第12話 届けられた写真
美咲は、少しだけ息を整えてから、次の行を読んだ。
「これは、あとで修一くんから聞いたことだ」
その一文を聞いた瞬間、僕は少し顔を上げた。
今度は、修一の話だった。
美咲は手帳へ視線を落としたまま、次の文を読んだ。
「修一くんは、翌朝、佐伯さんの宿へ行った」
手帳に残っているのは、あとで聞いた話の短い記録だった。
けれどその朝、修一が写真館を出ていく姿が、僕の中で少しずつ形を持ち始めた。
◆◆◆
翌朝、修一は藤井写真館を少し早く出た。
懐には、小さな封筒があった。
原板を処分する前に、ひそかに一枚だけ焼いた写真だった。
修一は、懐の上から何度も封筒の位置を確かめた。
旅館の正面からは入らなかった。
正面から入れば、誰かに見られる。
鞆のような町では、誰かに見られたことは、すぐに別の誰かの耳へ入る。
修一は少し迷ってから、旅館の裏手へ回った。
台所へ続く小さな戸の近くで、低い声で尋ねた。
「佐伯さんは、いらっしゃいますか」
台所にいた女将が顔を向けた。
藤井写真館の息子だとわかると、女将は余計なことは聞かずに奥へ入っていった。
写真館の使いだと思ったのだろう。
それだけで、修一は少しだけ息をついた。
しばらくして、佐伯春雄が出てきた。
昨日よりも少し疲れて見えた。
けれど修一を見ると、すぐに姿勢を正した。
「藤井写真館の……」
「修一です」
修一は短く頭を下げた。
そして懐から封筒を取り出した。
「これは、佐伯さんの分です」
それから、修一は周囲を一度確かめ、さらに声を落とした。
「人目に出してはいけない写真です」
その言葉に、佐伯の手が封筒の手前で止まった。
修一は封筒を差し出しながら、付け加えた。
「誰にも見せないでください。少なくとも、鞆にいるあいだは。それが千代子さんのためです」
佐伯は、慎重に封筒を受け取った。
彼は封筒を開けずに尋ねた。
「千代子さんに、何かあったのですか」
修一は、すぐには答えられなかった。
それを自分が話していいのか、わからなかった。
けれど何も言わなければ、かえって不自然に思われる気もした。
「千代子さんの分の写真は、残りませんでした」
佐伯の手が止まった。
「残らなかった、というのは……」
修一は頭を下げた。
「千代子さんのお父上が破りました。大変お怒りでした。気をつけてください」
佐伯は何も言えなかった。
修一は続けた。
「あの方は警察の方です。巡査部長で、このあたりのことを見ておられます」
佐伯は、低く息を吸った。
「ああ……そうでしたか」
修一は少し迷ってから、もう一度言った。
「港や背景のことで、写真を残してはいけないと」
修一はそう言った。
けれど佐伯は、その説明だけを聞いている顔ではなかった。
彼は封筒を見下ろしたまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、低い声で尋ねた。
「千代子さんは、ご無事ですか」
「家へ連れて帰られました」
修一はそこで、少し止まった。
そして千代子に頼まれた言葉を思い出した。
一瞬、ためらった。
けれど結局、尋ねた。
「千代子さんが、聞いてほしいと」
「何を、ですか」
「今日、鞆を出るのかどうか」
佐伯は目を伏せた。
彼はすぐには答えなかった。
修一には、その沈黙が答えのように思えた。
「出るつもりでした」
その声は小さかった。
「今日の夕方には、福山へ戻るつもりでいました」
修一は何も言わなかった。
佐伯は封筒を手にしたまま、しばらく立っていた。
そして静かに言った。
「でも、このまま出ることはできません」
修一は顔を上げた。
佐伯は彼を見ていなかった。
ただ、封筒だけを見つめていた。
「千代子さんに、会えますか」
その言葉に、修一の顔が少しこわばった。
それは、自分が答えられることではなかった。
修一はゆっくりと言った。
「それは、私が決めることではありません」
佐伯はうなずいた。
「そうですね」
彼は少し息を整えてから、もう一度言った。
「では、もし伝えられるなら」
修一は待った。
佐伯は、とても低い声で言った。
「鞆を出る前に、一度だけ会いたいと」
それは頼みだった。
修一は、すぐには返事ができなかった。
写真を渡しに来ただけのはずだった。
佐伯は続けた。
「無理なら、かまいません」
佐伯はそう言ったが、視線はしばらく封筒から離れなかった。
修一は、しばらくしてようやく頭を下げた。
「伝えるだけです」
佐伯は、そのとき初めて修一を見た。
「ありがとうございます」
修一は首を横に振った。
「礼を言われることではありません」
修一は背を向けようとして、千代子が最後に付け加えた言葉を思い出した。
「それから」
佐伯が彼を見た。
修一は言った。
「気をつけてください、と」
佐伯の目が、ほんの少し揺れた。
「千代子さんが?」
修一はうなずいた。
佐伯は封筒を、胸元へそっと寄せた。
そして、とても小さく言った。
「……わかりました」
修一はそれ以上とどまらなかった。
旅館の裏手の狭い道を抜け、また港のほうへ歩いた。
朝の鞆の浦は静かだった。
船の音も、人の話し声も、昨日と大きくは変わらなかった。
けれど修一には、そのすべてが少し違って見えた。
彼は写真を届けた。
しかし、それで終わったわけではなかった。
今の彼は、もうひとつの言葉を持っていた。
千代子さんに会いたい。
鞆を出る前に、一度だけ。
その言葉を千代子に伝えるのか。
伝えれば、何が起こるのか。
修一には、まだわからなかった。
ただその朝、写真は佐伯の手に渡った。
修一は空になった懐に手を当てた。
そこにはもう封筒はなかった。
それでも、帰り道の足は少し重かった。
◆◆◆
美咲はそこまで読んで、静かに息を吐いた。
早苗さんは手を膝の上に置いたまま、何も言わなかった。
僕はテーブルの上の写真を見つめた。
この一枚は、修一の懐から佐伯春雄の手へ渡った写真だった。
破られずに残った一枚が、どうして祖父の手元に渡ったのか。
その道筋が、ようやく見えた気がした。
「続けて読みます」
美咲は、手帳の次の行を見た。
「その日の昼すぎ、修一くんがもう一度来た」




