表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/43

第11話 もう一枚の写真

「そのあと、私は家へ連れて帰られた」


「父は、写真のことは忘れなさいと言った」


「忘れられるはずがないと思った」


美咲は、次の行を読んだ。


「けれど、本当に不思議だった」


「修一くんが、私より先に口を開いた」


「ただ写真を撮るのが好きな、おとなしい子だと思っていたのに」


「あの場で前に出てくれるとは思わなかった」


「ありがたかった。本当に」


その言葉を聞いた早苗さんが、静かに目を伏せた。


美咲は続けて読んだ。


「佐伯さんの分も、もう残らないのだと思った」


「昼間に裂かれた写真の音が、まだ耳に残っていた」


「けれど、私は何もできなかった」


そのあたりの文字は、少し滲んでいた。


美咲は次の文の前で、ごく短く止まった。


「夜になってから、修一くんが来た」


その一文のあと、美咲の声が少し低くなった。


手帳に書かれていたのは、短い記録だった。


けれどその夜の勝手口の暗さだけは、なぜかはっきり浮かんできた。


◆◆◆


その夜、千代子は部屋の中に座っていた。


家の中は、不思議なくらい静かだった。


父は夕食のあいだ、ほとんど何も言わなかった。


箸の音だけが、ときどき膳の上で小さく鳴った。


千代子は、顔を上げられなかった。


夜が深くなったころ、勝手口のほうで小さな音がした。


戸を叩くというより、もっと遠慮がちな音だった。


千代子が戸の隙間から外を見ると、修一が立っていた。


「修一くん……」


千代子が低く呼ぶと、修一は慌てて頭を下げた。


「すみません。こんな時間に」


「どうしたの。藤井のおじさんのお使い?」


修一がもっと幼かったころ、彼は何度か千代子の家へ使いに来たことがあった。


そのたびに、迎えたのは千代子だった。


けれどその夜の修一は、いつもの使いの顔をしていなかった。


修一は、しばらく何も言えなかった。


そして、とても小さな声で言った。


「佐伯さんの分は、まだ渡せます」


千代子は、その言葉をすぐには理解できなかった。


「え?」


「写真です」


修一は、さらに声を落とした。


「原板を処分する前に、一枚だけ、焼いておきました」


千代子は息を止めた。


昼間に破られたのは、自分の手に渡るはずだった写真だった。


そして父は、原板も処分しろと言った。


だから、すべてが消えたのだと思っていた。


それなのに修一は、そのあいだにもう一枚を残していた。


「どうして……」


それしか言葉が出なかった。


修一は答えを探すように、しばらく目を伏せた。


「渡すと、約束していましたから」


その言葉は、とても平凡だった。


約束していたから。


引き受けた仕事だから。


そう言えば済むことのようにも聞こえた。


けれど千代子にはわかった。


それが、ただの仕事ではないことを。


父の命令に背いて、原板を処分する前に一枚だけ焼いた。


千代子は、修一の手元を見た。


その薄い封筒ひとつで、藤井写真館にまで迷惑が及ぶかもしれなかった。


「危なくないの」


どれほど家同士の付き合いがあったとしても、父の命令に背くことに変わりはなかった。


「わかりません」


修一は正直に言った。


千代子は口を閉ざした。


「明日、宿へ届けます」


「佐伯さんに?」


修一はうなずいた。


「誰にも見せないように、そう伝えます」


そして少し迷ってから、付け加えた。


「事情も、少しだけ伝えます。港や背景のことで疑われたのだと」


千代子は、長いあいだ何も言えなかった。


それ以外にも、彼に伝えたいことはたくさんあった。


自分に渡されるはずだった写真が破られたこと。


父が警察の人間で、あなたのことを知ってしまったこと。


だから気をつけてほしいということ。


けれど、そのどれも簡単には口にできなかった。


修一に、これ以上背負わせてはいけない気がした。


だから結局、千代子はしばらくしてから、ようやく言った。


「明日、鞆を出るのかどうか……」


修一は彼女を見た。


千代子は言葉を続けた。


「それだけ、聞いてもらえますか」


修一は静かにうなずいた。


「わかりました」


千代子はもう一度言った。


「それと……」


修一が待っていた。


千代子は、ごく小さく付け加えた。


「気をつけてください、と」


修一は頭を下げた。


「伝えます」


「修一くんも、気をつけて」


その言葉に、修一が千代子を見た。


千代子は、さらに小さな声で言った。


「ありがとう」


修一はその言葉を聞くと、それ以上とどまらなかった。


路地のほうへ、静かに歩いていった。


千代子は部屋へ戻った。


そして手帳を開いた。


ついさっきあったことを書いた。


最後に、こんな文を残した。


父に逆らいたかったのではない。


その一文を書いてから、長いあいだ手が止まった。


次の行には、少し間を置いて、こう書かれていた。


ただ、佐伯さんのことを、父の言葉だけで終わらせたくなかった。


自分の手に渡るはずだった写真は、もう戻ってこない。


けれど佐伯さんへ渡されるはずの一枚は、まだ残っている。


千代子はその行を見つめたまま、しばらく手を動かせなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