第8話 シャッターの向こう
美咲は、なかなか次のページをめくれずにいた。
手帳の上に置かれた彼女の指先が、ほんの少し止まっていた。
修一。
美咲はその名前の上に、しばらく指を置いていた。
早苗さんも、何も言わなかった。
手帳の中の時間は、まだ写真が撮られる前の数日にとどまっていた。
美咲は慎重に、次のページをめくった。
文字は、前のページより少し落ち着いていた。
日付は、数日後だった。
彼女が低い声で読み始めた。
「佐伯さんは、まだ鞆にいる」
美咲は、その短い一文をもう一度目で追った。
佐伯春雄は、まだ鞆にいた。
手帳の文章は、そこまで詳しく書かれていたわけではなかった。
けれど美咲の声を聞いているうちに、僕の頭の中では、その日の鞆の道が少しずつ形を取り始めていた。
◆◆◆
その日、千代子は佐伯春雄と一緒に、海のほうへ続く道を歩いていたのだろう。
約束と呼べるほど、はっきり決めていたわけではなかった。
朝の用を済ませて港のほうへ出ていった千代子が、旅館の前に立っている佐伯を見かけただけだった。
彼は海を見ていた。
正確には、海の向こうのどこかを見ているように見えた。
「おはようございます」
千代子が先に声をかけると、佐伯は少し驚いた顔をした。
「おはようございます」
彼はいつものように、丁寧に頭を下げた。
その仕草があまりに慎重で、千代子はかえって気になった。
「港へ行かれるんですか」
「はい。少し、海を見たくて」
それはただの答えだった。
けれど、どこか許しを求める言葉のようにも聞こえた。
千代子は少し迷ってから言った。
「では、少しだけ案内しましょうか」
佐伯は、すぐには答えられなかった。
「ご迷惑では……」
「迷惑なら、言いません」
千代子がそう言うと、佐伯は目を少し大きくした。
そして初めて、ごく小さく笑った。
「では、お願いします」
二人は港のほうへ歩いた。
朝の鞆の浦は、まだ完全には目を覚ましていないようだった。
路地の奥からは水を撒く音が聞こえ、低い軒の下には前の日の湿り気が残っていた。
戸を開ける音、遠くから聞こえる船の音、海に近い家々のあいだに染み込む魚の匂いが、ゆっくりと一日を始めさせていた。
千代子は半歩前を歩き、佐伯はその横を少し遅れてついてきた。
最初は、そのくらい距離を置いて歩くほうが自然だった。
けれど道が海へ向かって開けると、二人の歩幅は少しずつ並んでいった。
港には小さな船がつながれていた。
波に合わせて縄がかすかにきしみ、船腹がやわらかくぶつかる音がした。
ある家の前には網が干され、石段の下のほうには、夜のあいだに寄せられた海藻が薄く張りついていた。
海は、大きくはなかった。
遠くまで視界が開ける海というより、島と島のあいだに静かに畳まれた水路のようだった。
千代子にとっては、あまりに見慣れていて、特別と呼ぶほどのものでもない景色だった。
けれど佐伯は足をゆるめ、それを長く見つめていた。
「静かな海ですね」
彼が言った。
「静かすぎますか」
「いいえ」
佐伯は首を横に振った。
「声を出すと、すぐ遠くまで届いてしまいそうです」
千代子は、その言い方を少し不思議に思った。
海が静かだというのはわかる。
けれど、声が遠くまで届きそうだという表現は初めて聞いた。
彼女は佐伯の横顔を見た。
彼は海を見ていた。
海を初めて見る人ではなかった。
けれどこの海だけは、初めて見る人の顔をしていた。
「ここから少し歩くと、もっと海が近く見えます」
千代子が言った。
「よろしいのですか」
「少しだけなら」
そう言ってから、千代子は自分が笑っていることに気づいた。
二人は海沿いをゆっくり歩いた。
石段の脇を通り、低い塀に沿って続く道を過ぎ、常夜灯が見えるほうへ向かった。
道は狭く、ときどき人とすれ違った。
そのたびに、千代子は少しだけ佐伯との間を空けた。
佐伯も、それに気づいたように歩幅をゆるめた。
人が通り過ぎると、二人はまた少しずつ同じ速さに戻っていった。
二人は、ただ同じ道を歩いていた。
同じ場所で立ち止まり、同じ海を見ていた。
