第92話 除籍謄本
目を覚ましたとき、部屋の中が明るすぎた。
僕は手を伸ばしてスマートフォンを探した。
午前十時を過ぎていた。
「……遅れた」
会社に出勤する日でもないのに、自然とそんな言葉が出た。
昨夜までノートを見ていたせいか、思ったより深く眠っていたようだった。
画面をつけると、不在着信が一件あった。
会社の人事部。
僕はベッドから体を起こした。
まだ寝ぼけたまま水を一口飲んでから、電話をかけた。
すぐに担当者が出た。
―キム・ハルさんでいらっしゃいますか?
「はい」
―昨日提出された退職申請の件でご連絡しました。退職の意思にお変わりはありませんか?
「はい。変わりありません」
担当者は退職日と残っている業務について、いくつか確認した。
現在日本に滞在していることと、申請していた年次休暇の話も出た。
―残っている三日分の年次有給休暇は、使用されるものとして処理しました。
僕は少し言葉を止めた。
「承認されたんですか?」
―はい。使用可能な年次有給休暇でしたので、こちらで処理しました。
僕のためではなかった。
おそらく、使っていない年次休暇が残っていると、彼らの側でも書類処理が複雑になるのだろう。
けれど僕の立場でも、そうしてくれたほうが気が楽だった。
―急ぎで引き継ぐ必要のある業務は、オンラインで先に整理してください。残りは帰国されたあとに処理していただいても大丈夫です。
「わかりました」
人事部の担当者は、帰国日程も余裕を持って見てくれた。
電話を切ってから、日程をもう一度計算してみた。
ほぼ一週間、さらに時間ができたな。
急いで日程を数える必要がなくなった。
僕はノートパソコンを開き、急ぎの引き継ぎから整理した。
必要なファイルを送り、簡単なメモまで残すと、昼が近づいていた。
外へ出て、コンビニに寄った。
弁当の棚の前で迷った。
そのとき、唐揚げの入った弁当が目に入った。
「唐揚げ弁当 瀬戸内レモンぽん酢」
僕はそれを手に取った。
お茶のペットボトルも一つ選んだ。
宿へ戻り、ふたを開けた。
大きめの唐揚げがご飯の横に置かれていて、小さな容器にレモンぽん酢が別に入っていた。
ソースをかけると、衣の上から淡いレモンの香りが立ち上がった。
一つ取って食べた。
揚げ物は少し冷めていたが、中の肉は柔らかかった。
塩気のあとに、ぽん酢の酸味がついてきて、最後にレモンの香りが残った。
昨夜食べた鯛の南蛮漬けとはまったく違う料理なのに、どこか似た酸味があった。
こういうものを食べてみるのも悪くないな。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
母からメッセージが届いていた。
[委任状、受け取ったよ。]
続けて、もう一つ届いた。
[少ししたら住民センターに行ってみるね。]
僕は返信した。
[うん。無理しないで。]
しばらくして、スマートフォンがまた鳴った。
見覚えのない韓国の番号だった。
昨日、弁当屋でかかってきた電話を思い出した。
また間違い電話かな。
僕は出ずに、スマートフォンを伏せて置いた。
けれど、思ったより長く鳴っていた。
何だろう。
僕はもう一度スマートフォンを手に取った。
出てみようか。
そう思った瞬間、電話が切れた。
昼食を食べたあとは、前日に見ていたスキャンファイルをもう一度開いた。
だが、その先には事業に関する領収書と登記記録が続いていた。
似たような内容を読んでいるうちに、集中力が落ちてきた。
糖分が必要だ。
僕は椅子から立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
奥に小さな袋が一つ置いてあった。
以前、ターミナルの近くで買っておいたチョコレートだった。
包装には「広島レモンひとくちショコラ」と書かれていた。
袋を開けて、一つ取り出した。
一口で食べられるくらいの、小さな白いチョコレートだった。
口に入れると、ホワイトチョコレートの甘みが先に広がった。
少し噛むと、細かく刻まれたレモンの皮が歯に当たった。
甘みのあとから、酸味がふっと広がった。
思ったよりレモンの香りが強かった。
「おいしい」
糖分が入ると、頭が少し回り始めた気がした。
僕はもう一つつまんで食べながら、また画面へ戻った。
そのとき、母から電話が来た。
―ハル。書類を受け取ったよ。
「出たの?」
僕は手に持っていたチョコレートの袋を置いた。
―まず写真を撮って送るね。家に帰ったら、またスキャンして、もう少しはっきりしたものをメールで送るわ。
しばらくして、写真が届いた。
僕は画面を拡大した。
祖母の名前を確認することができた。
朴美來。
けれど全体的に文字が小さく、文書をきちんと読むのは難しかった。
「家でスキャンして送ってください」
―うん、わかった。
通話を終えたあと、祖母の名前をもう一度見た。
朴美來。
祖父の記録で「朴相吉氏の娘」とだけ書かれていた人。
僕はチョコレートをもう一つ食べながら、母のスキャンデータを待った。
一時間も経たないうちに、ファイルが届いた。
僕は最初のファイルを開いた。
一九四九年八月二十九日という日付が見えた。
ノートに書かれていた婚姻届が、実際の記録として残っていた。
次のファイルを開いた。
これは祖父側の記録だろうか。
ひと続きの記録ではなかった。
途中で切れている部分があり、あとから整理し直された跡が見えた。
僕はまたノートの資料を確認した。
一九四八年の不動産書類。
そして一九四九年八月二十九日の婚姻記録。
ペンを取り出した。
「金春雄という名前が書類に現れ始めたのが、一九四八年ごろ」
僕は一九四八年に丸をつけた。
婚姻届は、その翌年。
どうしてだろう。
そのとき、LINEのメッセージが届いた。
美咲さんだった。
[除籍謄本、画像で受け取られましたか?]
僕は少し考えてから、メッセージを送った。
[はい。受け取りました。明日の朝、あのカフェでお会いしましょう。]
返事を送ってから、もう一度画面を見た。
婚姻より先に、金春雄という名前があった。




