を立った。
宿へ戻り、時間を確認した。
まだ少し余裕があった。
スマートフォンを取り出し、祖父について以前検索した内容をもう一度読み始めた。
すると、前にはそのまま読み流していた内容が一つ目に入った。
あれ、これは?
内容を読んでいる途中で、美咲さんから、もうすぐ着くという連絡が来た。
僕は荷物をまとめて外へ出た。
しばらくして、美咲さんの車が到着した。
「ずいぶん待ちましたか?」
「いいえ。」
助手席に乗ると、美咲さんがナビを確認した。
「福山南営業所ですよね?」
「はい。」
車は鞆の浦を離れ、福山のほうへ向かった。
走っているあいだ、さっき見た内容を思い出した。
「以前確認した内容の中に、少し意外なことがありました。」
「どんなことですか?」
「日本の陸上自衛隊の幹部候補生たちが、毎年韓国に来て、多富洞で研修をしていたと書かれていたんです。」
美咲さんが僕を見てから、すぐ前へ視線を戻した。
「へえ、韓国で陸上自衛隊が?」
「はい。三百人以上来たとありました。」
「そこで、どんな研修をしたんですか?」
「ちょっと待ってください。さっき見た内容が……。」
僕はスマートフォンでもう一度確認した。
「当時の戦闘作戦図と実際の地形を見比べ、高地同士の距離も確認したという内容でした。先発で来た教官たちは、地図とコンパス、GPSを持って、周辺の地形も実際に見て回ったそうです。」
「かなり本格的ですね。」
「軍隊式に言えば、読図や地形偵察に近い内容と言えるでしょうね。」
美咲さんが少し笑った。
「ハルさんも、韓国軍でそういうことをやったことがありますか?」
「僕は海軍だったので、ああいう地上での訓練はそれほど多く受けていません。」
「そうなんですね。」
美咲さんはまた前を見た。
少しして言った。
「その戦闘には、佐伯さんもいたんですよね。」
「そうですね。」
妙な気分だった。
日本人だった祖父は、金春雄という名前で韓国軍に入り、多富洞の前線にいた。
そして数十年後、日本の陸上自衛隊の幹部候補生たちが同じ場所を訪れ、地形を見ていた。
僕はスマートフォンの画面を消し、ポケットに入れた。
しばらくして、車は福山市内へ入った。
受付で送り状番号を見せると、職員が僕の身分証を確認した。
しばらくして、奥から箱を持ってきた。
思っていたより大きかった。
職員は、日本側で精算する金額があると説明した。
僕は案内された金額を支払い、領収書を受け取った。
箱を持ち上げてみた。
大きさのわりには軽かった。
中のものが動かないように、母がかなり丁寧に梱包したようだった。
僕が箱を持って外へ出ると、美咲さんが先に車のドアを開けた。
「箱、かなり大きいですね。」
「僕も、ここまで大きいとは思いませんでした。」
後部座席に箱を置き、鞆の浦へ戻った。
宿の前で、僕がもう一度箱を持ち上げた。
重くはなかったが、大きさのせいで前がよく見えなかった。
「ハルさん、ちょっと待ってください。」
美咲さんが先に玄関のドアを開けた。
「階段、気をつけてください。」
「はい。」
部屋の前に着き、箱をいったん下ろした。
鍵を出そうとして、そのときになって気づいた。
美咲さんが僕の部屋に入るのは、初めてだった。
僕はドアを開けながら、無意識に部屋の中を先に見た。
幸い、朝のうちに片づけてあった。
「どうぞ。」
「お邪魔します。」
箱を中へ運び、テーブルの横に置いた。
僕が緊張したのが馬鹿らしくなるほど、美咲さんは部屋を見回すこともなく、すぐ箱の前に座った。
「二つ目のノートも、この中にあるんですよね?」
「母が入れたと言っていました。」
僕はハサミを持ってきて、テープを切った。
蓋を開けると、まず梱包材が見えた。
ノートや古い紙が傷まないように、母が一つずつ包んでいた。
「本当に丁寧に包んでありますね。」
「こういうものは、もともとかなり念入りに包むほうなんです。」
包みを一つずつ開けながら、二つ目のノートを探した。
ビニールから出し、手の上に置いた。
数日間、スキャン画面で見続けていたノートだった。
実際に見ると、思っていたより小さかった。
表紙の角は擦り減り、何度もめくられた場所ごとに、紙の色も少しずつ違っていた。
美咲さんが隣へ寄ってきた。
「これが、そのノートですか?」
「はい。」
僕は、スキャンで最後に確認した部分を探した。
「新しい仲介人に会うため、市内へ出る。」
「ここです。」
次のページをめくった。
空白だった。
もう一枚めくっても、文字はなかった。
「スキャンが抜けていたわけではなかったんですね。」
「はい。」
空白は本物だった。
僕は慎重にページをめくった。
何枚か進むと、ページのあいだに小さな紙が一枚挟まっていた。
「これ、前に見た小さな手帳のページと同じような紙ですよね?」
「そうみたいです。」
最初の資料の束で見たものと同じような、小さな手帳の紙だった。
「休暇をもらった。
家に帰れることになった。」
なぜ休暇をもらったのかは、書かれていなかった。
僕と美咲さんは、次のページをめくった。
今度は手帳の紙ではなく、ノートに直接書かれた文字だった。
美咲さんが先に手を止めた。
僕も何も言えなかった。
「父が米軍の爆撃で亡くなった。」
※作中の陸上自衛隊による韓国の多富洞戦跡の見学や、当時の戦闘記録をもとにした研修に関する描写は、本作を構想・執筆していた2010年代前半に確認した資料をもとにしています。現在とは状況が異なる場合があります。




