第90話 休暇申請ではなく
阿伏兎観音から下りたあと、僕はまた美咲さんの車に乗った。
車が海岸沿いの道を走り始めると、美咲さんが言った。
「韓国へ送った委任状が届くのに二日くらいかかって、記録の入った箱がまた日本に届くのにも二日くらいかかるでしょうし……」
僕は美咲さんが何を心配しているのか、すぐにわかった。
少しして、彼女が慎重に尋ねた。
「箱が届いてから中の資料を確認するとなると、かなりぎりぎりではありませんか。休暇の日程は大丈夫ですか」
「大丈夫です。まだ使っていない休暇が三日分残っています」
「それを今使えるんですか」
「はい。可能です。その三日分も計算に入れて、母に箱を送ってほしいと頼んだんです」
僕は会社のアプリを開き、残っている年次有給休暇を三日分選んだ。
そして、その三日分を今の休暇に続けて取る形で申請した。
しばらくして、電子決裁が受け付けられたという表示が出た。
今年の休暇は、これで終わりだな。
念のために残しておいた三日まで、すべて使ったことになる。
◆◆◆
鞆の浦に着いたときは、夕食には少し早い時間だった。
「昼食が遅かったので、今日の夕食は軽く済ませましょうか」
「何かおすすめはありますか」
「はい」
美咲さんは、港から遠くない小さな店の前に車を停めた。
店の前には、いろいろな種類の弁当の写真が貼られた立て看板が置かれていた。
「鞆の浦では、わりと知られている弁当屋さんです。持ち帰りの注文が多いんですけど、店内でも食べられます」
中へ入ってみると、持ち帰りの注文を受けるレジの横に、小さな食事スペースが用意されていた。
「ここで選んでみてください」
陳列棚には、何種類かの弁当が並んでいた。
鯛を入れて炊いたご飯とおかずの入った弁当、ちりめんじゃこと海苔をのせた弁当、焼き魚と卵焼きが入った弁当などだった。
「時間が遅いと、人気のあるものは先に売り切れてしまいます。でも今日は少し早く来たおかげか、運がいいですね」
おいしい弁当がたくさん残っているという美咲さんの言葉に、僕は陳列棚を見回した。
「どれが人気なんですか」
「これです」
美咲さんが鯛めし弁当を指した。
僕は彼女のすすめに従って鯛めし弁当を選び、美咲さんはちりめんじゃこと海苔を使った弁当を選んだ。
会計を済ませたあと、僕たちは店の奥の小さなテーブルに向かい合って座った。
ふたを開けると、醤油と魚の匂いがほのかに上がってきた。
鯛めしの上には、細かくほぐした鯛の身とねぎがのっていた。おかずには、卵焼きと煮た野菜、小さな魚の揚げ物が入っていた。
僕は鯛めしを一口食べた。
味つけは濃くなかったが、噛むほどに鯛の味が感じられた。
思ったよりいいな。
弁当だからといって、味が劣るわけでもなかった。
値段も負担になるほどではなく、容器に入っているので食べやすかった。
僕は陳列棚のほうを見た。
種類もかなり多い。
最初に店へ入ったときは、弁当の種類がこんなに多いとは思っていなかった。ご飯とおかずの組み合わせも、弁当ごとに少しずつ違っていた。
そのとき、美咲さんの視線を感じた。
僕の反応を待っているようだった。
「おいしいですね」
「よかったです」
美咲さんは、ちりめんじゃこと海苔がのったご飯を箸で少し取った。
「こういうお店があるとは知りませんでした。教えてくださってありがとうございます」
「韓国にも弁当専門店はありますか」
「韓国にも弁当専門店はあります。値段が手ごろで、気軽に食べられるところは似ています」
僕は陳列棚のあったほうを、もう一度見た。
「でも、僕が知っていたところでは、こうして地域の食材を前面に出した弁当を何種類もそろえている店は、あまり見かけませんでした」
美咲さんが、自分の弁当にのっている海苔を指した。
「この海苔も瀬戸内産だそうですよ」
「海苔もこの近くで採れるんですか」
「はい。福山の近くにも海苔の養殖をしているところがあります。このお店では、鯛やちりめんじゃこ、海苔のように、近くの海でとれた食材を使っているそうです」
陳列棚の横にも、地域の水産物を使っているという案内が書かれていた。
僕は弁当に入っている鯛と小さな魚の揚げ物、海苔を順番に見た。
「日本に来たおかげで、こういう弁当も食べられますね」
手軽に食べられる一食だったが、この土地ならではの特色が感じられた。
美咲さんが尋ねた。
「ところで、さっき車の中でスマートフォンを見ていたのは、休暇の申請だったんですか」
「はい。残っている三日分の休暇を、今の休暇に続けて取る形で申請しました」
「いつごろ結果が出るんですか」
「特に問題がなければ、電子決裁で二時間以内に処理されます」
僕は時間を確認した。
「今ごろなら、終わっているはずです」
僕は会社のアプリを開いた。
だが画面に表示されたのは、僕が予想していた文言ではなかった。
[承認保留]
僕の表情を見た美咲さんが、慎重に尋ねた。
「承認されなかったんですか」
「保留になっています。一度確認してみます」
僕は、同じチームで長く一緒に働いてきた同僚にメッセージを送った。
[僕の追加休暇申請がどうして保留になったのか、確認してもらえますか?]
