第91話 名前のない婚姻
美咲さんと別れたあと、宿へ戻った。
部屋に入るなり、鞄を下ろしてスマートフォンを取り出した。
会社のアプリを開いた。
退職申請。
画面上に表示された文字を、しばらく見つめた。
いつの間にか、気持ちは整理されていた。
僕は申請画面をもう一度開いた。
退職理由を書く欄が見えた。
長く書くつもりはなかった。
一身上の都合。
必要な項目を埋めてから、最後の画面へ進んだ。
提出。
少し指を止めてから、そのまま押した。
画面に、受け付けられたという文言が出た。
そこでようやく、スマートフォンをベッドの上に置いた。
会社を辞めるとチーム長に言ったときより、むしろ今のほうが現実のこととして感じられた。
しばらくして、母に電話をかけた。
何度か呼び出し音が鳴ったあと、母が出た。
―うん。ハル?
「母さん、今、電話しても大丈夫?」
―大丈夫よ。荷造りしていたところ。
「荷物?」
―あなたが送ってほしいと言っていた箱。ほとんど入れ終わったわ。紙のあいだにも緩衝材を入れたし。古いものだから、そのまま送るのはよくない気がして。
僕はベッドの端に座った。
「明日送るの?」
―うん。明日、業者に渡そうと思って。思ったより箱は大きいけど、重くはないわ。
母は少し言葉を止めた。
―あ、それからもう一つある。
「何?」
―私、前にノートをもう一冊スキャンしておいたものがあるの。
僕は少し体を起こした。
―前にスキャンはしておいたんだけど、ほかの資料を送っているうちに忘れていたわ。
「今、送れる?」
―ファイルを探さないと。少ししたら送るわ。
夜がもう少し深くなってから、母からメッセージが届いた。
[見つけたわ。ファイルが少し多いよ。]
続いて、いくつものスキャンファイルが届いた。
僕は最初のファイルを開いてみた。
黄色く変色した紙の上に、見慣れた筆跡があった。
日付の横には、その日にあったことが短く書かれていた。
人に会ったり、どこかへ行った記録があるかと思えば、物や金に関するメモもあった。
ページのあいだには、領収書や伝票のような紙を挟んだり貼ったりした跡も見えた。
僕は何枚か先へ進もうとして、ノートパソコンを閉じた。
時間が遅かった。
明日から、ゆっくり見ることにした。
◆◆◆
翌日の遅い午前。
僕は昨日立ち寄った弁当屋へ向かった。
店の中に入り、陳列棚をゆっくり見た。
何がいいだろう。
一つずつ見ている途中で、スマートフォンが鳴った。
韓国の番号だった。
誰だろう。
初めて見る番号だった。
少し迷ってから電話に出た。
―車の持ち主の方ですよね? 車を動かしてください。
「何のことでしょうか」
―あ、そこの白い……
「電話番号を間違えていると思います。僕、今日本にいるんですが」
少し沈黙が流れた。
―あ……すみません。
通話が切れた。
スマートフォンを下ろすと、カウンターの中にいた店主が僕を見ていた。
「韓国からの観光客の方ですか」
韓国語が聞こえたらしい。
「はい」
店主は笑って、陳列棚の一角を指した。
「韓国から来られた方に人気のあるメニューですよ」
店主が指したのは、
ちりめんじゃこと海苔の弁当。
透明なふたの下に白いご飯が見え、その上には刻んだ海苔と小さなちりめんじゃこがたっぷりのっていた。
そのとき、横に貼られた小さな紙が目に入った。
今月の人気一位。
その下には、
鯛の南蛮漬け弁当。
と書かれていた。
薄く切った玉ねぎと野菜のあいだから、鯛の身が見えていた。
これもよさそうだな。
僕は少し迷ってから、二つとも買った。
一つは昼に食べ、もう一つは夜に食べればよさそうだった。
五百ミリリットルの麦茶も一緒に会計した。
宿へ戻って、まずちりめんじゃこと海苔の弁当を取り出した。
ふたを開けると、海苔の香りが先に立ち上がった。
ご飯の上のちりめんじゃこは、近くで見ると思っていたより小さかった。半透明の体と細い尾の形が、そのまま残っているものもあった。
僕はご飯と海苔、ちりめんじゃこを一緒に取って口に入れた。
小さな魚の塩気が先に感じられ、少ししてから海苔の香りが広がった。
見た目には魚の味がかなり強そうだったが、実際にはあっさりしていた。
ご飯と一緒に食べると、ほかに大きなおかずがなくても味が整っていた。
二口ほど食べて、麦茶を飲んだ。
冷たい麦茶が、口の中に残った塩気を洗い流した。
また箸が伸びた。
店主がどうして韓国の観光客に人気だと言ったのか、少しはわかる気がした。
小さな魚をご飯と海苔に合わせて食べる味そのものが、それほどなじみのないものではなかった。
僕は弁当を脇に置き、ノートパソコンを立ち上げた。
母が送ってくれたファイルを、最初からもう一度見ていった。
長い文章を書いてある日は多くなかった。
誰に会ったという程度で終わっている日もあり、取引に関する金額や物品が書かれた日もあった。
