第16話 閉じた扉の前で
「佐伯さんが本当に苦しんだのは、私が帰されたあとだった」
美咲はその一文を読んだあと、しばらく言葉を止めた。
駐在所の扉は、千代子の目の前で閉じられた。
そのあと、中で何があったのか。
その夜の千代子は、見ていない。
けれど手帳には、次の行が続いていた。
「このあとのことは、あとで修一くんから聞いた」
美咲の指先が、手帳の上で止まった。
僕はその一文を見て、ようやくわかった。
ここから先は、修一が見た夜だった。
◆◆◆
その夜、修一は常夜灯の近くの路地にいた。
佐伯に千代子の言葉を伝えたあとも、修一はその場を離れられなかった。
常夜灯から少し離れた路地の暗がりに身を寄せ、二人が戻ってくるのを待っていた。
けれど修一が見たのは、二人が別れる姿ではなかった。
二人の巡査が、千代子と佐伯を連れて、駐在所のほうへ歩いていく姿だった。
千代子は、うつむいていた。
佐伯は、何も言わずにその隣を歩いていた。
修一は、その場から動けなかった。
呼んではいけないと思った。
駆け寄ってもいけないと思った。
自分が出ていけば、藤井写真館の名前まで出る。
そう思うと、足が動かなかった。
けれど、そのままでいることもできなかった。
駐在所の明かりが見えた。
二人がその中へ入り、扉が閉まった。
修一は息を呑んだ。
写真のことは言えなかった。
自分が言葉を伝えたことも言えなかった。
けれど、佐伯をそのままにしておくこともできなかった。
修一は歯を食いしばり、反対側の路地へ走った。
彼が探しに行ったのは、藤井家と遠い親戚筋にあたる巡査の浩一だった。
浩一はその夜、別の区域を巡邏していた。
港へ続く大きな道に出たとき、修一は灯りを持った男を見つけた。
「浩一兄さん」
浩一が足を止めた。
「修一か。こんな時分に、何をしている」
修一は息を整えることもできないまま言った。
「お願いします。駐在所へ行ってください」
浩一の目が細くなった。
「駐在所? 何があった」
修一は少しためらった。
事情をすべて話すことはできなかった。
けれど、見て見ぬふりをすることもできなかった。
だから彼は、別の言葉を選んだ。
「佐伯さんが、連れていかれました」
「佐伯?」
「旅館に泊まっている人です」
浩一は修一を見つめた。
「なぜ、お前がそんなことを気にする」
修一は手を強く握った。
「……前に、少し世話になったことがあります」
浩一は目を細めた。
「世話に?」
「はい。悪い人ではありません」
その言葉も、十分な理由にはならなかった。
けれど今の修一には、それ以外に差し出せる言葉がなかった。
浩一は短く息を吐いた。
「まったく……夜中に何を騒いでいるんだ」
修一は頭を下げた。
「お願いします」
「旅の男が少し取り調べを受けているだけなら、どうにかなる」
浩一は灯りを手に、駐在所のほうへ向きを変えた。
「兄さん……」
「大げさにするな。俺が見てくる」
その言葉に、修一はようやくうなずいた。
けれど浩一は、すぐにもう一度言った。
「お前は来るな」
修一は答えられなかった。
浩一は低い声で付け加えた。
「来ても、外にいろ」
修一は黙ってうなずいた。
◆◆◆
修一は結局、駐在所の近くまでついていった。
けれど浩一に言われたとおり、中へは入らなかった。
道の向こう側の暗がりに立ち、駐在所の扉だけを見つめていた。
駐在所の中では、低い声が行き交っていた。
その言葉が何なのかまでは聞こえなかった。
ときおり、椅子を引く音や、紙をめくる音がした。
誰かが短く答える声も、扉の隙間から漏れてきた。
修一はそのとき初めて、自分があまりに大きなことへ手を伸ばしてしまったのかもしれないと思った。
けれど、もう遅かった。
千代子は家へ帰された。
佐伯は、まだ駐在所の中にいる。
