第15話 巡邏の足音
「私たちは、逃げることができなかった」
その言葉のあと、誰もすぐには口を開かなかった。
美咲の指先が、手帳の端で止まっていた。
その一文だけで、常夜灯のそばへ近づく足音が、僕の中に聞こえ始めた。
◆◆◆
足音は、路地のほうから近づいていた。
最初は、風の音なのか、人の足音なのかわからなかった。
けれどすぐに、石畳を踏む音が、一定の間隔で近づいてくるのがわかった。
ひとつではなかった。
二人分の足音だった。
千代子は動けなかった。
佐伯が、とても低い声で言った。
「もう戻ってください」
けれど、もう遅かった。
路地の角から、二人の男が姿を現した。
暗がりの中でも、制服の輪郭は見分けられた。
巡邏中の巡査たちだった。
年かさの巡査が、まず千代子と佐伯を見た。
もうひとりの若い巡査は、何も言わず、路地のほうを塞ぐように立ち止まった。
千代子は、その場から一歩も動けなかった。
「こんな時分に、何をしている」
千代子は口を開いたが、すぐには答えられなかった。
佐伯が一歩前へ出ようとすると、年かさの巡査が短く言った。
「動くな」
その言葉は、佐伯へ向けられていた。
巡査はすぐに、千代子の顔に気づいた。
目つきが少し変わった。
最初の鋭さはそのままだったが、声には困惑が混じった。
「千代子さん……ですね」
千代子は小さくうなずいた。
父と同じ管内で働く人なら、自分のことを知っていても不思議ではなかった。
「はい」
「こんなところで、何をなさっているんです」
「少し、話をしていただけです」
「夜更けに、港でですか」
千代子は答えられなかった。
その沈黙のあいだに、若い巡査が佐伯を見た。
「そちらの方は」
佐伯は慎重に頭を下げた。
「佐伯春雄と申します」
「旅の方ですか」
「はい」
年かさの巡査は、千代子と佐伯を交互に見た。
「宿は」
「港の近くの旅館に」
「こんな時節に、夜の港で何をしていた」
佐伯は、すぐには答えられなかった。
千代子に会いに来たと言えば、彼女にもっと大きなことが及ぶ。
けれど何も言わなければ、それも彼女のためにはならないように思えた。
だから少しして、彼は静かに言った。
「少し、話をしていました」
年かさの巡査は、短く息を吐いた。
「話なら、昼にすればいい」
千代子が慌てて言った。
「私が、呼びました」
佐伯が彼女を見た。
巡査も千代子を見た。
千代子は、もう少し低い声で言った。
「見逃していただけませんか」
その言葉に、二人の巡査は同時に困ったような顔をした。
年かさの巡査が、慎重に言った。
「千代子さん、それはできません」
「お願いします。父には……」
「だからこそです」
巡査の声は低かった。
叱るような言い方ではなかった。
むしろ、困っているような声だった。
「このままお帰しして、あとでお父上のお耳に入ったら、私どもが叱られます」
千代子は何も言えなかった。
巡査は、さらに慎重に言葉を続けた。
「それに、このあたりは港です。この時節に、夜、人目を避けるようにおられたとなると……この場で済ませるわけにはいきません」
千代子はうつむいた。
佐伯が言った。
「千代子さんは、悪くありません」
巡査の視線が、まっすぐ佐伯へ向いた。
「それを決めるのはこちらだ」
佐伯は口を閉ざした。
年かさの巡査が言った。
「少しだけです。駐在所で事情を聞かせてください」
千代子は、断る言葉を探せなかった。
四人は路地を歩いた。
年かさの巡査が前に立ち、その後ろを千代子と佐伯が歩いた。
若い巡査は、少し離れて後ろをついてきた。
千代子は顔を上げられなかった。
佐伯も、何も言わなかった。
駐在所の明かりが近づいたとき、佐伯が無意識に懐へ手をやろうとするのが、千代子の目に入った。
けれど彼は、すぐにその手を止めた。
そして何事もなかったように、また前を向いた。
ほどなくして、彼らは駐在所の中へ入った。
年かさの巡査は千代子を椅子に座らせ、佐伯を少し離れたところに立たせた。