時々、その日のメモの横に領収書や小さな書類が貼られていた。
その中に、個人的に誰かに会った記録が、何気なく挟まっていた。
ページを送った。
朴相吉の名前がよく見えた。
特に不動産に関する記録では、朴相吉が誰かに会ったり、登記関係を確認したりしたという内容が何度も出てきた。
そして一九四八年ごろの記録で、手が止まった。
金春雄。
ここから金春雄という名前が、本格的に出てくるんだな。
最初は朴相吉と一緒に書かれていたり、書類の片隅に見える程度だった。
けれどページが進むにつれて、金春雄の名前で処理されたことが増えていった。
朴相吉が前に出ていた記録のあいだに、金春雄という名前が入ってくるようになり、ある時点からは、そちらのほうがより目につくようになった。
祖父が朴相吉の代わりに、直接動くことが増えていったのだろうか。
あるページで、手が止まった。
朴相吉氏が登記関係を確認。
登記所に知人がいるとのこと。
登記を処理できるか、再確認。
僕は残っていたご飯を食べながら、次のページを開いた。
少しすると、大きな金額の財産に関するメモが出てきた。
一人の名前だけにしておくのは難しく、朴相吉側でも確認できる方法が必要だという内容だった。
どういう意味だろう。
当時の祖父は事情を知っていたはずだから、数行だけ書けば十分だったのだろう。
けれど今読む僕には、途中が抜け落ちた話のように感じられた。
そのあと、初めて朴相吉の娘に関する記録が出てきた。
名前はなかった。
朴相吉氏の娘。
そうとだけ書かれていた。
僕は画面を少し拡大した。
数ページ先で、また手が止まった。
朴相吉氏の娘と婚姻届を出すことにした。
一緒には暮らさない。
財産整理が終われば、私は日本へ戻る。
そのとき、婚姻も整理することにした。
娘も同意した。
僕はその部分を、しばらく見つめた。
形式的な婚姻なのか。
記録には、はっきり一緒には暮らさないと書かれていた。
僕はスマートフォンを手に取った。
その部分をキャプチャして美咲さんに送り、自分の考えを添えた。
しばらくして、返事が来た。
[形式的に婚姻届だけを出した、ということですね。]
[はい。そうだったようです。]
少しして、またメッセージが届いた。
[だから軍の記録を書いた手帳にも、妻……についての言葉がなかったのでしょうか。]
「妻」のあとに付いた三点リーダーが気にかかった。
美咲さんもその言葉を使うのが、少しぎこちなかったのかもしれない。
僕は少し考えてから返事をした。
[もう少し読んでみます。]
午後が過ぎていった。
ページを進めるほど、朴相吉の娘が出てくる回数が増えた。
やがて、商売とはあまり関係なさそうな記録の中で、その表現がまた出てきた。
朴相吉氏の娘が、父母に必要なものを持ってきた。
父母?
もう一度読んでから、ようやく気づいた。
祖父の父母だった。
このときも、韓国にいたのか。
どこに滞在していたのか、どんな名前を使っていたのかまでは書かれていなかった。
さらに数ページ読んだ。
ふと、空腹を感じた。
画面右下の時間を確認した。
もうこんな時間か。
いつの間にか、夕方だった。
昼に買ってきた二つ目の弁当を思い出した。
冷蔵庫から鯛の南蛮漬け弁当を取り出した。
透明なふたの向こうに、鯛と薄切りの玉ねぎが見えた。
昼よりも、少し味が染み込んでいるようだった。
ふたを開けると、酸味のある香りが立ち上がった。
昼に食べた弁当とは、香りからして違っていた。
鯛を一切れ取った。
冷蔵庫に入れておいたせいで、冷たかった。
口に入れると、表面に染みていた酢と調味の味が先に広がった。
すぐに、中の白い身が柔らかくほどけた。
魚は淡泊だったが、味が染みていたので物足りなさはなかった。
玉ねぎを一緒に取って口に入れると、しゃきっとした食感が残り、少し遅れて弱い甘みが感じられた。
冷たく食べるのが、むしろいいな。
揚げた魚を冷蔵庫に入れてから食べると、べたつくのではないかと思っていたが、南蛮漬けは最初から味が染みているので、そういう感じは少なかった。
ご飯を一口食べた。
今度は、鯛と玉ねぎを一緒に取った。
酸味が残ると、自然にまたご飯へ手が伸びた。
店の前で見た文字が浮かんだ。
今月の人気一位。
どうしてよく売れるのか、少しわかる気がした。
麦茶を飲み、またノートパソコンのほうへ体を向けた。
弁当は、脇にそのまま置いておいた。
数行読んでは鯛を取り、またページを送った。
すると、また同じ表現が現れた。
朴相吉氏の娘が、父母を訪ねてきた。
動いていた箸が止まった。
僕は、少し前に読んだ記録へ戻った。
婚姻届を出すことにしたという文。
そして、今見ている文。
祖父はその後も、彼女の名前を書いていなかった。
画面には、相変わらず、
朴相吉氏の娘
と書かれていた。




