第9話 焼き上がった写真
美咲は写真をのぞき込み、小さく言った。
「これ……祖父が撮った写真、なんですね」
その声には、戸惑いが滲んでいた。
早苗さんは、写真を長いあいだ見つめていた。
やがて、低い声で言った。
「母の遺品の中に、この写真があった覚えはありません」
僕は早苗さんを見た。
美咲も、母のほうへ顔を向けた。
「お母さん、本当に?」
「ええ」
早苗さんは、ゆっくりとうなずいた。
「若いころの写真は何枚かありました。でも、この写真は……見たことがありません」
僕はすぐには返事ができなかった。
千代子の家には残っていなかった写真が、祖父の倉庫には残っていた。
僕はテーブルの上の一枚を、もう一度見た。
写っているのは二人なのに、長いあいだ持っていたのは祖父のほうだけだった。
千代子の家に残らなかったのは、なくしたからなのか、それとも誰かが手放したからなのか。
早苗さんに尋ねるには、まだ早すぎる気がした。
そのとき、美咲が慎重に手帳を持ち直した。
「続きを……」
「読んでみます」
早苗さんは、黙ってうなずいた。
僕も写真から手を離せないまま、彼女の声を待った。
美咲の声を追ううちに、シャッターのあとに残された時間が、ゆっくりと僕の中で形を取り始めた。
◆◆◆
シャッターの音がしたあとも、千代子はしばらく動けなかった。
佐伯も同じだった。
二人はカメラを見たまま立っていて、先に動いたのは修一だった。
彼は黒い布の下から顔を出し、慎重に道具を片づけ始めた。
「撮れました」
その言葉で、千代子はようやく息を吐いた。
佐伯も、少し固くなっていた肩を下ろした。
「ありがとうございました」
彼は修一に、深く頭を下げた。
「写真代は……」
「焼き上がってからでいいです」
修一は短く答えた。
千代子には、それがいつもより少しだけ静かに聞こえた。
佐伯はもう一度、頭を下げた。
「では、しばらく宿におりますので」
写真が出来上がったら、一枚は千代子へ、もう一枚は宿へ届けることになった。
港から写真館へ戻る道で、三人はあまり話さなかった。
海風は、さっきよりも弱くなっていた。
千代子は歩きながら、何度も佐伯のほうを見そうになって、そのたびにやめた。
彼が写真を残したいと言ったときの表情。
この町に来たことを残しておきたい、と言った声。
それが何度も浮かんできた。
写真館の前に着くと、佐伯はまた二人に頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました」
「いえ」
千代子が答えた。
返事は短かった。
短くしなければ、ほかの言葉まで口にしてしまいそうだった。
佐伯は、宿へ続く路地のほうへゆっくり歩いていった。
その背中が角を曲がって見えなくなるまで、千代子はその場に立っていた。
そして、そのことを修一が見ているのもわかっていた。
「千代子さん」
修一が静かに呼んだ。
千代子は少し驚いて振り返った。
修一は写真館の入口に立っていた。
「佐伯さんは……」
言葉はそこで、しばらく止まった。
千代子には、彼が何を尋ねたいのか、なんとなくわかった。
「いつまで、鞆にいるんですか」
千代子は答えられなかった。
正確に知らなかったからでもある。
けれどそれ以上に、答えたくなかったのかもしれない。
その問いはつまり、いつか去っていく人なのかと尋ねる言葉でもあった。
千代子が何も言わないでいると、修一はそれ以上聞かなかった。
代わりに、道具の入った箱をもう一度持ち上げた。
「すみません。変なことを聞きました」
「ううん」
千代子は首を横に振った。
けれど、そのあとに続ける言葉を見つけられなかった。
修一は写真館の中へ入っていった。
その後ろ姿を見ながら、千代子は、何かを見られてしまったような気がした。
修一は何も言わなかった。
ただ、写真館の奥へ入っていった。
その夜、千代子は手帳に、写真を撮ったことを書いた。
佐伯さんの写真を撮った。
私も一緒に写った。
そこまで書いて、しばらく筆が止まった。
ただ写真を撮っただけだと書けば、それで済むはずだった。
けれど、そのあとに続ける言葉が、なかなか見つからなかった。
佐伯さんと歩いた港の道を、何度も思い出してしまう。
朝鮮の話を聞いたこと。
鞆の海を一緒に見たこと。
それだけのことなのに、なかなか忘れられない。
佐伯さんが隣に立ったとき、私はどこを見ればいいのかわからなかった。
近づきすぎてはいけないと思った。
けれど、離れすぎたくもなかった。
まだ数日しか知らない人なのに。
いつか朝鮮へ帰ってしまう人なのに。
それでも、写真が焼き上がる日を数えてしまう。
そう書いてから、千代子はペンを置いた。
窓の外からは、波の音がかすかに聞こえていた。
千代子は、しばらくその音を聞いていた。
◆◆◆
美咲はそこで、少し読むのを止めた。
早苗さんは、指先で手帳の端に触れかけて、すぐに引いた。
「母が、こんなふうに誰かのことを書いていたなんて……」
その声は低かった。
早苗さんは、手帳ではなく、年老いた千代子の写真のほうを見ていた。
「父も母も、この頃のことは何も話してくれませんでした。少なくとも、私には」
美咲は何も言えないまま、手帳を見つめていた。
やがて、美咲が次のページをめくった。
手帳の文字は、少し変わっていた。
前の記録より短く、揺れがあった。
美咲はそのページを見るなり、ほんのわずかに眉を寄せた。
「どうしたんですか」
僕が尋ねると、彼女はすぐには答えなかった。
代わりに、ゆっくりと最初の行を読んだ。
「写真が、焼き上がった」
美咲は次の行を読んだ。
「修一くんが、佐伯さんの分は宿へ届けに行くと言った」
そこまでは、おかしくなかった。
けれど次の行で、美咲の声が少し低くなった。
「けれど、その前に……」
彼女はそこで、少し止まった。
早苗さんの手が、手帳の端で動きを止めた。
美咲は次の文を読んだ。
「父に、写真のことを知られてしまった」