もうひとりの巡査は、扉の近くに立った。
扉を守っているのか、二人を見張っているのかはわからなかった。
「お父上を呼びます」
その言葉に、千代子の顔から血の気が引いた。
「待ってください」
巡査は彼女を見た。
「仕方ありません」
その声は、はっきりしていた。
若い巡査が外へ出ていった。
部屋の中には、短い沈黙だけが残った。
そのあいだ、年かさの巡査は机の前に座り、佐伯にいくつか尋ねた。
「名は」
「佐伯春雄です」
「字は」
佐伯は、少し間を置いて答えた。
「佐伯の佐は、人偏に左。伯は、伯爵の伯です。春雄は、春に、雄です」
巡査はそれを書類に書きつけ、また尋ねた。
「年は」
佐伯が答えた。
巡査はそれも書類に書きつけ、さらに尋ねた。
「宿はどこだ」
佐伯は、港近くの旅館の名を答えた。
巡査は、それも書類に書きつけた。
「どこから来た」
その問いの前で、佐伯はしばらく答えを止めた。
「どこから来たと聞いている」
巡査の声が、少し強くなった。
佐伯は答えた。
「朝鮮の、釜山からです」
部屋の空気が少し変わった。
巡査は書く手を止め、もう一度佐伯を見た。
「朝鮮……」
それ以上は尋ねなかった。
千代子の父が来る前に、深く踏み込むべきではないと判断したようだった。
それからほどなくして、扉が開いた。
千代子の父だった。
彼は制服を着ていた。
急いで出てきたのか、外套の前は完全には留められていなかったが、腰のベルトと胸元の徽章だけで、彼がこの場所でどんな人間なのかはわかった。
父が入ってくると、年かさの巡査がすぐに姿勢を正した。
若い巡査も、扉のそばで背筋を伸ばした。
狭い駐在所の空気が、さらに小さく縮んだように感じられた。
父は、まず千代子を見た。
その目は、大きく怒っている目ではなかった。
だからこそ、いっそう怖かった。
「千代子」
千代子は椅子から立ち上がった。
「お父さん……」
父は何も言わず、彼女を見た。
そして低い声で言った。
「帰れ」
千代子は、すぐには動けなかった。
「でも……」
「帰れ」
二度目の言葉は、さらに低かった。
説明も、弁解も許さない声だった。
千代子は佐伯を見た。
佐伯は、わずかに頭を下げた。
大丈夫だという意味なのか、何も言わないでほしいという意味なのか、わからなかった。
それでも千代子は、それ以上何も言えなかった。
父が、扉の近くに立っていた巡査に言った。
「家まで送ってやれ」
巡査が頭を下げた。
千代子は、扉のほうへ歩いた。
足が床に触れる感覚が、不思議なくらい遠かった。
扉の前で、彼女はもう一度振り返った。
佐伯はまだ、その場に立っていた。
父は千代子の見ている前で、佐伯には何も言わなかった。
その沈黙のほうが、かえって恐ろしかった。
千代子が外へ出ると、扉が閉まった。
駐在所の中には、佐伯と父、そして巡査がひとり残った。
父はそこで初めて、佐伯をまっすぐ見た。
「佐伯春雄、と言ったな」
「はい」
父はゆっくりと、机のそばへ歩いていった。
「話は、まだ終わっていない」
その声は静かだった。
けれど佐伯は、その言葉が、これから始まるという意味なのだとわかった。
◆◆◆
美咲はそこで手を止めた。
僕は、長いあいだ息をしていなかった人のように、静かに息を吐いた。
駐在所の扉が閉まる場面が、頭の中に残っていた。
外へ出された千代子は、そのあとを見ていない。
内側に残された佐伯春雄に何があったのか、彼女には知ることができなかった。
早苗さんが低く言った。
「母は、ここから先を見ていないんですね」
美咲はうなずいた。
手帳の次の行は、少し離れたところに書かれていた。
まるで千代子がその文を書く前に、長いあいだ手を止めていたように見えた。
美咲は手帳を見下ろしたまま、静かに言った。
「たぶん、あとで誰かに聞いたんだと思います」
ここから先は、千代子が直接見た夜ではない。
あとで聞いた、佐伯春雄の夜だった。
美咲は静かに読んだ。
「佐伯さんが本当に苦しんだのは、私が帰されたあとだった」




