第7話 写真の外にいた少年
美咲は、もう一度手帳を開いた。
僕は彼女をちらりと見てから、早苗さんへ視線を移した。
早苗さんは、変わらずテーブルの端に座っていた。
手帳を自分からのぞき込もうとはしなかった。
けれど視線は、ずっとその小さな茶色の表紙の近くを離れずにいた。
美咲が、次のページを慎重にめくった。
紙がかさりと鳴る音が、やけに大きく聞こえた。
彼女は文字をしばらく見つめてから、低い声で読み始めた。
「私は、あの人を宿まで案内することにした」
美咲の声が、ゆっくり続いた。
僕は手帳の文字ではなく、その向こうの港の道を見ているような気がした。
手帳の文章は、長くなかった。
けれど行と行のあいだを、僕は知らず知らずのうちに補っていた。
見たことのない港の道が、手帳の文字の向こうで、少しずつ形を持ち始めていた。
◆◆◆
千代子は、港へ続く道を歩いていたのだろう。
後ろから、見知らぬ青年が少し距離を置いてついてきている。
青年は近づきすぎることも、離れすぎることもできず、困ったような足取りで千代子のあとを歩いていた。
「ご迷惑をおかけして、すみません」
彼の言葉は日本語だった。
けれど、どこか微妙に違っていた。
何が違うのか、千代子にははっきりとは言えなかった。
彼自身も、それをわかっているように見えた。
だからなのか、彼はさらに慎重に言葉を選び、何度も頭を下げた。
「ここです」
千代子は、小さな旅館の前で足を止めた。
港から少し離れた場所にある旅館だった。
主人夫婦は、千代子の家とも昔からの顔なじみだった。
自分が頼めば、この青年を泊めてくれるかもしれない。
入口に掛かった暖簾が、風に少し揺れた。
青年が、遠慮がちに旅館を見上げた。
「こちらに、泊まれるのでしょうか」
彼はそう尋ねてから、すぐに言葉を継いだ。
「無理でしたら、ほかを探します」
その言い方も丁寧だった。
けれど千代子には、その言葉が、断られることに慣れている人の言葉のように聞こえた。
「ここなら、お願いできるかもしれません」
旅館の中から、女将が出てきた。
「千代ちゃん?」
「すみません。この方、宿を探していらして」
女将は、千代子の後ろにいる青年を見た。
「どちらからいらしたんですか」
そう尋ねられ、青年は一瞬迷った。
「釜山……いえ、朝鮮の釜山から来ました」
千代子は、その小さな言い直しが耳に残った。
彼は「朝鮮」より先に、「釜山」と言った。
女将の目が、わずかに細くなった。
青年はその視線に気づいたように、また慎重に言葉を続けた。
「父母は内地の者です」
少しして、彼は自分は朝鮮で生まれたのだと付け加えた。
その言葉のあと、入口の空気がわずかに固くなった。
千代子には、そう感じられた。
千代子は、気づかないうちに一歩前へ出ていた。
「佐伯さんとおっしゃいます。怪しい方ではありません」
女将は千代子を見た。
その目には、どうしてあなたにわかるの、という問いがあった。
千代子にも、きちんとは答えられなかった。
つい先ほど会ったばかりの人だった。
名前だって、少し前に知っただけだった。
それでも、通り過ぎることができなかった。
千代子は、青年が何度も頭を下げるのを見ていた。
青年は、もう一度頭を下げた。
「佐伯春雄と申します。一晩だけでも構いません。ご迷惑はおかけしません」
彼は、一語ずつはっきりとそう言った。
自分が怪しい者ではないと、言葉の端まで使って証明しようとしている人のように見えた。
「お願いします」
千代子は女将に言った。
そのとき、父の顔が頭に浮かんだ。
警察の仕事をしている父は、港に出入りする人のことには、いつも厳しかった。
「もし父に聞かれたら、私から話します」
その言葉を口にしてから、千代子は余計なことを言ってしまったと気づいた。
父には、言わないほうがよかったのかもしれない。
けれど、もう口から出てしまった言葉だった。
女将はしばらく千代子を見つめ、それから小さく息をついた。
「千代ちゃんがそう言うなら、一晩だけね」
「ありがとうございます」
千代子が頭を下げると、青年も深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
彼の声は、少し低くなっていた。
安堵したようにも聞こえたし、さらに申し訳なく思っているようにも聞こえた。
