第14話 月と星と海
「その夜、私は家を出た」
美咲がその一文を読んだあと、誰もすぐには口を開かなかった。
早苗さんは、何も言わなかった。
僕は、手帳のその行から目を離せなかった。
美咲は、次の行を読んだ。
「私は、常夜灯のほうへ歩いた」
手帳に書かれていたのは、そこまで多くない言葉だった。
けれどその夜、常夜灯へ向かう千代子の足音が、僕の中で少しずつ聞こえ始めた。
◆◆◆
その夜、家の中は早く静かになった。
父は帰っていたが、千代子には何も言わなかった。
隣の部屋で、父が湯呑みを置く音だけがした。
千代子は、その音に何度も肩をこわばらせた。
母も何かを知っているようだったが、尋ねてはこなかった。
夜が深まり、家の中の小さな物音がひとつずつ消えていったころ、千代子は静かに立ち上がった。
裏口を開ける手が震えた。
ほんの小さな音でも、父が自分の名を呼ぶのではないかと思った。
けれど、誰も出てこなかった。
千代子は路地を歩いた。
昼間は見慣れていた道が、夜になると少し違う道のように見えた。
怖かった。
けれど、止まることはできなかった。
常夜灯に近づくにつれ、暗がりの中でも道の輪郭が少しずつ見えてきた。
そのそばに、ひとりの人が立っていた。
佐伯春雄だった。
彼は千代子を見ると、すぐに姿勢を正した。
「千代子さん」
千代子は、しばらく立ち止まった。
名前を呼ばれただけなのに、すぐには返事ができなかった。
「佐伯さん」
佐伯が先に頭を下げた。
「来てくださって、ありがとうございます」
「私のほうこそ……」
千代子は、言葉の先を続けられなかった。
何から話せばいいのか、わからなかった。
佐伯は慎重に、自分の懐のあたりへ手を添えた。
「写真は、受け取りました」
「よかったです」
その言葉だけが、ようやく出た。
しばらく会話が途切れた。
波の音が、とても小さく聞こえた。
遠くでは、島の影が夜の海の上に低く横たわっていた。
佐伯は、常夜灯のほうを見ていた。
昼間に二人で歩いたとき、彼はこの灯りのことを、戻る場所が遠くから見えるのはいい、と言った。
千代子はその言葉を思い出した。
「佐伯さんは、どうして鞆へ来ようと思ったんですか」
そう尋ねると、佐伯はすぐには答えなかった。
「父や母の故郷に近い場所なら、何かがわかるような気がしていました」
佐伯は、少し息を整えた。
「内地に来れば、もう少し落ち着くのかと思っていました」
彼は少し笑おうとして、できなかった。
「でも、道も、人の目も、私に向けられる言葉も、思っていたものとは違いました」
「ここでは、私はどこか警戒される側にいるのだと、何度も感じました」
千代子は黙って聞いていた。
佐伯は夜の海を見た。
「父や母の故郷に近いはずなのに、私には少し遠い場所でした」
千代子は、その言葉のすべてを理解できたわけではなかった。
だから、軽々しく慰めることはしなかった。
ただ、彼の横で同じ海を見た。
「では、鞆の海はどうですか」
佐伯は千代子を見た。
千代子は少し迷ってから、言葉を続けた。
「佐伯さんには、この海も遠く見えますか」
「いいえ」
佐伯は、少しだけ首を横に振った。
「この海は、遠いのに、なぜか懐かしい気がします」
千代子は、すぐには返事ができなかった。
その言葉が嬉しかった。
けれど、それをそのまま顔に出してはいけない気がした。
千代子は夜の海へ視線を戻し、慎重に口を開いた。
「福禅寺の対潮楼には、朝鮮から来た使節の人たちも立ち寄ったと聞いています」
「朝鮮通信使のことですか」
「はい」
千代子はうなずいた。
「祖母から聞いただけですけれど、その人たちも、この海を見たのでしょう」
千代子は夜の海を見た。
闇の中では、仙酔島も弁天島もはっきりとは見えなかった。
けれど昼間なら、対潮楼からその島々がよく見える。
「本当は、昼間に案内できたらよかったのに」
そう言ってから、千代子は口を閉じた。
自分でも、思っていたより寂しい声になった気がした。
佐伯は、しばらく答えられなかった。
千代子は常夜灯のほうへ視線を移した。
「常夜灯も、昼と夜では少し違って見えます。港の石段も、古い町並みも……ゆっくり歩けば、きっと鞆のことがもう少しわかります」
口にしてみると、千代子はもう少し話したくなった。
佐伯にこの町を、昨日の写真館の出来事だけで覚えてほしくなかった。