そして修一は、扉の外にいた。
自分にできることが何もないのだと、彼にはわかっていた。
だからこそ、そこから動けなかった。
どれほど時間が過ぎたのかはわからない。
やがて、扉が開いた。
先に出てきたのは浩一だった。
浩一は駐在所の前に立っている修一を見ると、しばらく何も言わなかった。
手にした灯りが、彼の顔の下半分をぼんやり照らしていた。
その顔を見た瞬間、修一は自分が考えていたよりも、事はずっと悪いのだと悟った。
浩一が低い声で言った。
「修一。お前、自分が何に首を突っ込んだのかわかっているのか」
修一は答えられなかった。
「旅の男が捕まっただけだと思った」
浩一の声には、苛立ちと疲れが混じっていた。
「だが、あれはそんな話じゃない」
修一は顔を上げた。
浩一は、駐在所の扉を一度振り返った。
「巡査部長がいる」
そのひと言だけで、修一は息が詰まった。
千代子の父だった。
浩一は、さらに声を落とした。
「巡査部長の娘が絡んでいる。朝鮮から来た男が絡んでいる。藤井の名まで出たら、ただでは済まない」
修一はうつむいた。
「すみません」
「謝って済むなら、俺を呼びに走る必要もなかっただろう」
修一は何も言えなかった。
浩一は、また駐在所の扉を見た。
「俺は、お前に頼まれてあの男を助けるわけじゃない」
修一は顔を上げた。
「巡邏の途中で、駐在所の様子が気になった。それだけだ」
それが表向きの理由なのだと、修一にもわかった。
浩一はしばらく黙り、それからさらに低い声で言った。
「ただ、手順を外れたことをされても困る。あとで面倒になるのは、こっちも同じだからな」
浩一は短く息を吐いた。
「今夜、俺を呼びに来たことは人に言うな」
「……はい」
「佐伯という男に、藤井の者が手を貸したと思われたら困る」
浩一は最後に、低く言った。
「だから、二度とこんな頼みはするな」
「……はい」
その言葉は冷たかった。
けれど浩一は、すぐにはその場を離れなかった。
もう一度だけ、駐在所の扉を振り返った。
修一は小さな声で尋ねた。
「佐伯さんは……」
浩一はすぐには答えなかった。
そして、とても短く言った。
「まだ、中だ」
修一は駐在所の扉を見つめた。
その扉の向こうに、佐伯がいる。
けれど修一には、その中で何が起きているのか、知ることができなかった。
◆◆◆
その夜のことについて、手帳には長くは記されていなかった。
ただ、いくつかの行だけが残っていた。
「修一くんは、しばらく駐在所の外にいた」
「佐伯さんが出てくるのを待っていたのだと思う」
「けれど、佐伯さんはなかなか出てこなかった」
美咲は、その短い文をゆっくり読んだ。
そこには、修一が何を考えていたのかまでは書かれていなかった。
ただ、扉の外にいた、という事実だけが残っていた。
閉じた扉の向こうに佐伯がいて、その前に修一がいた。
◆◆◆
美咲はそこで手帳を見下ろしたまま、しばらく言葉を継げずにいた。
僕も何も言えなかった。
手帳の紙の上では、まだ駐在所の扉が閉じたままだった。
早苗さんが低く言った。
「母は、すぐには聞けなかったんでしょうね」
美咲が小さくうなずいた。
「たぶん、修一さんもすぐには言えなかったんだと思います」
僕は、駐在所の閉じた扉を思い浮かべた。
その向こうにいた佐伯春雄のことを考えた。
彼がその夜、何を尋ねられ、何を言えなかったのかは、まだ記されていない。
けれど手帳の次の行は、その夜の内側へ入っていこうとしていた。
美咲は、ゆっくりと次の行を読んだ。
「駐在所の中で何があったのかは、あとで修一くんが、浩一さんから少しだけ聞いてきてくれた」
僕はその一文を、静かに見つめた。
ここから先は、修一が扉の外で見たものではない。
閉じた扉の内側へ入った浩一が、あとになって修一に語ったことだった。




