第10話 残すものではない
「父に、写真のことを知られてしまった」
美咲がその一文を読んだあと、部屋の中には短い沈黙が落ちた。
早苗さんが、低い声で言った。
「母方の祖父は、鞆で長く巡査部長をしていた人です」
美咲が僕を見て、付け加えた。
「役職だけで言えば、そこまで上の人ではなかったのかもしれません。でも、この町では、祖父の言葉を軽く受け流せる人は少なかったそうです」
美咲は、もう一度手帳へ視線を落とした。
「続き、読みます」
彼女は、ゆっくりと次の行を読んだ。
「私は、写真を受け取りに行く前から、胸が落ち着かなかった」
その文は、写真のことを知られてしまう瞬間より、少し前の時間を指していた。
千代子は、まだ写真を受け取っていなかった。
写真は藤井写真館の中にあり、彼女はそれを取りに行くところだった。
手帳に書かれていたのは、短い記録だった。
けれど美咲の声を聞いているうちに、僕の頭の中では、その日の藤井写真館の入口が少しずつ見えてきた。
◆◆◆
藤井写真館へ向かう道は、いつもと変わらなかった。
家々のあいだを低い風が抜け、港のほうからは船の音が小さく聞こえていた。
けれど千代子は、いつもの道をいつもの速さで歩けなかった。
藤井写真館が見えるたびに、足が少しだけ遅くなった。
佐伯と並んで立った時間が、本当に写真として残った。
考えてみれば、家族でも親戚でもない男の人と二人で写真を撮ったのは、これが初めてだった。
写真館の前に着いたとき、修一は店の奥で封筒を整理していた。
彼は千代子を見ると、すぐに顔を上げた。
「千代子さん」
千代子は短く尋ねた。
「写真は……」
修一は少し迷ってから、うなずいた。
「焼き上がっています」
彼は奥から、小さな封筒をひとつ持ってきた。
千代子に渡すための写真だった。
修一がその封筒を差し出そうとした瞬間、写真館の扉が開いた。
外の光が、短く差し込んできた。
千代子は振り返った。
父だった。
父は巡査の制服を着ていたわけではなかった。
それでも彼が中へ入ってきた途端、小さな写真館の空気が一気に狭くなった。
修一が慌てて頭を下げた。
「おはようございます」
父は短くうなずき、店の奥を見た。
「お父さんはいるか」
「奥におります」
「少し話がある。港の写真のことでな」
その言葉に、修一の手がほんの少しこわばった。
父は続けた。
「この頃は、よその者の出入りも多い。港や船を不用意に写されては困る」
そこでようやく、父は千代子を見た。
最初は、少し意外そうな顔だった。
「千代子。こんなところで何をしている」
そのとき、父の視線が修一の手にある封筒へ向いた。
「写真か。お前の写真か」
千代子は答えられなかった。
父が一歩近づいた。
「少し見せてみろ」
修一は、封筒を握ったまま動けなかった。
父は、もう一歩近づいた。
「見せろ」
修一はゆっくりと封筒を差し出した。
父は修一の手から封筒を取った。
そして、中の写真を取り出した。
写真の中には、佐伯と千代子が並んで立っていた。
海は小さく、ぼんやりとしか入っていなかった。
港や船を詳しく写した写真ではなかった。
けれど父の目は、海ではなく、佐伯の顔と、千代子の立ち位置に止まっていた。
父の顔から感情が消えた。
そのほうが、千代子には怖かった。
「この男は誰だ」
写真館の中が静かになった。
千代子が先に答えた。
「佐伯さんです」
「見ない顔だな。どこの者だ。福山か、尾道か」
「釜山から来た方だと……朝鮮の釜山です」
「朝鮮?」
父の声が、そこで少し低くなった。
「なぜ、お前が朝鮮から来た男と写真に写っている。どういう知り合いだ」
千代子は手を強く握った。
千代子には、父が「釜山」という地名を聞いていないように見えた。
父の耳に残ったのは、ただ「朝鮮」という言葉だけだった。
どうしよう。
嘘をつくつもりはなかった。
けれど、すべてを話すこともできなかった。
だから、事実の一部だけを言った。
「宿を探して困っていらしたので、少し案内しました」
父は答えなかった。
千代子は、言葉を続けるしかなかった。
「写真は……佐伯さんが、鞆に来たことを残しておきたいとおっしゃって」
「それで、なぜお前が入る」
千代子は答えられなかった。
写真に入ったらどうかと先に言ったのは、自分ではなかった。
けれど、断らなかったのは自分だった。
そのことがあるから、何を言っても言い訳のように聞こえてしまいそうだった。
そのとき、修一が一歩前へ出た。
「私が、一緒に写ったほうがいいと言いました」
千代子は驚いて修一を見た。
彼が先に言うとは思わなかった。
父の視線が、修一へ向いた。
「お前が言ったのか」
修一は頭を下げた。
「はい」
その声は小さかったが、はっきりしていた。
「佐伯さんが緊張していたので……撮る側として、千代子さんも入ったほうが写真が自然に見えると思いました」
「自然」
父がその言葉を繰り返した。
「見習いが……」
小さくつぶやいただけだったが、写真館の中でははっきり聞こえた。
「知らぬ男と並んで写ることが、自然か」
修一は答えられなかった。
けれど父は、それ以上彼を問い詰めなかった。
ただ、写真へ視線を戻した。
父は、長いあいだ何も言わなかった。
いっそ叱られたほうがましなのかもしれないと、千代子は思った。
やがて父は修一を見た。
「原板はあるな」
修一は、ごく短く息を吸った。
「……はい」
「焼き増しはするな」
父は、写真を見下ろしたまま言った。
「原板も処分しろ」
命令だった。
千代子は、遅れて一歩前へ出ようとした。
「お父さん、その写真は……」
けれど父は、もう写真の端をつかんでいた。
千代子はそのとき、父が何をしようとしているのかを悟った。
「やめてください」
言葉は遅すぎた。
紙の裂ける音がした。
大きな音ではなかった。
けれど千代子は、その場で息を止めた。
写真の中で、まず海が裂けた。
それから、佐伯と千代子のあいだに白い破れ目が走った。
千代子は、手を伸ばせなかった。
父は裂けた写真をもう一度折り、さらに破いた。
写真は、いくつもの欠片になった。
父はその欠片を手にしたまま言った。
「これは、残すものではない」
千代子は何も言えなかった。
父は、もう一度修一を見た。
「わかったな」
修一は頭を下げた。
「……はい」
「お前の父に免じて、今回はこれで済ませておく」
修一は、頭を下げたまま、すぐには顔を上げなかった。
「千代子」
父が言った。
「帰るぞ」
その言葉には、説明も、待つ気配もなかった。
千代子は何も言えないまま、父のあとについて写真館を出た。
◆◆◆
美咲はそこで、少し読むのを止めた。
僕はテーブルの上の白黒写真を見た。
韓国の古い倉庫から出てきて、今ここにある一枚だった。
父が破いたのが、千代子に渡るはずだった写真なら、破られずに残ったもう一枚が、ここにある。
それが急に、不思議なことのように思えた。
早苗さんが低く言った。
「母の遺品に、この写真がなかった理由は……」
彼女は、最後まで言えなかった。
僕にも、まだわからなかった。
では、僕の手元にあるこの写真は、どうやって残ったのだろう。
そのとき、美咲は手帳を少し手前へ引き寄せた。
「まだ、続きがあります」




