第6話 昭和十八年の秋
美咲は指先で、手帳の表紙をそっと押さえた。
「美咲」
美咲が母を見た。
「ゆっくりね」
美咲は慎重に、最初のページをめくった。
手帳の内側には、縦書きの文字が並んでいた。
インクは褪せ、いくつかの文字は滲んでいた。
最初は目で追っているだけだった美咲の唇が、少し震えた。
そしてゆっくりと、低い声で読み始めた。
「港のそばで、見慣れない青年を見た」
僕の指が、無意識に写真の封筒へ触れた。
見慣れない青年。
その言葉だけで、写真の中の若い男の姿が浮かんだ。
美咲は、ゆっくりと次の文を読んだ。
「内地の人のようで、そうではないようにも見えた」
早苗さんの視線が、手帳の文字に止まった。
美咲は次の行で、少し止まった。
文字が少し滲んでいるようだった。
彼女は手帳をもう少し近くへ引き寄せた。
早苗さんも、わずかに顔を近づけた。
美咲が、ふたたび読んだ。
「言葉の端に、海の向こうの匂いがした」
美咲が読み終えても、誰もすぐには口を開かなかった。
僕は封筒に触れた指を、しばらく離せなかった。
◆◆◆
美咲は次のページへ進んだ。
日付は、一日あとのものだった。
手帳の文字は、少し急いで書かれたように見えた。
手帳には、こう続いていた。
「今日も、あの青年を見た」
「今日も」
その一語に、僕の目が止まった。
千代子は、彼をもう一度見ていた。
「宿を探していたようだった」
「けれど、宿の人は困った顔をしていた」
美咲の声が少し低くなった。
「青年が何かを言うたびに、まわりの人たちは顔を見合わせた」
「宿の人は、宿帳を前にしたまま、名前と行き先を何度も確かめていた」
早苗さんの手が、小さく動いた。
美咲も、そこでしばらく止まった。
少しして、美咲は慎重に続きを読んだ。
「青年は、佐伯と名乗った」
僕は息を止めた。
佐伯。
箱の中の書類に残っていた姓と、同じだった。
美咲は僕を見た。
僕の反応を確かめようとしているようだった。
やがて彼女は、もう一度手帳へ視線を落とした。
「少し困っているように見えた」
「だから、私は声をかけてしまった」
彼女は、困っていた見知らぬ青年に声をかけた。
写真の中で黙って立っていた千代子に、声があったのだと思った。
彼女はどんな声で話しかけたのだろう。
そのとき青年は、どんな顔で彼女を見たのだろう。
美咲は次の行を読んだ。
「『お困りですか』と尋ねると、青年は驚いた顔をした」
美咲の声が、ごくわずかにやわらかくなった。
彼女はその行を読み終えてからも、すぐには次へ進まなかった。
写真では、千代子はただこちらを見ているだけだった。
けれど手帳の文字の中で、彼女は見知らぬ青年に声をかけていた。
◆◆◆
美咲は、いったん手帳を閉じた。
「少し、休みましょうか」
僕は首を横に振った。
「大丈夫です」
けれど本当は、大丈夫ではなかった。
手帳の数行を聞いただけで、写真の中の若い男の顔が、さっきまでと少し違って見えた。
僕が知っている祖父は、昔のことをほとんど話さない人だった。
けれど今、手帳の中には、まだ祖父になる前の佐伯春雄がいた。
僕は封筒の端を押さえたまま、美咲に言った。
「もう少し……読んでもいいですか」
少しぎこちない日本語だった。
それでも、美咲には伝わった。
彼女はゆっくりとうなずいた。
◆◆◆
手帳の次のページには、日付が書かれていなかった。
同じ日の続きなのかもしれない。
美咲が、また読み始めた。
「青年は、私に礼を言った」
「丁寧な人だった」
「けれど、自分の言葉がどう聞こえるのかを、気にしているようにも見えた」
僕は無意識に手を握った。
自分の言葉がどう聞こえるのか。
その一文は、写真の中の若い男の表情とは、すぐには結びつかなかった。
けれど彼は、見知らぬ内地の港町で、名前と行き先を何度も確かめられていた青年だった。
美咲は次の文を読んだ。
「どこから来たのかと聞くと、青年は少し迷った」
「そして、朝鮮から、と答えた」
「ただ、両親は内地の人だと言った」
美咲は、もう一度手帳を見た。
最後の行を読もうとしているようだった。
けれどその行で、彼女の声が少し揺れた。
「青年の名は、佐伯春雄さんというらしい」
「朝鮮で生まれた人だそうだ」
その名前は、箱の中の書類にあったものと同じだった。
佐伯春雄。
僕は封筒の中の写真を、もう一度見た。
裏には、鞆の浦、昭和十八年秋、と書かれている。
手帳の文字と、写真の裏の文字が、同じテーブルの上に並んでいた。
佐伯春雄という名前は、日本の名前だった。
けれど手帳の中の彼は、ここでも少しだけ遠い場所に立っていた。




