第11話 もう一枚の写真
「そのあと、私は家へ連れて帰られた」
「父は、写真のことは忘れなさいと言った」
「忘れられるはずがないと思った」
美咲は、次の行を読んだ。
「けれど、本当に不思議だった」
「修一くんが、私より先に口を開いた」
「ただ写真を撮るのが好きな、おとなしい子だと思っていたのに」
「あの場で前に出てくれるとは思わなかった」
「ありがたかった。本当に」
その言葉を聞いた早苗さんが、静かに目を伏せた。
美咲は続けて読んだ。
「佐伯さんの分も、もう残らないのだと思った」
「昼間に裂かれた写真の音が、まだ耳に残っていた」
「けれど、私は何もできなかった」
そのあたりの文字は、少し滲んでいた。
美咲は次の文の前で、ごく短く止まった。
「夜になってから、修一くんが来た」
その一文のあと、美咲の声が少し低くなった。
手帳に書かれていたのは、短い記録だった。
けれどその夜の勝手口の暗さだけは、なぜかはっきり浮かんできた。
◆◆◆
その夜、千代子は部屋の中に座っていた。
家の中は、不思議なくらい静かだった。
父は夕食のあいだ、ほとんど何も言わなかった。
箸の音だけが、ときどき膳の上で小さく鳴った。
千代子は、顔を上げられなかった。
夜が深くなったころ、勝手口のほうで小さな音がした。
戸を叩くというより、もっと遠慮がちな音だった。
千代子が戸の隙間から外を見ると、修一が立っていた。
「修一くん……」
千代子が低く呼ぶと、修一は慌てて頭を下げた。
「すみません。こんな時間に」
「どうしたの。藤井のおじさんのお使い?」
修一がもっと幼かったころ、彼は何度か千代子の家へ使いに来たことがあった。
そのたびに、迎えたのは千代子だった。
けれどその夜の修一は、いつもの使いの顔をしていなかった。
修一は、しばらく何も言えなかった。
そして、とても小さな声で言った。
「佐伯さんの分は、まだ渡せます」
千代子は、その言葉をすぐには理解できなかった。
「え?」
「写真です」
修一は、さらに声を落とした。
「原板を処分する前に、一枚だけ、焼いておきました」
千代子は息を止めた。
昼間に破られたのは、自分の手に渡るはずだった写真だった。
そして父は、原板も処分しろと言った。
だから、すべてが消えたのだと思っていた。
それなのに修一は、そのあいだにもう一枚を残していた。
「どうして……」
それしか言葉が出なかった。
修一は答えを探すように、しばらく目を伏せた。
「渡すと、約束していましたから」
その言葉は、とても平凡だった。
約束していたから。
引き受けた仕事だから。
そう言えば済むことのようにも聞こえた。
けれど千代子にはわかった。
それが、ただの仕事ではないことを。
父の命令に背いて、原板を処分する前に一枚だけ焼いた。
千代子は、修一の手元を見た。
その薄い封筒ひとつで、藤井写真館にまで迷惑が及ぶかもしれなかった。
「危なくないの」
どれほど家同士の付き合いがあったとしても、父の命令に背くことに変わりはなかった。
「わかりません」
修一は正直に言った。
千代子は口を閉ざした。
「明日、宿へ届けます」
「佐伯さんに?」
修一はうなずいた。
「誰にも見せないように、そう伝えます」
そして少し迷ってから、付け加えた。
「事情も、少しだけ伝えます。港や背景のことで疑われたのだと」
千代子は、長いあいだ何も言えなかった。
それ以外にも、彼に伝えたいことはたくさんあった。
自分に渡されるはずだった写真が破られたこと。
父が警察の人間で、あなたのことを知ってしまったこと。
だから気をつけてほしいということ。
けれど、そのどれも簡単には口にできなかった。
修一に、これ以上背負わせてはいけない気がした。
だから結局、千代子はしばらくしてから、ようやく言った。
「明日、鞆を出るのかどうか……」
修一は彼女を見た。
千代子は言葉を続けた。
「それだけ、聞いてもらえますか」
修一は静かにうなずいた。
「わかりました」
千代子はもう一度言った。
「それと……」
修一が待っていた。
千代子は、ごく小さく付け加えた。
「気をつけてください、と」
修一は頭を下げた。
「伝えます」
「修一くんも、気をつけて」
その言葉に、修一が千代子を見た。
千代子は、さらに小さな声で言った。
「ありがとう」
修一はその言葉を聞くと、それ以上とどまらなかった。
路地のほうへ、静かに歩いていった。
千代子は部屋へ戻った。
そして手帳を開いた。
ついさっきあったことを書いた。
最後に、こんな文を残した。
父に逆らいたかったのではない。
その一文を書いてから、長いあいだ手が止まった。
次の行には、少し間を置いて、こう書かれていた。
ただ、佐伯さんのことを、父の言葉だけで終わらせたくなかった。
自分の手に渡るはずだった写真は、もう戻ってこない。
けれど佐伯さんへ渡されるはずの一枚は、まだ残っている。
千代子はその行を見つめたまま、しばらく手を動かせなかった。




