第17話 閉じた扉の内側
美咲は、手帳の次の行をしばらく見つめていた。
そこに書かれているのは、千代子が直接見たことではなかった。
駐在所の扉が閉じられたあと、中で何があったのか。
千代子も、扉の外にいた修一も、直接は見ていない。
手帳には、短くこう記されていた。
「駐在所の中で何があったのかは、あとで修一くんが、浩一さんから少しだけ聞いてきてくれた」
美咲はその一文を読んでから、ゆっくりと次のページをめくった。
美咲の声を聞きながら、僕は手帳の行間を追った。
そこから先は、浩一が見聞きしたことをもとにした夜だった。
◆◆◆
浩一が駐在所の中へ入ったとき、扉の内側はすでに妙に落ち着きを失っていた。
浩一の視線が最初に止まったのは、千代子だった。
あれは、村上巡査部長の娘だ。
浩一はすぐにそう気づいた。
港へ向かう道や、駐在所の近くで何度か見たことがある。
町の者なら、彼女の顔を知らないほうが珍しかった。
それでも誰も、むやみに近づこうとはしない。
村上巡査部長の娘だからだ。
浩一が状況をつかむより先に、千代子が動いた。
千代子は父に何かを言おうとしたように唇を動かした。
けれど、結局言葉は出なかった。
彼女の視線は、机の前に立っている男に一度触れ、それからまた床へ落ちた。
村上巡査部長が、そばにいた巡査に言った。
「中村、家まで送ってやれ。途中で余計なことは聞くな。家に着いたら、そのまま戻ってこい」
中村巡査はすぐに頭を下げた。
「はい。承知しました」
千代子は扉のほうへ歩いた。
扉の前で、彼女は一度だけ振り返った。
その視線は、机の前に立つ男へ向かった。
あの男は誰だ。
浩一はそこでようやく、その男をきちんと見た。
背はそれなりに高く、姿勢も悪くない。
身なりも、みすぼらしいというほどではなかった。
ただ、巡査として多くの人を見てきた浩一の目には、彼のまとう空気が、このあたりの者とはどこか微妙に違って見えた。
男は千代子の視線を受けると、短く頭を下げた。
千代子はその挨拶を受けてから、外へ出ていった。
扉が閉まった。
そのときになって、村上巡査部長の視線が浩一へ向いた。
「藤井。お前、こんな時分に何をしている」
浩一は扉のそばで、短く頭を下げた。
「巡邏の途中です。こちらの明かりが見えましたので、何かあったのかと思いまして」
「ちょうどいい。そこにいろ。今夜は人手があったほうがいい」
「はい」
浩一は部屋の片側に立った。
口を挟むためではない。
必要なら動くために、そこに置かれたのだとわかった。
何が起きているのか、まず確かめないと。
浩一は、そばにいた若い巡査へ慎重に声をかけた。
「小林。いったいこれは何なんだ」
小林は、浩一のほうへわずかに身を寄せた。
「部長のお嬢さんが、見知らぬ男と夜の港におられたんです。常夜灯の近くで、二人きりだったそうです。最初に見つけた者も、どう扱っていいのか迷ったらしくて」
「あの男か」
「はい。それに、あの男は朝鮮から来たそうです」
「朝鮮から?」
「はい」
「朝鮮人なのか」
浩一が尋ねると、小林は曖昧な顔で首を横に振った。
「いえ。名前は佐伯春雄で、本人は日本人だと言っています。父母も内地の者だそうです。ただ、少し気になったので私が先に聞いてみたところ、生まれも育ちも朝鮮だと言いまして……こういう場合、何と言えばいいんでしょうね」
小林はそう言って、口元だけで笑った。
「言い方は悪いですが、半分は朝鮮人みたいなものじゃないですか」
冗談のように投げられた言葉だった。
普段なら、浩一も聞き流していたかもしれない。
けれどその夜は、笑えなかった。
あの言葉ひとつで、佐伯という男がこの駐在所の中でどう扱われるのか、少し見えた気がした。
ああ、本当に厄介なことになっている。
浩一は胸の内でそう思った。
そのとき、村上巡査部長が机の上の紙を置いた。
駐在所の中の声が、一度静まった。
◆◆◆
村上巡査部長は、佐伯を見た。
身元を確かめるだけの目ではなかった。
「佐伯春雄と言ったな」
佐伯は姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。
「はい。佐伯春雄と申します」
村上巡査部長は、指先で紙を押さえた。
「朝鮮から、わざわざここまで何をしに来た」
佐伯は少し息を整えてから答えた。
「私は、釜山で商いをしている父の用で、福山のほうまで参りました。役所に出す書類と、商いに関わる確認がありました」
佐伯はそこで一度、言葉を切った。
「鞆へは、その用が終わったあとに立ち寄りました」
村上巡査部長は、すぐには言葉を遮らなかった。
佐伯は慎重に、言葉を続けた。
「父と母の故郷が、福山の近くです。幼いころから、父母にこのあたりの話を聞いておりました。鞆の海のことも、昔から聞いていました。せっかく近くまで来たので、一度、自分の目で見ておきたいと思ったのです」
その言葉に、駐在所の空気がほんの少しだけ動いた。
朝鮮から来た男。
その言葉だけで固くなっていた何人かの視線が、わずかに緩んだように見えた。
小林も、さっきまでの薄い笑いを消し、佐伯を見直していた。
浩一も同じだった。
少なくとも、目の前の男は、ただ怪しいだけの旅人ではない。
そう思わせるだけのものが、今の言葉にはあった。
だが村上巡査部長だけは、紙の上に置いた指を動かさなかった。
その目も、声も、少しも緩まなかった。




