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第5話 藤井写真館

見知らぬ部屋で目を覚ました。


一瞬、自分がどこにいるのか思い出そうとした。


窓の外から、小さなトラックが通り過ぎる音と、人の低い話し声が聞こえてきた。


音だけを聞いていれば、いつもの早朝とそれほど変わらなかった。


けれど、言葉の端に知らない響きが混じっていた。


そうだ。ここは日本だ。


僕はゆっくり体を起こした。


部屋の片隅の戸を開けると、涼しい風が顔をなでていった。


外には、鞆の浦の景色が見えた。


僕はスマートフォンを確認した。


昨日別れる前に交換しておいたLINEに、メッセージがひとつ届いていた。


美咲からだった。


[母に確認しました。

少しだけなら、見てもいいそうです。]


僕はどう返事をすればいいのか、少し迷った。


日本語で直接書く自信は、まだなかった。


翻訳アプリを開いて韓国語を入力すると、日本語に翻訳された。


[ありがとうございます。ご迷惑にならないように気をつけます。]


画面に出た文は少し堅すぎる気がして、しばらくためらった。


それでも、結局そのまま送った。


少しして、返事が来た。


[大丈夫です。

港の近くで待っています。]


僕は送ったばかりのメッセージを、もう一度読み返した。


たった数行のやり取りなのに、画面の向こうには、美咲の母と、まだ会ったことのない千代子の家があった。


窓の外で、また小さなトラックの音がした。


◆◆◆


美咲は港の近くに立っていた。


僕はそばへ近づき、頭を下げた。


「おはようございます」


僕の日本語の発音がぎこちなかったのか、美咲が少し笑った。


「おはようございます」


その笑みは、昨日よりもやわらかかった。


けれどすぐに、彼女は慎重な表情に戻った。


「母に、話しました」


僕はうなずいた。


「お母さんは……」


最後まで言葉にできないでいると、美咲がゆっくり言った。


「母も、祖母の若い頃のことはあまり知りませんでした」


その言葉に、僕は韓国にいる母のことを思い出した。


昨夜、母が写真からなかなか目を離さなかったことまで、なぜか一緒に浮かんだ。


美咲は港のほうではなく、路地の奥を指した。


「こちらです」


僕は彼女について歩いた。


朝の鞆の浦は、昨日の夕方とは少し違っていた。


路地の中には魚の匂いがかすかに漂い、低い家々の戸口には水を撒いた跡が残っていた。


ある家の前では、老人が小さな植木鉢をのぞき込んでいた。


写真を撮っている観光客の姿も、何人か見えた。


そのとき、美咲が狭い路地の奥へ入っていった。


僕は慌ててあとを追った。


ほどなくして、美咲は古い木造の建物の前で足を止めた。


シャッターの下りた、小さな店だった。


看板は古びていた。


文字もほとんど薄れていたが、よく見るとまだ読むことができた。


藤井写真館。


僕はその文字を見て、思わず声に出していた。


「写真館……」


美咲が振り返った。


「昔、祖父の家は写真館だったそうです」


その言葉に、僕は鞄の中の白黒写真を思い出した。


戦時中に撮られた、背景の狭い写真。


二人の顔と肩を中心に置き、海と島と古い灯りの輪郭だけを、かすかに残した写真。


その写真を撮ったのが誰だったのか、僕はまだ知らない。


藤井写真館。


その古い文字を見た瞬間、僕は写真を撮った人間のことを、初めて考えた。


美咲はシャッターの横にある小さな扉を開けた。


「今は、物置みたいになっています」


中へ入ると、古い木の匂いと埃の匂いがした。


店だった空間には、ほとんど物が残っていなかった。


壁の片側には色褪せた額が掛かり、奥には古い椅子と小さな棚が残っていた。


写真館だったと言われなければ、ただの古い空き店舗に見えたかもしれない。


美咲は奥の部屋へ僕を案内した。


そこには、中年の女性が座っていた。


僕はその人が、美咲の母だと気づいた。


「母です」


僕は急いで頭を下げた。


「はじめまして。キム・ハルです」


発音が合っていたのかはわからない。


美咲の母はしばらく僕を見てから、静かに頭を下げた。


「藤井早苗です」


その声は丁寧だったが、身近な人に向ける声ではなかった。


僕は封筒を持ったまま、もう一度小さく頭を下げた。


僕は鞄から写真の封筒を取り出した。


早苗さんの視線が、その封筒に向いた。


美咲が、昨日あったことを短く説明した。


美咲はゆっくり話してくれたが、僕にはすべてを聞き取ることはできなかった。


それでも、韓国、祖父、倉庫、写真、千代子という言葉だけはわかった。


早苗さんはしばらく黙っていたが、やがてようやく口を開いた。


「母は、昔のことをあまり話しませんでした」


それは、昨日美咲が言った言葉と同じだった。


けれど早苗さんは、その言葉を言い終えたあとも、膝の上に置いていた小さな箱から、すぐには手を離さなかった。


