第89話 祖母の時間
そのとき、テーブルの上に置いていたスマートフォンが短く鳴った。
画面を確認すると、母からカカオトークのメッセージが届いていた。
[委任状は送った?]
僕は返信を書きかけて、手を止めた。
一つ、思いついたことがあった。
[少ししたら電話します。]
メッセージを送ってから、美咲さんに声をかけた。
「母から連絡がありました。聞いてみたいこともできたので、食事が終わったら少し電話しようと思います」
僕は残っていたうどんとかき揚げを食べ、席を立った。
僕は店から少し離れたところへ行き、母に電話をかけた。
何度か呼び出し音が鳴ったあと、母が電話に出た。
「もしもし」
「母さん、委任状は送りました。さっき日本の国際配送会社に預けたので、明日か明後日ごろには届くと思います」
「思ったより早いのね。じゃあ届いたら、すぐ住民センターに行ってみるわ」
「はい。除籍謄本を発行してもらったら、写真に撮って送ってください」
「わかった」
僕は少し言葉を止めた。
母が先に尋ねた。
「ほかにも必要なものがあるの?」
「祖父のノートのことです」
「ノート?」
「これまで写真で送ってくれたものです」
「それがどうしたの?」
「ノートの原本を日本へ送ってもらえますか」
電話の向こうが、しばらく静かになった。
「全部?」
「はい」
「それを送って大丈夫なの? なくなったら二度と手に入らないものなのに」
「追跡できる国際配送で送れるか調べてみます。それに、指もまだ不自由なのに一枚ずつスキャンしてもらうより、僕がいる場所で直接確認したほうがいいと思います」
「それはそうね」
「それから、もう一つ聞きたいことがあります」
「何?」
「祖母が残したものってありますか」
「おばあちゃんの物?」
「写真や手紙、ノートのようなものです」
母はすぐには答えなかった。
「写真は何枚かあるはずよ」
「ほかの物は?」
「どうかしら」
何かを思い出そうとしているように、しばらく言葉がなかった。
「お父さんが昔、箱一つに別にまとめておいたものがあったような気もするわ」
「祖母の物をですか」
「正確にはわからない。お父さんが、自分の両親の物は捨てないでくれと言っていたの。写真と書類を一か所に入れておいたような気がする」
「その箱を一度探してもらえますか」
「探してみるわ」
「見つかったら、祖父のノートと一緒に一つの箱に入れておいてください。ただ、中身が混ざらないように分けておいてください。日本へ送れるか、僕が調べてみます」
「わかった」
「ひとまず中身を封筒に分けて入れておいてください。詳しい梱包方法は配送会社に聞いてみます」
「わかった。まず探してから連絡するわ」
「お願いします」
電話を切ると、少し離れたところで待っていた美咲さんが近づいてきた。
「ノートも送ってもらうようにお願いしたんですか」
「はい。除籍謄本は写真一、二枚で済みますが、ノートを全部撮影してほしいと頼むのは難しいですから。それに加えて、祖母の物もまとめて送ってもらうように頼みました」
「さっきの会社に聞いてみましょうか」
「はい。韓国から日本へ送ることもできるのか、確認をお願いします」
美咲さんは携帯電話を取り出した。
さっき会った社員と簡単に挨拶を交わしてから、状況を説明した。
「先ほど送った書類の届け先から、日本へ送ってもらいたい荷物が一つあるんです」
しばらく相手の話を聞いたあと、彼女がまた言った。
「はい。古いノートと家族写真、個人書類のようなものだそうです」
僕は隣で通話を聞いていた。
「書類を届けるときに、一緒に集荷することも可能でしょうか」
美咲さんがうなずいた。
「そうなんですね。では、正式な受付はもう一度そちらへ伺って行う必要がありますか」
通話はもう少し続いた。
電話を切った美咲さんが、僕を見た。
「韓国側の提携業者にあらかじめ集荷依頼を入れれば、可能だそうです。ただ、差出人情報と内容品申告が必要で、概算運賃も先に支払わなければならないそうです」
「箱の重さがまだわからないんですが」
「おおよそのサイズと重さで先に受付をして、韓国で実際に測定したあと、最終的な運賃を決められるそうです」
僕たちはまた車に乗った。
数分後、さっき出てきた備後国際エクスプレスの建物が再び見えた。
僕たちが事務所に入ると、先ほど書類を受け付けてくれた社員が席から立ち上がった。
「韓国から日本へ送られるお荷物があると伺いました」
社員は僕たちを窓口前の椅子へ案内した。
「書類に必要事項をご記入ください」
僕は母の名前と住所、電話番号を書いた。
内容品欄には、古い個人ノート、家族写真、手紙、個人書類と記入し、販売目的ではないことも書き添えた。
「紙類だけですね。医薬品や食品、現金、貴金属、液体などは入れないようにお願いいたします」
「はい」
まだ箱のサイズと重さがわからなかったため、中くらいの箱一つを基準に概算運賃を計算した。
僕はパスポートをもう一度見せ、カードで金額を支払った。
「韓国で実際のサイズと重量を確認したあと、最終的な運賃が決まります」
社員が言った。
「差額が出た場合はどうなりますか」
「追加料金がある場合は、お荷物をお受け取りになる際にお支払いください。概算より少なくなった場合は、最初にお支払いいただいたカードへ返金いたします」
