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第93話 二つの日付のあいだ

カフェに着いたのは、午前九時になる少し前だった。


美咲さんは、すでに窓際の席に座っていた。


テーブルの上にはコーヒーカップとノートパソコン、小さな手帳が置かれていた。片方の耳にはイヤホンが入っていた。


僕が近づくと、美咲さんが画面から視線を上げた。


「あ、ハルさん」


「早く来られたんですね」


「私も少し前に来たところです」


美咲さんはイヤホンを外し、ノートパソコンの文書を保存した。


画面が閉じる前に、短い文章が見えた。


時間を示す数字と場所の名前、人の名前が一定の間隔で書かれていた。いくつかの文の前には「ナレーション」という表示があり、赤い文字で修正された部分も見えた。


「お仕事をされていたんですか」


「はい。今日の午前中に送る原稿があるので。ほとんど終わっています」


僕は向かいの席に座った。


鞄から前日に印刷しておいた書類を取り出そうとして、手を止めた。


美咲さんがいつ仕事をしているのか、僕は一度も考えたことがなかった。


朝にも時間を作ってくれたし、昼にも僕と一緒に動いてくれた。遅い時間まで資料を一緒に見たこともあった。


僕はただ、美咲さんが時間を自由に使える人なのだと思っていただけだった。


「そういえば……」


「はい?」


「美咲さんは、どんなお仕事をされているんですか」


美咲さんは少し瞬きをした。


それから、少し笑った。


「今、それを聞かれるんですね」


「すみません」


「どうして謝るんですか」


「今までは僕の話ばかりしていました。美咲さんが何をされているのかも知らないまま、ずっと助けていただいていましたから」


「そこまで言うことではありませんよ」


美咲さんはコーヒーカップを持ち上げ、また置いた。


「地域ドキュメンタリーや教養番組で、構成と資料調査をしています」


「放送局で働いているんですか」


「どこかに所属しているわけではありません。制作会社や放送局から、番組ごとに仕事を受けています。資料を探したり原稿を書いたりするのは、家でやる日が多いです」


「フリーランスなんですね」


「はい。撮影があれば別の地域へ行くこともありますし、インタビューの前に資料を整理したり、質問を作ったりすることもあります」


僕は美咲さんのノートパソコンを見た。


「だから午前中でも時間が取れたんですね」


「時間が余っていたから来たわけではありませんよ」


美咲さんが笑いながら言った。


「前もって少し仕事をしておいたんです」


「今まで、僕はかなり気軽に連絡してしまっていた気がします」


「そういう意味で言ったわけではありません」


美咲さんはやわらかく首を横に振った。


「私も気になって、一緒に見ているんですから。ハルさんが無理に頼んだわけでもありませんし」


「それでも、お仕事を調整されたんですよね」


「締切さえ守れば、どの時間に仕事をするかは私が決められます」


そのとき、美咲さんのスマートフォンが鳴った。


画面を確認した美咲さんが、僕に言った。


「少し出てもいいですか」


「もちろんです」


美咲さんは電話に出た。


「はい。原稿は午前中に送ります」


相手の声は聞こえなかった。


美咲さんはノートパソコンをもう一度開き、画面の一部を確認した。


「そのインタビュー部分は、そのまま使わないほうがいいと思います」


少し聞いてから、美咲さんが言葉を続けた。


「ご本人はそう記憶していますが、日付が合いません。確認できる資料もありませんし」


美咲さんの声は、いつもより少し低く、はっきりしていた。


「字幕はインタビューの内容どおりに残すとしても、ナレーションで事実のように繰り返さないほうがいいと思います」


また短い沈黙が続いた。


「はい。その部分を外して修正し、送ります」


通話が終わると、美咲さんはスマートフォンを置いた。


「すみません」


「大丈夫です」


「先月から作業している番組なんですけど、放送直前になって確認することが次々出てきて」


「どんな番組なんですか」


「瀬戸内海の小さな島に残る古い診療所を扱ったドキュメンタリーです」


「美咲さんが構成を担当されているんですか」


「資料調査と全体の構成を担当しています」


その口調は何でもないことのようだったが、さっきの電話ではディレクターにもはっきり意見を伝えていた。


美咲さんはノートパソコンをテーブルの端へ移した。