「少し遠いけれど、阿伏兎の観音様も、海の上に立っているみたいに見えるんです」
「阿伏兎……」
「岬の先にあるお堂です。昼間なら、海の光の中にはっきり見えます」
この夜には見えない。
けれど千代子の中には、昼の海と赤い観音堂が浮かんでいた。
佐伯は静かに、その言葉を聞いていた。
「もし、そんな日が来たら」
佐伯が低く言った。
千代子は彼を見た。
「今度は、私が撮ります」
「佐伯さんが?」
「はい。藤井さんほど上手には撮れないと思いますが」
佐伯は、ごくかすかに笑った。
「そのときは、私に千代子さんを撮らせてください」
千代子は、しばらく答えられなかった。
その言葉が、約束のように聞こえたからだ。
「では、そのときは、私が鞆を案内します」
佐伯はうなずいた。
千代子も、それ以上は言わなかった。
しばらく沈黙が落ちた。
そのとき、雲のあいだから月の光が差した。
千代子は何気なく空を見上げた。
「佐伯さんは、朝鮮でお生まれなんですよね」
「はい」
「では……朝鮮の言葉も、お話しになるんですか」
佐伯は少し困ったように笑った。
「少しだけです。きちんと話せるわけではありません」
「そうなんですか」
千代子は、少し意外に思った。
朝鮮で生まれ育ったのなら、朝鮮の言葉も自然に話すものだと思っていたからだ。
佐伯は夜の海を見ながら、静かに言った。
「家の商いで、朝鮮の人たちと話すことはありました。だから、耳で覚えた言葉はいくつかあります」
その言い方には、少しだけ照れが混じっていた。
千代子は、もう一度夜空を見た。
「月は、何と言うんですか」
佐伯も空を見上げた。
「タル、です」
「タル」
千代子は慎重に繰り返した。
発音は少しぎこちなかったが、佐伯はうなずいた。
「はい。月です」
千代子は、雲のあいだに見える小さな星をいくつか見つめた。
「星は?」
「ピョル」
「ピョル」
今度は、さっきより少し自然に聞こえた。
佐伯の口元に、ごく淡い笑みがかすめた。
千代子はその笑みを見て、もう少し尋ねてもいいような気がした。
「海は?」
佐伯は海のほうを見た。
「パダ」
「パダ」
千代子は、その言葉をとても小さく繰り返した。
千代子は、その三つの言葉を胸の中で繰り返した。
タル。
ピョル。
パダ。
同じ夜の景色なのに、少しだけ違って見えた。
佐伯が言った。
「千代子さんの発音は、少しやわらかいですね」
「変ですか」
「いいえ」
佐伯は首を横に振った。
「きれいです」
千代子は、その言葉に答えられなかった。
常夜灯の光のせいなのか、夜風のせいなのか、頬が少し熱くなった。
その沈黙を隠すように、千代子はまた尋ねた。
「では……好き、は」
言ってから、千代子はすぐに視線を落とした。
聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がした。
佐伯も、すぐには答えられなかった。
波の音が、二人のあいだを通り過ぎた。
長い沈黙のあと、彼がとても低い声で言った。
「サラン」
千代子は、その言葉を繰り返せなかった。
佐伯もすぐには次の言葉を続けなかった。
「好き、というより……もっと重い言葉かもしれません」
千代子は顔を上げられなかった。
その単語だけは、月や星や海のように簡単には口にできなかった。
常夜灯の淡い光の中で、佐伯の声だけが、しばらく耳に残っていた。
どちらも先には動かなかった。
ただ、千代子は自分の袖が佐伯の袖に触れそうなほど近いことに、そのとき初めて気づいた。
千代子は息を止めた。
佐伯も何かを言いかけて、飲み込んだ。
そのとき、路地のほうから小さな足音が聞こえた。
千代子は顔を向けた。
佐伯も同時に身をこわばらせた。
風の音なのか、人の足音なのか、すぐにはわからなかった。
けれど二人とも、もうそこに長くいてはいけないことはわかった。
佐伯が、とても低い声で言った。
「もう戻ってください」
千代子はすぐにはうなずけなかった。
足音は、もう少し近づいているように思えた。
常夜灯の光が、二人の影を長く海のほうへ押し出していた。
◆◆◆
美咲は、そこで手を止めた。
僕は無意識に息を詰めていた。
早苗さんの手が、膝の上で小さくこわばっていた。
美咲は少しだけ息を整えた。
そして、次の行を読んだ。
「巡邏の足音だった」