「荷物もここで受け取る必要がありますか」
「鞆の浦方面にご滞在中と伺っています」
社員がコンピューター画面を確認した。
「それでしたら、備後国際エクスプレス福山南営業所でお受け取りになるほうが近いと思います。通関が終わったあと、そちらへ送ることができます」
「そこで差額の精算もできますか」
「はい。パスポートと受付番号をお持ちください」
僕は受取場所を備後国際エクスプレス福山南営業所に指定した。
社員は、韓国側の提携業者が使う送り状と内容品申告書の書き方を説明した。
関連する案内は、母の携帯電話にも送ってくれることになった。
「韓国側に書類が届く前に、箱をご準備ください」
社員が言った。
「配達担当者が委任状をお届けする際に、あらかじめ受付済みのお荷物も一緒に集荷するよう、韓国側へ手配いたします」
「ありがとうございます」
「ただ、梱包が終わりましたら、箱のサイズとおおよその重さを一度お知らせください。実際の測定結果と大きく違わないよう、事前に登録しておきます」
「わかりました」
社員が新しい受付控えを渡してくれた。
今日受け取った二枚目の受付控えだった。
午前中のものは韓国へ送る封筒のためで、今度のものは韓国から届く箱のためだった。
外へ出ると、日はまだ高かった。
僕は時間を確認した。
午後二時を少し過ぎたところだった。
「もう戻りましょうか」
僕が尋ねると、美咲さんも時間を見た。
「まっすぐ戻るには、少しもったいないですね」
「ほかに予定があるんですか」
「予定はないんですけど、帰り道にお見せしたい場所があります」
「どこですか」
「阿伏兎観音といいます」
美咲さんが付け加えて説明した。
「海のすぐそばの崖にあるんです。今日することも終わりましたし、一か所くらい寄って帰ってもいいですよね」
「僕は大丈夫です」
僕たちはまた車に乗った。
福山市街を離れると、木々のあいだから海が少しずつ見え始めた。
しばらくして、車が小さな駐車場に止まった。
車を降りると、海風が吹いてきた。
美咲さんについて階段を上がると、崖のほうへ突き出した赤い建物が見えた。
その下には、すぐ海が続いていた。
「あそこが観音堂です」
「思っていたより海に近いですね」
「下を見ると、少し怖いかもしれません」
「高いところは大丈夫です」
僕はそう答えた。
だが観音堂のほうへ近づくと、思ったより足元の幅が狭く感じられた。
崖の下からは、波がぶつかる音が上がってきた。
美咲さんは何でもないように、手すりの近くへ寄っていった。
僕も彼女について移動した。
しばらくして観音堂の前に立つと、風が少し強くなった。
美咲さんの髪が、顔のほうへ散った。
彼女は髪を整えながら、海を見つめた。
「昔は、海を行き来する人たちの安全を祈る場所だったそうです」
遠くを小さな船が一隻通っていた。
「子どもを望む人や、安産を祈る人たちも訪れる場所として知られています」
美咲さんは観音堂の内側を見回した。
「私も詳しい由来までは知らないんですけど、昔からそういう場所だったと聞いています」
僕はまた海を見た。
「いい景色ですね」
僕は崖の上に張り出した観音堂を見上げた。
こんな場所に、どうやってあの観音堂を建てたのだろう。
「もう少し見て回りましょう」
僕たちは観音堂の周りをゆっくり歩いた。
狭い道を回って出ようとしたとき、美咲さんが下の海を見ようとして、少し体を傾けた。
僕は思わず、彼女の袖をつかんだ。
美咲さんが僕を振り返った。
「危ないです」
「手すりがありますよ」
「それでも、近づきすぎないでください」
「ハルさんが高いところを怖がっているからじゃないですよね?」
「それとは関係ありません」
僕はつかんでいた袖を離した。
美咲さんはしばらく僕を見てから、小さく笑った。
観音堂から下りる前、僕たちは少しのあいだ、海が見える場所に並んで立った。
美咲さんが尋ねた。
「箱が届いたら、何から確認されるんですか」
祖父のノートが浮かんだ。
これまで調べてきた記録の原本を、先に見たいと思った。
けれど、口に出た答えは違っていた。
「祖母の写真を先に見たいです」
僕は海のほうへ視線を向けた。
「僕が覚えている祖母の顔は、遺影の中のものだけですから」
「若いころの写真が残っているといいですね」
「そうですね」
「では、一緒に見ましょう」
美咲さんはそれだけ言って、また海を見た。
しばらくして、僕たちは階段を下りた。
駐車場にほとんど着いたころ、スマートフォンが鳴った。
母からのメッセージだった。
[あなたのお父さんが別に保管していた箱を見つけたわ。]
僕は足を止め、次のメッセージを待った。
[いろいろな書類と小さなノート、古い写真が入っているみたい。]
美咲さんが僕の隣へ近づいた。
「見つかったんですか」
「はい」
「おばあさまの物も入っているそうですか」
「そうみたいです」
僕はもう一度、スマートフォンの画面を見た。
韓国から渡ってくる箱には、祖父の記録だけが入っているわけではなかった。
その中には、僕がこれまでほとんど目を向けてこなかった、僕の祖母パク・ミレの時間も収められているはずだった。