千代子はそれを道案内だと思おうとした。
けれど、佐伯が海を見るたびに少し足を止めるので、彼女もそのたびに立ち止まった。
「あそこは?」
佐伯が海のほうを指した。
「あれは、常夜灯です」
千代子が言った。
「夜、船が戻ってくるときの目印になるんです」
「ずっと、あそこにあるんですか」
「私が生まれる前から」
佐伯は、じっとそちらを見つめた。
「いいですね」
「何がですか」
「戻る場所が、遠くから見えるのは」
千代子は、すぐには答えられなかった。
それがただ常夜灯の話ではないことが、なぜか少しわかる気がした。
佐伯も、自分が何を言ったのか、遅れて気づいたようだった。
彼は少しきまり悪そうに、視線を落とした。
「すみません。変なことを言いました」
「変ではありません」
千代子はそう言って、また海を見た。
昼間の常夜灯には、明かりはなかった。
それでも佐伯は、そこに灯が入っている時のことを想像しているように、しばらく目を離さなかった。
千代子も、つられて同じ方を見た。
二人はまた歩き出した。
風が通るたびに着物の袖が小さく揺れ、佐伯の髪も少し乱れた。
彼はそれを手で直そうとして、すぐにやめた。
千代子は、笑いそうになった。
彼がさっきより、少しだけ用心深くない人に見えたからだ。
いつも頭を下げ、言葉を選び、自分が迷惑になっていないかを先に気にする人。
けれど今は、ただ海風を受けている若い人のように見えた。
千代子は、その顔を長く見ないように目をそらした。
長く見てはいけない気がした。
理由は、まだわからなかった。
◆◆◆
美咲はそこで、少し読むのを止めた。
彼女は手帳から目を離せずにいた。
「祖母は……」
美咲はそう言いかけて、静かに息を整えた。
「本当に、佐伯さんと鞆を歩いたんですね」
僕はうなずくしかなかった。
手帳の中の二人は、まだ何も言っていない。
けれど、一緒に歩いていた。
早苗さんは、黙って目を伏せていた。
自分の母が若いころ、誰かと鞆の浦の海辺を歩いたということを、彼女はいま初めて聞いていた。
美咲は、もう一度手帳を開いた。
次の行は短かった。
「帰り道、藤井写真館の前を通った」
美咲は、少し間を置いて次の行を読んだ。
「修一くんが、店先にいた」
手帳の中で、修一の名前がまた出てきた。
◆◆◆
藤井写真館の前で、修一は店先を片づけていた。
カメラの道具が入っている箱なのか、古い木箱がひとつ足元に置かれていた。
まだ少年の顔をしていたが、その動きはもう店の仕事を知っている人のものだった。
千代子が挨拶をすると、修一は顔を上げた。
「千代子さん」
彼は千代子を見て、それからすぐに、彼女の隣に立つ佐伯を見た。
視線は長くは止まらなかった。
けれど、短すぎもしなかった。
「こちらは、佐伯さん」
千代子が言った。
「鞆を見に来られているの」
佐伯が丁寧に頭を下げた。
「佐伯春雄と申します」
「藤井修一です」
修一も頭を下げた。
二人の挨拶は短かった。
特別な言葉はなかった。
けれど千代子は、なぜか息を潜めるような気持ちになった。
さっきまで海辺を歩いて続いていた時間が、写真館の前に立った瞬間、ほかの人の目に触れたような気がした。
「写真館なんですね」
佐伯が店の中を見ながら言った。
「はい。今は、あまり撮れませんけど」
修一が答えた。
言葉は淡々としていた。
けれど修一の目は、店の奥に置かれた小さな箱のほうへ一度だけ向いた。
戦争の最中で、フィルムは十分にあるわけではなかった。
佐伯は、少し迷った。
それから、とても慎重に尋ねた。
「写真を一枚、お願いすることはできますか」
千代子は彼を振り返った。
「写真を?」
佐伯は、少しきまり悪そうに視線を落とした。
「この町に来たことを、残しておきたくて」
その声は小さかった。
けれど千代子には、はっきり聞こえた。
この町に来たことを残しておきたい。
千代子は、さっきまで一緒に見ていた海のほうを思い出した。
けれど何も言わなかった。
修一は佐伯をしばらく見つめた。
それから、店の中を振り返った。
