第94話 一緒に暮らさない妻
カフェを出たのは、十一時を少し過ぎたころだった。
いつもより少し早かった。
美咲さんが、作業して送らなければならない原稿があると言っていたからだ。
「僕のせいで遅れているんじゃありませんか」
「違います。もともと昼ごろに作業するつもりでした」
美咲さんはそう言ったが、僕はそのまま座っていることはできなかった。
「では、僕は先に戻ります」
「はい。さっきおっしゃっていた婚姻前後の記録、ほかにもあれば一度見てみてください」
「わかりました」
「特に、朴相吉さんの側でどうして娘さんの名前の話が出るようになったのか」
少し考えたあと、美咲さんが言った。
「今もそうですけど、そのころも婚姻届というのは簡単に出せるものではないじゃないですか」
「そうですね」
僕はうなずいた。
書類上の妻だとしても、婚姻届が出されている以上、記録の上では妻だった。
僕はカフェを出ながら、スマートフォンを確認した。
会社からの通知はなかった。
年次休暇は承認された状態だった。
宿へ戻る途中でコンビニに寄り、広島菜のおむすびと瀬戸内レモンソーダを買った。
部屋に入るなり、ノートパソコンを立ち上げた。
母が送ってくれた二つ目のノートのスキャンファイルから、一九四八年末から一九四九年までのページだけを選んで、もう一度開いた。
最初に読んだときは、数字と物の名前が多すぎて、ざっと流していた部分だった。
不動産の一覧、掛けで残った代金。帰国した日本人が残していった書類。
買主を探している建物と、登記が終わっていない土地。
祖父はそうしたものを日付順に書き留めていた。
「倉庫の物品を再確認。
残りの代金は朴相吉氏が整理して知らせることに。」
次のページ。
「家二軒は書類が合わない。
買主はいるが、登記確認が必要。」
その下には、小さな文字で書かれていた。
「登記所に出す書類は朴相吉氏側で準備。」
僕は画面を拡大した。
そして、もう少し先へ送った。
一九四八年。
金春雄という名前が、不動産関連の記録に現れ始めた時期だった。
前日は、名前がいつ最初に出てきたのかだけを見た。
今回は、その名前で何をしていたのかを読んだ。
「大きな財産は、私の名義だけにしておくのは難しいとのこと。」
文字に、少し力が入っていた。
信用されていないと思ったからだろうか。
僕は続けて内容を確認した。
「私がこのまま日本へ行ってしまえば、残った財産の整理が難しくなると朴相吉氏が言った。」
次の行は文字がかすれていた。
画面を拡大した。
「朴相吉氏側でも確認できる方法を考えることにした。」
僕は椅子の背にもたれた。
祖父は韓国に残った財産を整理し、金を受け取ったあと、両親と一緒に日本へ戻る予定の人間だった。
朴相吉にとっては、そのあとが問題だったのだろう。
金春雄という名前の下で財産と権利を整理しておいたのに、その人間が日本へ戻ってしまえば、残ったものは誰が処理するのか。
僕は次のページを開いた。
「朴相吉氏の娘の名前を一緒に使う方法を、朴相吉氏が連れてきた男が言った。
朴相吉氏は困った顔をしていた。
いや、むしろ怒っているように見えた。
それなりによい提案をしたと思っていた男は、すぐに口を閉じた。」
僕はその文をもう一度読んだ。
朴相吉が、最初から娘の名前を使おうとしたわけではなかったようだ。
むしろ朴相吉は、娘の名前を財産整理に巻き込むことを嫌がっていた。
その下には、もう一行あった。
「別の方法をもう一度探すことにした。」
それから数日のあいだ、婚姻の話は出てこなかった。
代わりに、いつもと同じような記録が続いた。
「土地一か所に購入希望者が来た。」
「倉庫の物品を一部処分。」
「朴相吉氏と未収金を再計算。」
五日後。
短い記録が一つ現れた。
「朴相吉氏が、娘と婚姻届を出す方法を話した。
娘もすでに同意しているとのこと。
おそらく、その話を持ち出した男が私に話す前に、朴相吉氏の娘へ先にそれとなく話しておいたようだった。
朴相吉氏の娘が父の事業のために協力してくれるなら、私としてもよいことだった。」
僕はその文を、しばらく見つめた。
すでに。
婚姻の話が祖父のところに来る前に、祖母である朴美來の同意がすでにあったという意味なのか。
僕はその部分を撮って、美咲さんに送った。
しばらくして返事が来た。
[最初は、朴相吉さんが娘さんの名前を使うのを嫌がっていたんですね。]
[はい。]
[でも数日後には、婚姻の話まで出していますね。]
僕は日付をもう一度確認した。
[そのあいだの記録には、財産整理の話しかありません。]
[では、私は原稿を仕上げます。もう少し確認をお願いします。]
[そうします。]
僕は記録を読み続けた。
婚姻を決めた日の記録は、ほかの日より長かった。
「朴相吉氏の娘と婚姻届を出すことにした。
一緒には暮らさない。
財産整理が終われば、私は日本へ戻る。
そのとき、婚姻も整理することにした。
娘も同意した。」
僕はさっきコンビニで買ってきた瀬戸内レモンソーダを飲んだ。
炭酸のあとに、淡いレモンの香りが残った。
喉が渇いていた。
祖母は、祖父が日本へ戻るときに婚姻を終えるという条件を受け入れた。
一緒には暮らさない。
いつか別れる相手だった。
僕は次のページを開いた。
婚姻届のあとも、祖父の記録は変わらなかった。
「朴相吉氏の娘が書類を持ってきた。」
「朴相吉氏の娘と登記所提出書類を確認。」
「朴相吉氏の娘に書類の一部を預ける。」
妻という言葉はなかった。
美來という名前もなかった。
公式記録では夫婦になっていたが、祖父のノートでは相変わらず朴相吉氏の娘だった。
スマートフォンの通知が鳴った。
美咲さんだった。
[今、原稿を送ったところです。]
続いて、もう一つメッセージが来た。
[朴美來さんは、婚姻の条件をすべて知っていたんですよね?]