やがて、その箱をテーブルの上へ押し出した。


「全部ではありません。見せられるものだけです」


僕は頭を下げた。


「ありがとうございます」


まだ日本語が未熟な僕に言えるのは、それくらいだった。


それでも、その言葉だけは自分の口で伝えたかった。


◆◆◆


箱の中には、いくつもの写真が入っていた。


分厚いアルバムではなく、古い封筒や小さな紙箱に分けて収められていた。


家族写真もあれば、子どもを抱いた若い女の写真もあった。


着物を着た中年の女性や、庭先に座る年老いた女の写真も混じっていた。


美咲が言った。


「これが、祖母です」


彼女が指したのは、年を取った千代子だった。


写真の中の千代子は、僕が持ってきた白黒写真の女とは違っていた。


年月が過ぎていた。


頬は少し痩せ、目元には深い皺があった。


けれど、まったく別の人ではなかった。


僕は白黒写真を取り出し、テーブルの上に置いた。


二枚の写真を並べると、美咲の手が止まった。


早苗さんも、何も言わなかった。


写真の中の若い女と年老いた女が、長い時間を挟んで、互いを見つめているようだった。


「似ていますね」


早苗さんが小さく言った。


そのひと言が、部屋の中に静かに落ちた。


美咲は箱の中から、別の封筒を取り出した。


今度は、もう少し古い写真だった。


その中の一枚で、僕の視線が止まった。


若い女が着物姿で、写真館の中で撮ったらしい正面の写真。


僕は息を呑んだ。


その女は、写真の中の千代子とほとんど同じ顔をしていた。


美咲もその写真を持ったまま、しばらく動けずにいた。


「祖母だと思います」


僕は写真の中の若い千代子を見つめた。


裏面に書かれていた名前が、目の前の箱の中から、もう一度こちらを見返しているようだった。


「この写真は……」


僕は日本語の文を作ろうとして、言葉に詰まった。


美咲が僕を待ってくれた。


僕は翻訳アプリを開き、韓国語で入力した。


[この写真は、いつ撮られたものですか?]


美咲は早苗さんを見た。


早苗さんは写真の裏を確かめた。


何も書かれていなかった。


「わかりません」


彼女は静かに言った。


「でも、戦争の前か、戦争中だと思います」


僕は自分の写真の裏面を、もう一度見た。


昭和十八年秋。


二枚の写真のあいだにある時間は、それほど遠くないのかもしれなかった。


そのとき、美咲がまた別の封筒を取り出した。


古く、角の擦り切れた封筒だった。


僕はそれを見ながら、白黒写真を撮った人のことを考えた。


あの写真を撮ったのは、誰だったのだろう。


◆◆◆


箱の下のほうには、布に包まれた小さな束があった。


早苗さんはそれを見ると、少しためらった。


美咲も初めて見るようだった。


「これ、見たことない」


早苗さんは、その束をすぐにはほどけなかった。


布は古く、結び目は固かった。


美咲が慎重に手を添えた。


布がほどけると、中から小さな手帳が出てきた。


茶色い表紙の角は擦り減り、手垢がついていた。


僕はその手帳を見た瞬間、理由もなく背筋が伸びた。


写真とは違うものが、そこにある気がした。


美咲は手帳の表紙を、そっとめくった。


最初のページには、文字が少しだけ書かれていた。


昭和十八年


そして、その下に小さな字。


千代子


部屋の中が静かになった。


早苗さんの手が、テーブルの上で止まった。


美咲は手帳をそれ以上めくることができなかった。


僕も何も言えなかった。


昭和十八年、秋。


写真の裏に残っていた季節が、手帳の最初のページにもあった。


僕は封筒の端を押さえたまま、しばらくその文字を見ていた。


美咲が低く言った。


「これは……初めて見ました」


その声は少し震えていた。


早苗さんは、手帳から目を離さなかった。


「それは……見たことがあります」


美咲が母を見た。


早苗さんは少し間を置いてから、言った。


「母のものだろうとは思っていました。でも、中は見ていません」


早苗さんは、手帳の表紙に視線を落とした。


「そのままにしていました」


美咲は何も言わなかった。


僕も、何を言えばいいのかわからなかった。


僕は息を静かに吸い込んだ。


すぐに読みたいと思った。


けれど、美咲の指がまだ表紙の上にあった。


僕は手を伸ばさなかった。


美咲は慎重に手帳を閉じた。


そして、僕を見た。


「読んでみても、いいと思います」


その言葉は僕に向けたものでもあり、同時に彼女自身へ向けたもののようにも聞こえた。


僕はうなずいた。


けれど、すぐには手を伸ばさなかった。


窓の外を、風が通り過ぎた。


古い写真館のガラスが、ごく小さく震えた。


手帳は閉じられたまま、僕たちの前に置かれていた。


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