「昨日おっしゃっていた記録を見ましょうか」


僕は鞄から三枚の印刷物を取り出した。


一枚目は、婚姻に関する除籍謄本の記録だった。


美咲さんの前に紙を回し、名前が書かれた部分を指した。


朴美來


美咲さんはしばらく漢字を見つめた。


「これがこの前おっしゃっていた、パク・ミレと読む名前で合っていますか」


「はい、パク・ミレと読みます」


「パク・ミレ。」


美咲さんは、もう一度その名前を読んだ。


美咲さんは、名前の下に続く記録を見た。


「婚姻した年は一九四九年ですね」


「はい」


僕は別の印刷物を横に置いた。


前日に読んだ二つ目のノートの記録だった。


「朴相吉氏の娘と婚姻届を出すことにした。


一緒には暮らさない。


財産整理が終われば、私は日本へ戻る。


そのとき、婚姻も整理することにした。


娘も同意した。」


美咲さんが、ゆっくりと文を読んだ。


「書類上の夫婦、ということでしょうか」


「僕も、祖父は日本へ戻るときに整理する関係だと考えていたのだと思います」


僕は、婚姻のあとに続く記録も見せた。


「朴相吉氏の娘が不動産書類を持ってきた。


登記所に出す書類を一緒に確認した。」


美咲さんの指が、最初の文で止まった。


「書類では妻なのに、ノートでは相変わらず朴相吉氏の娘なんですね」


「はい」


婚姻届を出したあとも、祖父は彼女を名前で呼んでいなかった。


妻とも書いていなかった。


僕は金春雄側の除籍記録もテーブルの上に置いた。


「こちらは祖父側の記録です」


美咲さんが紙を引き寄せて見た。


「祖父側の記録は、途中で切れている部分があるとおっしゃっていましたよね」


「はい。母が聞いた説明では、あとから整理し直された記録だそうです」


僕は最後の印刷物を取り出した。


「ただ、婚姻記録より先に見なければならないものがあります」


美咲さんが紙の上の日付を確認した。


「一九四八年」


その次に、名前を見た。


金春雄


「ノートで金春雄という名前が本格的に出てくるのも、このころです」


僕は記録の前後を見せた。


朴相吉が連れてきた人たちが、土地と建物の書類を確認したという内容があった。


その下には、短い文が書かれていた。


「朴相吉氏が、登記所に知人がいると言った。」


美咲さんは、一九四八年の記録と一九四九年の婚姻記録を交互に見た。


「それなら、婚姻したことで金春雄という名前を持つようになったわけではなさそうですね」


僕はすぐには答えなかった。


一九四八年の不動産契約と登記関係の書類には、すでに金春雄という名前があった。


その名前で朴美來と婚姻したのは、翌年だった。


僕は考えを整理してから言った。


「僕の知る限りでは、解放後、日本人の官吏や行政職員が多く帰国して、行政業務にも混乱があったそうです」


「登記所もそうだったのでしょうか」


「正確にはわかりません。それでも、今のように記録をすぐ確認するのは難しかったでしょうね」


美咲さんはコーヒーカップを手で包んだ。


「そういう状況なら、名義がきちんと整理されていない場合もあったのでしょうか」


「その可能性はあると思います」


僕はノートの記録を見た。


朴相吉は、日本人たちが去ったあとに残された家や土地などを取引し、利益を出していた。


「この三つは、すべて関係していそうです」


美咲さんが三枚の紙を動かした。


「放送資料を見るときも、そうやって整理するんですか」


「はい」


美咲さんが言った。


「まず日付順に置きます。あとから付いた説明は変わることがありますけど、記録が現れた順番は簡単には変わりませんから」


「では、今確認できるのはどこまでですか」


美咲さんは左の紙を指した。


「一九四八年には、金春雄という名前で不動産関係の仕事をしていた記録があります」


次に、右の紙を指した。


「一九四九年には、その名前で朴美來さんと婚姻しています」


最後に、中央に置いたノートの上に指を置いた。


「そして二つの記録の前後に、朴相吉さんがいます」


美咲さんは、それ以上は言わなかった。


一九四八年の不動産記録と、一九四九年の婚姻記録のあいだには、一年の時間があった。


その一年のあいだに何があったのかは、まだわからなかった。


けれど僕たちは、何があったのかを探し出さなければならなかった。


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