第18話 ここは朝鮮ではない
村上巡査部長の問いは、すぐに続いた。
浩一の目には、それがただの身元確認には見えなかった。
娘が夜に会っていた男が、どんな家の息子なのか。
後ろ盾はあるのか。
朝鮮では、どんな名前で通っている人間なのか。
村上巡査部長は、それをひとつずつ確かめようとしていた。
村上巡査部長が、低く尋ねた。
「父親は、釜山で商いをしていると言ったな。何を扱っている」
佐伯は、姿勢を少し正した。
父の仕事を口にするのだから、ほんのわずかでも乱れたくないと思っているように見えた。
「佐伯商店という名で、雑貨と、港に出入りする品を扱っております。日用品や布、乾物、それから木浦や大邱のほうから釜山へ入ってくる品、また釜山からそちらへ回る品の取り次ぎも、少ししております。父は、この商いをもう長く続けております」
浩一は佐伯の言葉を聞きながら、村上巡査部長の顔を見た。
佐伯の答えを聞いても、村上巡査部長の表情は動かなかった。
雑貨、日用品、布、乾物。
その言葉だけで、村上巡査部長が何を量っているのか、浩一にもだいたい見えた。
村上巡査部長が、また尋ねた。
「大きな店だと言うなら、税の額を聞けばだいたいわかる。父親の店は、釜山でどれほど納めている」
佐伯は少し、言葉を選ぶようにした。
「詳しい額までは、父でなければわかりません。ただ、商いを続けるうえで必要なものは、きちんと納めているはずです」
浩一はその答えを聞き、佐伯商店という名前は、そこまで大きな看板ではないのだろうと思った。
本当に釜山で指折りの商店なら、息子が税の規模さえそう曖昧にすることはないはずだった。
村上巡査部長の前で、中途半端な見栄は通じない。
佐伯がよく見せようとして付け足した言葉は、かえって次の問いへの道を開いてしまった。
村上巡査部長は、調書の端を指先で押さえた。
「長く商いをしていると言ったな」
「はい」
「では、その父親は釜山の商人会か、日本人会で何か役を持っているのか。会長とは言わん。総務でも、世話役でもいい。名前を出せば周りがわかるような立場なのか」
自分が口にした答えが、そのまま刃になって返ってきた。
佐伯は頭を下げた。
「父は顔を出すことはあります。商いのつきあいもあります。ですが、役を持っているわけではありません」
村上巡査部長の口元が、ほんの少し動いた。
笑みというには冷たく、嘲りというには小さかった。
「食うには困らんが、名前を出して通るほどの家ではない、ということか」
佐伯は、すぐには答えられなかった。
村上巡査部長は、その沈黙を待たなかった。
「まあいい。念のために聞いておく。朝鮮総督府の上のほうに、親類か、父親の知人はいるのか」
「おりません」
村上巡査部長は、はじめからそうだろうとわかっていたように、短く息を吐いた。
問いはもう、確認ではなく、少しずつ皮肉に近づいていた。
「では、朝鮮の警察にはどうだ。今この時間に釜山へ電報を打てば、お前の身元を引き受けると言ってくれる警察の幹部がいるのか。父親が長く商いをしているなら、一人くらい名を出せる者がいてもおかしくはない」
佐伯の表情が、さらに固くなった。
浩一には、村上巡査部長が何をしているのか見えてきた。
一度に責めるのではない。
逃げ場を、少しずつ狭めている。
佐伯はしばらく黙ってから、答えた。
「商いの関係で顔を合わせる方はいると思います。ですが、私の身元を引き受けてくださるような方ではありません」
村上巡査部長はしばらく手元の調書に目を落とし、それからゆっくりと、さらに踏み込む問いを口にした。
「では聞く。父母は内地の者だと言ったな。福山の近くに故郷があるとも言った。ならば、この内地で、お前の身元を引き受ける者はいるのか。親類でなくてもいい。父母の昔の知人でもいい。ここで何かあったとき、お前は誰の名を出せる」
その問いの前で、佐伯の返事が初めてはっきりと遅れた。
「結局、内地では食えなかったから、朝鮮へ渡った家ではないのか」
その言葉に、浩一は思わず口をつぐんだ。
そういう見方をする者は、この町にもいた。
内地で居場所をつかめなかった人間が、朝鮮へ渡った。
