第88話 祖母の名前
翌朝、僕は委任状と身分証のコピーを鞄に入れ、宿の前で待っていた。
約束した時間より少し早く、美咲さんの車が到着した。
僕は助手席に乗り込んだ。
「おはようございます」
「おはようございます。書類は準備できましたか」
「はい。何度も確認しました」
僕が鞄を軽く叩くと、美咲さんが車を出した。
宿のある路地を抜けたあと、彼女が言った。
「昨夜は本当に驚きました」
「そんなに驚かれましたか」
「はい。本当に」
彼女は前を見たまま、少し言葉を止めた。
「ずっと記録で見ていた人が、ハルさんの曽祖父だったなんて」
「僕もまったく予想していませんでした」
「それで……」
美咲さんの声が少し小さくなった。
「一つ、謝りたいことがあります」
「何をですか」
「前に朴相吉さんの名前がまた出てきたとき、私、言いましたよね」
僕はすぐには思い出せなかった。
「何を言われましたか」
「だんだん、推理小説みたいになってきましたねって」
その言葉を聞いて、ようやく思い出した。
スキャン画面で朴相吉の名前を見つけたときだった。
美咲さんは書類の上の名前を指して言った。
犯人はこの人、みたいな。
「あ」
「思い出しましたか」
「はい」
「あの方がハルさんの曽祖父だったのに、私、犯人みたいなことを言ってしまって、すみません」
「大丈夫です。僕もあのとき一緒に笑いましたから」
「そうではあるんですけど……」
「むしろ、合っていたのかもしれません」
美咲さんが僕を少し見た。
「犯人だった、という意味ですか」
「いいえ。推理小説に出てくるような重要人物だった、という意味です」
美咲さんも少し笑った。
「それは間違いありませんね」
車は福山市内へ入った。
しばらくすると、道路の向こうに、大きな倉庫と事務棟がつながった建物が見えた。
建物の側面には、大きな文字が書かれていた。
瀬戸内から、世界の海へ。
美咲さんはその建物の駐車場へ入った。
「ここです」
建物の入口の上には、備後国際エクスプレスという会社名が掲げられていた。
中に入ると、壁には会社の沿革を紹介するパネルがあった。
「瀬戸内から、世界の海へ」は、創業当時から掲げられてきた言葉だった。
瀬戸内の港を行き来する海上貨物輸送から始まり、今では国際航空貨物まで扱っていると書かれていた。
美咲さんがあらかじめ連絡しておいた社員が、僕たちを待っていた。
「おっしゃっていた韓国行きの書類ですね」
「はい」
僕は鞄から委任状の原本と身分証のコピーを取り出した。
社員は書類と封筒に書かれた住所を順番に確認した。
「差出人の方の身分証も確認いたします」
僕は鞄からパスポートを取り出した。
社員は送り状に書かれた名前と、パスポートの名前を照合してから返してくれた。
「本日午前の受付分に入れることができます。予定どおり進めば、本日中に国際航空便に回せます」
社員は書類を封筒に入れ、封をした。
「韓国へは、早ければ明日、通常は明後日ごろにお受け取りいただけます。ただし、航空便や現地の通関状況によって変わることがあります」
「配送状況は確認できますか」
「はい。受付控えに記載されている番号を、弊社ホームページの荷物追跡に入力していただければ、現在の配送状況をご確認いただけます」
社員が受付控えを渡してくれた。
僕は番号を確認してから、財布に入れた。
「かなり多くの国へ送れるんですね」
美咲さんが言うと、社員がうなずいた。
「はい。韓国だけでなく、アジアやヨーロッパ、アメリカ大陸など、さまざまな国と地域へお送りしています。書類以外の貨物も可能です」
美咲さんは少し考えてから尋ねた。
「北朝鮮も可能なんですか」
社員の笑顔が止まった。
「北朝鮮は……」
彼は少し言葉を選んだ。
「現在、弊社の取扱地域ではございません。安定した輸送経路と通関手続きを確保するのが難しい地域ですので」
「そうなんですね。少し気になったので聞いてみました」
「はい」
社員は再び営業用の笑顔を浮かべた。
僕は軽く頭を下げた。
外へ出てから、美咲さんに尋ねた。
「急に北朝鮮のことを聞かれて、社員の方が少し戸惑っていたようでしたね」
「世界のいろいろな国へ送れると聞いたら、急に気になってしまって」
「北朝鮮がすぐに浮かんだんですか」
「いちばん送るのが難しそうな場所じゃないですか」
「それは、そうですね」
そのとき、僕は時間を確認した。
いつの間にか、昼食の時間が近づいていた。
「もうすぐ昼ですね」
「近くにうどん屋さんがあります」
車に乗った美咲さんが言った。
「どんなうどんですか」
「しまなみ海鮮かき揚げうどんです」
名前だけでは、どんな料理なのかすぐには思い浮かばなかった。