千代子は、旅館の中へ入っていく彼の後ろ姿をしばらく見ていた。
そして、ふと気になった。
人に尋ねられるたびに、両親は内地の出身だと説明を繰り返す人。
千代子は、彼が最初に口にした「釜山」という言葉のほうが、なぜか気になった。
そのことは、口には出さなかった。
尋ねるには、まだ早すぎる気がした。
◆◆◆
美咲の声が止まった。
僕はしばらく、何も言えなかった。
手帳の中の場面は短かった。
千代子が春雄を旅館まで案内し、知り合いに頼んで一晩泊めてもらった。
ただ、それだけのことだった。
それなのに、その短い記録の中には、僕が想像したことのない若い佐伯春雄がいた。
「祖母は……」
美咲が手帳から目を離さないまま、つぶやいた。
「こんなふうに、誰かを助ける人だったんですね」
美咲はそう言ったあとも、手帳から目を上げなかった。
早苗さんは何も答えなかった。
ただ、古い写真を一枚、指先でゆっくりと押し出した。
年老いた千代子が、庭の前に座っている写真だった。
その写真の中の千代子は、静かな顔をしていた。
けれど今の僕には、その顔の向こうに、港の路地で見知らぬ青年に自分から声をかけた若い女が重なって見えた。
「もう少し、読めますか」
僕が慎重に尋ねると、美咲はうなずいた。
彼女も、まだ止まりたくない顔をしていた。
◆◆◆
手帳の次の部分は、数日後の夕方の記録のようだった。
美咲は、途中の数行をゆっくりと読んだ。
「佐伯さんは、一晩だけのつもりだったらしい」
「けれど、用事がすぐには済まず、もう少し鞆に残ることになった」
「港で会うと、朝鮮の話をしてくれた」
「釜山の海のこと、市場のこと、キムチの匂いがする食卓のこと」
「市場には歌う声があり、店先の色も、人の言葉も、内地とは違ってにぎやかだと言った」
「私は、それを聞くのが思いのほか楽しかった」
美咲の声が、そこで少しだけ遅くなった。
「内地の人たちは、朝鮮を遠い場所のように言うことがあるけれど、佐伯さんにとっては、そこは暮らしのある場所なのだと思った」
「そのあと、佐伯さんはまた釜山の海の話をした」
「私は、鞆の海も負けていませんよ、と言った」
「すると佐伯さんは、少し笑って、では今度案内してくださいと言った」
「私は、福禅寺の対潮楼のことを話した」
「昔、朝鮮通信使の人たちがそこから海を眺め、この景色をたいそう褒めたのだと、祖母から聞いたことがあった」
「朝鮮から来た人たちが、鞆の海を美しいと言ったのだと思うと、佐伯さんにそれを見せたい気がした」
美咲はその行を読み終えたあと、少しだけ間を置いた。
佐伯さんにそれを見せたい。
その一文だけが、他の行より少しだけ長く残った。
美咲は次の行を読もうとして、少し止まった。
「父に、佐伯さんのことをどう話せばいいのかわからない」
その一文が出たとき、早苗さんの表情がほんの少し変わった。
僕は、その変化を見逃さなかった。
美咲も母を見た。
「お母さん?」
早苗さんは少しためらってから、小さく言った。
「私の祖父、つまり千代子の父は、厳しい人だったと聞いています」
それ以上は言わなかった。
美咲はその一文を、もう一度目で追っているようだった。
早苗さんも、何も言わなかった。
◆◆◆
手帳は、その日の最後の記録へ続いていた。
「帰り道、藤井写真館の修一くんに会った」
美咲の声が、そこで止まった。
藤井写真館。
修一くん。
美咲は、もう一度手帳へ視線を落とした。
早苗さんは、その名前にだけ静かに目を上げた。
けれど彼女は、すぐには説明しなかった。
美咲が、ゆっくりと次の行を読んだ。
「修一くんは、何も聞かなかった」
「ただ、私の後ろを少しだけ見ていた」
その一文のあと、美咲の声が止まった。
古い写真館の中で、誰もすぐには口を開かなかった。
僕は手帳から目を離し、古い写真館の中を見回した。
壁に残る四角い跡。
布をかぶせられた小さな道具。
引き出しの上に置かれた写真の封筒。
どこかで、まだ誰かがこちらを見ているような気がした。
「修一くん……」
美咲が小さく繰り返した。
「祖父の名前です」
その名前が、初めて僕たちのあいだに置かれた。
藤井修一。
僕は、韓国から持ってきた白黒写真を見た。
そこに写っているのは、若い春雄と若い千代子だけだった。
けれど、その外側に、修一という名前があった。