けれど、それをここまで正面から口に出すことは、あまりなかった。
浩一はそこで気づいた。
村上巡査部長は、佐伯の身元だけを調べているのではなかった。
夜に自分の娘と一緒にいた男を、ここで言葉で追い詰めようとしている。
もし佐伯が朝鮮で大きな後ろ盾を持つ家の息子だったなら、村上巡査部長の口調も、少しは違っていたのかもしれない。
だが短い問いだけで、村上巡査部長は佐伯の背景をほとんど剥ぎ取っていた。
そして、大した家ではないと見抜いていた。
村上巡査部長の目には、もうそう映っているようだった。
自分の娘と関わらせるような相手ではない、と。
村上巡査部長は、そこで調書から目を離した。
「お前のような男は、こちらも見たことがある」
佐伯が顔を上げた。
「……どういう意味でしょうか」
村上巡査部長は、佐伯をまっすぐ見た。
「口だけは丁寧だ。父母の故郷だの、昔から聞いていた海だの、もっともらしいことを並べる。そうやって世間を知らない女に近づく。女をその気にさせたあと、いざ責任を取る段になれば、朝鮮へ帰ればそれで終わりだ。違うか」
佐伯の声が、低く返った。
「それは違います」
けれど村上巡査部長は、佐伯の言葉を遮った。
「何が違う」
「千代子さんを、軽く考えたことはありません」
村上巡査部長の目が、さらに冷たくなった。
「お前のような男の腹が、こちらに見えていないとでも思っているのか。お前はただ、うちの娘をもてあそぶつもりで近づいた。違うと言えるのか」
次の瞬間、佐伯が初めて声を上げた。
「違います。私は、千代子さんをそのように思ったことは一度もありません」
駐在所の中に、その声が大きく響いた。
その瞬間、浩一は胸の内で思った。
まずい。
この時局に、この狭い駐在所の中で、警察に取り調べられている男が声を荒げた。
しかも相手は、村上巡査部長だった。
佐伯という男は、まだこの場の怖さをわかっていない。
浩一はそう感じた。
丁寧に答えれば、最低限の線は守られる。
そう信じている者の声だった。
けれど、この駐在所の中では、その信じ方そのものが危うかった。
「どこで声を張り上げている」
小林が先に、荒い声を出した。
ついさっき、両親の故郷が福山の近くだと聞いて少し緩んでいた顔は、もう消えていた。
ほかの巡査たちの表情も険しくなった。
佐伯は、自分が何をしたのか、遅れて悟ったようだった。
「……申し訳ありません。声を荒げるつもりはありませんでした」
謝った。
けれど、もう遅かった。
駐在所の空気は、先ほどとは変わっていた。
村上巡査部長は、しばらく佐伯を見ていた。
彼は怒鳴るように声を上げなかった。
むしろその静けさが、部屋の空気をさらに悪くしていた。
「ここは朝鮮ではない」
佐伯が顔を上げた。
「ここでは、お前が日本人だと言えば、それだけで通ると思うな。朝鮮でどうだったかは知らん。だが、ここは内地だ」
◆◆◆
美咲はその部分で、少し読むのを止めた。
早苗さんは何も言わなかった。
手帳の上に置かれた美咲の指先だけが、ほんの少しこわばっていた。
「今のは……どういう意味なんでしょう」
美咲が低く言った。
僕は、いま読まれた場面を思い返した。
佐伯春雄がなぜあの瞬間に声を上げたのか、今の僕に断定することはできなかった。
けれど、少しだけわかる気がした。
「祖父は、たぶん、朝鮮で日本人として生きていたことの意味を、あまり考えたことがなかったのだと思います」
美咲と早苗さんの視線が、僕へ向いた。
僕は言葉を選びながら続けた。
「朝鮮では、日本人だというだけで、駐在所でも最初から疑われる側には立ちにくかったのかもしれません」
「いま考えれば、それは朝鮮の人たちに比べれば、とても大きな特権だったはずです。でも祖父にとっては、それがあまりにも当たり前で、特権だとは感じていなかったのかもしれません」
「けれど内地では、その当たり前は何の力にもならなかった」
朝鮮では、日本人であるというだけで、駐在所でも背筋を伸ばして立っていられた。
けれど内地の駐在所では、祖父は朝鮮から来た疑わしいよそ者でしかなかった。
その違いを、祖父はその夜、初めて押しつけられていたのかもしれない。