僕はノートをもう一度見た。
[はい。一緒には暮らさないこと、日本へ戻るときに整理することまで。]
[それでも同意していたんですね。]
僕はすぐには返事をしなかった。
父の事業を助けることだと思っていたのかもしれない。
ノートには、そのあいだの話がなかった。
残っているのは一行だけだった。
「娘もすでに同意しているとのこと。」
僕は返信を書きかけて、消した。
[はい。]
それだけ送った。
昼に買ってきたおむすびは、机の脇にそのまま置かれていた。
包みを開けて一口食べ、次のページへ進んだ。
婚姻のあとも、財産整理の記録は続いていた。
すると、見慣れた地名が目に入った。
「鞆の浦住所を再確認。」
僕は画面を拡大した。
その下。
「日本へ送る手紙は、まだ送れず。」
次のページには、さらに短い文があった。
「写真は書類と別に保管。」
誰の写真なのかは、書かれていなかった。
だが僕にはわかっていた。
千代子だった。
韓国では朴美來と婚姻届を出した。
そのあとも祖父は、鞆の浦の住所を確認し、日本へ送る手紙を用意し、千代子の写真をほかの書類と混ざらないようにしていた。
婚姻をしたからといって、帰る場所まで変わったわけではなかった。
祖父にとってそれは、日本へ戻るときに整理することにした関係だった。
帰る場所は、相変わらず鞆の浦だった。
そのとき、スマートフォンがまた鳴った。
母だった。
「はい、母さん」
―ご飯は食べた?
「食べています」
僕は半分残ったおむすびを見下ろした。
―昨日受け取った書類は見た?
「はい。それで、一つ聞きたいことがあります」
―何?
「昨日、祖父側の記録が途中で切れていて、あとから整理し直されたものだと言っていましたよね」
―うん。
「整理し直すときに、どんな資料を参考にしたのかは聞きましたか」
―それは聞いていないわね。
僕は少し考えてから言った。
「祖母側に残っている婚姻記録も、参考にしたのでしょうか」
電話の向こうで、しばらく沈黙があった。
―それは私にもわからないわ。
母が少し考えてから言った。
―昨日、書類を探してくれた職員の名前はわかるわ。もう一度電話して聞いてみようか?
「はい。お願いします」
―わかった。聞いてから連絡するね。
「ありがとうございます」
電話を切った。
僕はまたノートを読んだ。
同じような内容が続いていた。
朴美來と婚姻したあとも、二人の生活は混ざっていなかった。
代わりに、書類を持ってきたり、官庁へ行ったり、登記の内容を確認したりしたという記録があった。
午後三時を少し過ぎたころ、母からまた電話が来た。
「もしもし」
―ハル。さっき住民センターにもう一度聞いてみたわ。
僕はノートパソコンの画面をそのままにして、電話を耳に当てた。
―古いことだから、今残っている書類だけを見て、当時どんな資料を一つ一つ確認したのかはわからないそうよ。
「はい」
―ただ、前の記録が完全に残っていないときは、あとに残っている関係記録も一緒に確認する場合があるって。
「関係記録ですか」
―配偶者側の記録や子どもの記録みたいなもの。婚姻した事実がもう一方の戸籍に残っていれば、それもその人が誰とどういう関係だったのかを確認する資料になることがあるそうよ。
僕は朴美來側の除籍記録を開いた。
朴美來。
その下にある名前。
金春雄。
「それなら、祖母との婚姻記録も、金春雄という人を確認する資料になった可能性があるということですね」
―うん。そういう意味だって。ただ、婚姻記録一つだけを見て、その人の記録全体を作り直すという話ではないそうよ。
「はい」
―当時、実際にどんな資料を確認したのかは、今ではわからないと言っていたわ。
職員も、ずっと昔のことを今になって断定することはできないはずだった。
「少しわかってきた気がします」
電話を切った。
僕は画面に残っている二つの名前を、もう一度見た。
祖父は、日本へ戻るときに終える婚姻だと思っていた。
けれど、終えるつもりで結んだその婚姻が、むしろ金春雄という名前を残したことになる。
いや。
もっと言えば、その婚姻は結局、僕という存在へとつながった。