「撮れます。ただ……」
彼は言葉を選ぶように、少し止まった。
「この時期ですから、港や海を大きく写すことはできません」
佐伯はすぐにうなずいた。
「もちろんです」
修一は、もう一度だけ海のほうを見た。
「それでもよければ、人を中心に撮りましょう。海は、ほんの少しだけ入るようにします」
千代子にも、その言葉の意味はわかった。
港をそのまま大きく写真に残すことはできなかった。
それでも、海を完全に消してしまうことはできなかった。
修一は小さなカメラと三脚を用意した。
「少しだけ、外へ出ましょう」
そう言って、修一は先に店を出た。
三人は写真館を出て、もう一度港のほうへ歩いた。
少し前に千代子と佐伯が歩いた道を、今度は修一が先に歩いていった。
午後の光は、朝よりもやわらかかった。
海はまぶしすぎず、水面には薄い光が静かに広がっていた。
小さな島の輪郭が遠く低く浮かび、石段は海のほうへ短い線のように続いていた。
常夜灯は、風を受けながら静かに立っていた。
修一は、場所をかなり選んだ。
広く写しすぎてはいけないと言った。
海がはっきり写りすぎてもいけない、とも言った。
彼は佐伯を海の前に立たせ、カメラの位置を少しずつ変えた。
千代子はその様子を、横で見ていた。
最初は、佐伯ひとりで撮る予定だった。
彼は、ぎこちない顔で立っていた。
手をどこに置けばいいのかわからないようで、風に裾が揺れるたびに、さらに緊張しているように見えた。
千代子は、気づくとそばへ寄って言っていた。
「少し、こちらを向いたほうがいいと思います」
佐伯が彼女を見た。
「こうですか」
「はい。たぶん」
「たぶん、ですか」
彼がごく小さく笑った。
千代子もそのときになって、自分が写真館の人間でもないのに余計なことを言ったと気づき、少し慌てた。
そのとき、修一が静かに言った。
「千代子さんも、入ったらどうですか」
千代子は、一瞬言葉を失った。
「え?」
佐伯も驚いたように修一を見た。
修一はカメラのそばで、落ち着いた顔をしていた。
「そのほうが、自然だと思います」
その言葉は、不思議に聞こえた。
自然。
何が自然だというのだろう。
千代子は答えられなかった。
佐伯も、何も言えなかった。
風が通り過ぎた。
千代子の髪の一部が、頬のそばに流れた。
「無理なら……」
修一が言いかけると、佐伯が先に言った。
「ご迷惑でなければ」
その声は、いつもよりさらに慎重だった。
千代子は、なぜか断れなかった。
ただ、小さくうなずいた。
そして佐伯の隣に立った。
近づきすぎないようにしたつもりだったが、写真の中に入るには、離れすぎることもできなかった。
佐伯の肩が、視界の端に入った。
彼の緊張が、すぐ近くに感じられた。
千代子も緊張していた。
修一はカメラの後ろへ回った。
黒い布の下へ顔を入れる前に、彼は二人を一度見た。
その視線は、とても短かった。
修一には、見えていたのかもしれない。
佐伯の緊張した顔も。
千代子が視線をどこに置けばいいのかわからず、少し迷っていることも。
それ以上のことは、何も言わなかった。
ただカメラの角度を少し下げ、背景をさらに狭くした。
海は、背景と呼ぶには淡すぎるほど遠のいた。
けれど、完全には消えなかった。
小さな島の黒い影。
石段のように見える線。
常夜灯のかすかな輪郭。
それらはすべて、写真の片隅にほんの少し残るはずだった。
千代子は、不思議とそう思った。
修一が言った。
「撮ります」
佐伯は、少しだけ背筋を伸ばした。
千代子はカメラを見た。
笑えばいいのか、笑わなければいいのかわからなかった。
だから、ほんの少しだけ口元の力を抜いた。
その瞬間、海風が通り過ぎた。
千代子の髪が、頬のそばで少し揺れた。
そして、シャッターの音がした。
◆◆◆
美咲は、そこで読むのを止めた。
部屋の中には、何の言葉もなかった。
韓国から持ってきた白黒写真を見た。
写っているのは、春雄と千代子だけだった。
けれどその写真の外側にも、ひとりの少年がいたのだと、僕たちはいま知った。




