第13話 一度だけ会いたい
「その日の昼すぎ、修一くんがもう一度来た」
美咲がその一文を読むと、僕は自然と、テーブルの上の写真から目を離した。
「修一くんは、佐伯さんの言葉を持ってきた」
手帳に残っている言葉は、そこまで多くなかった。
けれどその昼すぎ、裏口に立つ修一の姿が、僕の中で少しずつ形を持ち始めた。
◆◆◆
その日の昼すぎ、千代子は部屋の中にいた。
父は朝から家を出ていたが、家の中の空気はまだ重かった。
母はいつもより口数が少なく、千代子もむやみに部屋の外へ出ようとはしなかった。
昨日、写真が破られた音が、まだ耳の奥に残っていた。
そのとき、裏口のほうで小さな音がした。
千代子は慎重に、戸の隙間から外を見た。
修一だった。
夜に訪ねてきたときとは違い、彼は明るい昼の光の中に立っていた。
それなのに、その顔は昨夜よりもさらに暗く見えた。
「修一くん」
千代子が低く呼ぶと、修一は頭を下げた。
「何度も失礼します」
「写真は……渡せたの?」
千代子の声は、自分で思っていたよりも小さかった。
修一はうなずいた。
「渡しました」
その言葉を聞いた瞬間、千代子はほんの少し息ができた。
写真は消えなかった。
少なくとも、佐伯の手には渡った。
けれど修一の表情は、まだ晴れていなかった。
千代子はその顔を見て、彼が写真だけを届けに来たのではないことを知った。
「佐伯さんは……何か言っていた?」
修一は、すぐには答えなかった。
一度目を伏せ、それからもう一度千代子を見た。
「今日の夕方には、福山へ戻るつもりだったそうです」
千代子は指先を強く握った。
予想していなかったわけではなかった。
けれど、修一の口から聞くと、その言葉は思っていたより近かった。
「そう……」
千代子は、それだけを言った。
修一は少しためらった。
それから、とても慎重に言葉を続けた。
「でも、このまま出ることはできないと」
千代子は顔を上げた。
修一はさらに声を落として言った。
「鞆を出る前に、一度だけ会いたいそうです」
その言葉は静かだった。
千代子は、戸の隙間に手を置いたまま動けなかった。
佐伯は、黙って去ろうとしているのではなかった。
千代子は、しばらく何も言えなかった。
父は写真を破った。
その場で何も言えなかった自分の手を、千代子は思い出した。
けれど今は、修一の前で黙っていることができなかった。
「修一くん」
「はい」
「あなたは、どう思う?」
そう尋ねてから、千代子はすぐに口をつぐんだ。
修一に聞くことではなかった。
修一は答えられなかった。
長い沈黙のあと、ようやく、とても慎重に言った。
「私は、決められません」
その言葉は冷たくなかった。
むしろ、だからこそ申し訳なかった。
修一は頭を下げたまま、付け加えた。
「ただ、伝えるだけです」
千代子はうなずいた。
「ごめんなさい」
「謝られることではありません」
「でも、迷惑をかけているわ」
修一は答えられなかった。
その沈黙だけで、千代子には十分だった。
千代子は、ゆっくりと息を吸った。
「会うなら、夜しかないと思う」
修一の顔がこわばった。
「千代子さん」
その声には、止めたい気持ちが滲んでいた。
千代子にも、それはわかった。
「常夜灯の近くと言えば、佐伯さんにもわかるでしょう」
佐伯が、遠くから見える戻る場所だと言った灯りだった。
「夜に出歩くのは危険です」
修一が言った。
「わかっている」
父に見つかれば、昨日よりも大きなことになる。
佐伯にとっても、修一にとっても、よいことではない。
それでも千代子は、その言葉を取り消せなかった。
「父に逆らいたいわけじゃないの」
昨夜、手帳に書いた言葉が、今度は声になって出た。
「でも、このまま終わらせたら、きっとずっと残ってしまうと思う」
修一は何も言わなかった。
千代子は、その沈黙を待った。
しばらくして、修一がとても低い声で言った。
「伝えます」
千代子は頭を下げた。
「ありがとう」
修一は背を向ける前に、もう一度尋ねた。
「本当に、伝えていいんですか」
千代子はしばらく目を閉じ、それから開いた。
そして小さく言った。
「お願いします」
修一は深く頭を下げた。
それから静かに、路地のほうへ姿を消した。
千代子は、しばらくその場に立っていた。
まだ昼の光は残っていた。
けれど常夜灯のあるほうから、もう夜の風が来ているような気がした。
◆◆◆
美咲は、そこで一度だけ息を置いた。
けれど次の行へ進む前に、指先を少し止めた。
早苗さんは何も言わなかった。
僕は写真を見つめていた。
佐伯の手に渡った一枚。
そこから戻ってきた言葉。
美咲は低い声で、次の行を読んだ。
「その夜、私は家を出た」