しばらくして返事が来た。
[イ・ジフンチーム長が直接保留に回しました。]
僕はすぐにまたメッセージを送った。
[チームに急ぎの仕事が発生しましたか?]
[いいえ。今すぐキム・ハルさんが処理しなければならない業務はありません。]
少しして、もう一つメッセージが届いた。
[理由を聞いてみたのですが、キム・ハルさんが直接電話すれば話すと言っていました。]
僕は画面を見つめた。
少し前に、イ・ジフンチーム長が言っていた言葉が浮かんだ。
会社でやっていくのが難しくなると言っていた。
僕は美咲さんに断ってから、席を立った。
店の外へ出て、イ・ジフンチーム長に電話をかけた。
何度か呼び出し音が鳴ったあと、彼が電話に出た。
―何だ?
「チーム長、僕の追加休暇申請が保留になっていたので、ご連絡しました」
―知っている。俺が保留にした。
「何か問題があるんですか」
電話の向こうで、短い笑い声が聞こえた。
―キム・ハルさん。
「はい」
―前に俺が言ったこと、今なら少しはわかるか?
「何のことをおっしゃっているんですか」
―チョウンゲ、チョウンゴダという言葉だ。
僕はしばらく答えなかった。
「以前おっしゃっていた費用処理の件ですか」
―俺が今、その話をしたか?
「その件と僕の休暇申請は、関係ありません」
―関係があるかないかは、お前が決めることじゃない。会社にも事情というものがある。お前が休暇を延ばしたいと言えば、何でもそのまま認めなきゃならないのか?
「現在、僕が戻って処理しなければならない緊急業務はないと確認しました。会社規定上、使える休暇です」
―だから、まだ話がわかっていないんだな。
イ・ジフンチーム長の声が低くなった。
―あのとき、お前が少しだけ柔軟に処理していれば、俺も今こうして細かく確認する必要はなかっただろう。
少し言葉を止めたイ・ジフンチーム長が、また言った。
―チョウンゲ、チョウンゴダ。今からでもそれを受け入れれば、お互い楽になる。
「いいえ」
―何?
「その言葉は、今回も受け入れられません」
しばらく沈黙が流れた。
―なら、俺もわざわざお前に融通を利かせてやる理由はないな。
「残っている休暇を使うことが、チーム長に融通を利かせてもらうようなことなんですか」
―そうやっていちいち突っかかるから、俺は、会社でやっていくのが難しくなると言ったんだ。
僕はスマートフォンを持ったまま、口を閉じた。
退職を考えたのは、今回が初めてではなかった。
僕の仕事が、きちんと評価されなかったこともあった。
問題が起きると責任を避けようとする人々のあいだで、原則を守ろうとする僕のほうが、かえって面倒な人間になることもあった。
それでも今までは、まだ耐えられると思っていた。
けれど戻ったところで、何かが変わるわけではなかった。
「わかりました」
―やっとわかったか?
「いいえ」
僕はゆっくりと言葉を続けた。
「会社を辞めます」
電話の向こうが静かになった。
―今、何と言った?
「退職します」
―キム・ハル、今感情的に言っているなら、あとで後悔するぞ。
「急に決めたことではありません」
―休暇三日のために会社を辞めるっていうのか?
「休暇三日のためではありません」
僕ははっきりと言った。
「退職の申請は、人事部に正式に提出します」
通話を終えた。
しばらくスマートフォンの画面を見下ろしてから、振り返った。
美咲さんが店の扉の前に立っていた。
僕がなかなか戻らないので、心配して出てきたようだった。
「韓国語だったので、何をお話ししていたのかはわかりませんけど……大丈夫ですか」
「会社を辞めると言いました」
美咲さんの目が少し大きくなった。
「今の電話で、ですか」
「はい」
「本当に大丈夫ですか」
僕は彼女に、状況を簡単に説明した。
「退職を考えたのは、今日が初めてではありません」
僕は少し言葉を止めた。
「僕の祖父は、僕よりずっと難しい状況でも、自分の信念を守りました」
僕はスマートフォンをもう一度手に取った。
「僕も、チョウンゲ、チョウンゴダという言葉に屈するつもりはありません」
美咲さんはしばらく僕を見てから、ゆっくりうなずいた。
僕は承認保留のままになっている休暇申請の画面を閉じた。
そして会社のアプリの別のメニューを開いた。
今度タップしたのは休暇申請ではなく、退職申請のメニューだった。