「かき揚げに海鮮が入るんですか」
「はい。それから、つゆはあごだしを使っています」
「あごですか」
「トビウオです。干したトビウオや焼いたトビウオでだしを取るそうです」
韓国でも、煮干しや昆布でだしを取る料理はあったが、トビウオでうどんのつゆを取るというのは初めて聞いた。
「楽しみですね」
僕たちは車で数分ほど離れた、小さなうどん屋へ向かった。
昼時だったので店内には客が多かったが、ちょうど窓側に席が空いていた。
美咲さんが、しまなみ海鮮かき揚げうどんを二つ注文した。
しばらくして、大きな器が僕たちの前に置かれた。
澄んだ薄い色のつゆの上に、丸いかき揚げがのっていた。
かき揚げには小さな海老とイカ、玉ねぎとねぎが一緒に揚げられていて、熱いつゆからは焼いた魚と醤油の香りがほのかに立ち上がっていた。
「先に、つゆを飲んでみてください」
美咲さんの言葉に、僕はれんげでつゆをすくって飲んだ。
最初はあっさりしていた。
けれど飲み込んだあと、魚のうまみがゆっくり残った。
煮干しのだしに似ていながら、生臭さはほとんどなかった。
「おいしいですね」
僕の言葉に、美咲さんが笑った。
「よかったです」
「思っていたより味が濃くありません」
「あごだしは、すっきりしているほうだそうです。その代わり、食べたあとに味が長く残ります」
僕は箸でうどんを取った。
麺は柔らかいのに、すぐには切れなかった。
かき揚げの端はまださくさくしていて、つゆに浸かった下の部分は少しずつ柔らかくなっていた。
小さな海老と玉ねぎを一緒に口に入れると、揚げ物の香ばしさとつゆのうまみが混じった。
「かき揚げを最初から全部つゆに沈める人もいますし、さくさくしているうちに少しずつ食べる人もいます」
美咲さんは、かき揚げの端を箸で切って食べた。
「美咲さんはどちらですか」
「半分はさくさくのまま食べて、半分はつゆに浸して食べます」
「両方を選ぶんですね」
「一つだけ選ぶ必要はないじゃないですか」
僕は美咲さんのように、かき揚げを半分に分けた。
さくさくした部分を先に食べ、残りの半分はつゆに沈めた。
緊張が少し解けたせいか、朝から何も食べていなかったことに、ようやく気づいた。
僕たちはしばらく黙ってうどんを食べた。
つゆに浸かったかき揚げは、最初とはまったく違う食感になっていた。
衣はつゆを含んでも完全には崩れず、中の海老やイカの味がむしろはっきりした。
「こちらもおいしいですね」
「でしょう?」
美咲さんが満足そうにうなずいた。
僕は残ったつゆをもう一口飲んだ。
「書類が届いたら、婚姻の日付はわかるんですよね」
美咲さんが尋ねた。
「記録が残っていれば、ですが」
「では、お二人がいつ結婚されたのかはわかりますね」
「はい」
「朴相吉さんが、お二人を紹介したのでしょうか」
「そうかもしれません。あるいは、最初からお互いに知っていたのかもしれませんし」
可能性はいくつもあったが、どれも確認されたものではなかった。
美咲さんはかき揚げの最後の一切れをつゆに浸しながら尋ねた。
「そういえば、ハルさん」
「はい」
「おばあさまのお名前は何だったんですか」
僕はすぐには答えられなかった。
祖母のことを、名前で思い浮かべたことがほとんどなかった。
僕にとってはいつも祖母であり、父にとっては母だった。
しばらく記憶をたどってから、名前が浮かんだ。
「パク・ミレです」
「ミレ?」
「はい。パク・ミレ」
久しぶりに口に出した名前だった。
美咲さんがゆっくり繰り返した。
「ミレ……日本語の『ミライ』と少し似ていますね」
「韓国語で『未来』もミレと言います。祖母の名前と発音は同じです」
「では、同じ意味の名前なんですか」
「漢字はたぶん違うと思います。特に祖母の世代では、『未来』という単語をそのまま名前に使うことは、あまり多くなかったはずですから。正確な漢字は、除籍謄本が届けばわかると思います」
僕は器に残ったつゆを見つめた。
パク・ミレ。
名前を思い浮かべると、昔見た祖母の遺影が浮かんだ。
きちんと整えられた髪。固く閉じられた唇。
表情の読み取りにくい目。
そして、母が言っていた言葉も思い出した。
母は、祖母をあまり簡単にかわいそうな人にしないで、と言っていた。
あの人も、祖父のそばで自分の人生を生きたのだと。
僕はこれまで、祖父がどこから来たのか、誰に出会い、佐伯春雄がどうやって金春雄という名前で生きるようになったのかだけを追ってきた。
その隣にいた人については、ほとんど考えていなかった。
僕は祖母の名前は知っていた。
けれど、パク・ミレがどんな人だったのかは、ほとんど知らなかった。




