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第4話 千代子の孫娘

目の前の女の人は、写真から目を離せずにいた。


海風が吹いた。


僕の手の中で、白黒写真の角が小さく震えた。


彼女の表情は、写真の中の千代子とどこか重なって見えた。


僕はようやく我に返った。


韓国語で話しても、伝わらない。


日本語で話すには、頭の中で文章を組み立てなければならなかった。


けれど、唇はなかなか動かなかった。


「あの……」


僕はどうにか日本語で口を開いた。


彼女が僕を見た。


「これは……」


けれど、その先が続かなかった。


言いたいことはあったのに、日本語にしようとすると、言葉が途中で止まってしまった。


彼女は僕の戸惑った顔を見て、少し身を引いた。


「すみません。急に声をかけてしまって」


その言葉は、聞き取ることができた。


僕は首を横に振った。


「いえ……」


その先が、やはり続かなかった。


結局、僕は鞄からスマートフォンを取り出した。


指が少し震えていた。


翻訳アプリを開き、韓国語で文を入力すると、日本語に翻訳された。


[私はこの写真を、亡くなった祖父の倉庫で見つけました。]


僕はその画面を彼女に見せた。


彼女はゆっくり読んだ。


そして、もう一度写真を見た。


「お祖父さんの……倉庫で?」


僕はうなずいた。


今度は、彼女がしばらく言葉を失った。


僕はまた翻訳アプリに入力した。


[この女性を知っていますか?]


彼女は画面を見てから、とてもゆっくり答えた。


「知っている、というより……」


彼女は言葉を選んでいるようだった。


「似ています。とても」


似ている。


僕はもう一度写真を見た。


写真の中の千代子。


そして、目の前の女の人。


彼女はじっと写真を見つめてから、慎重に言った。


「私の祖母の名前は、千代子でした」


僕はその言葉を聞いて、息を止めた。


写真の裏面の文字が浮かんだ。


僕は写真を裏返し、彼女に見せた。


彼女は裏の文字を見た瞬間、目を大きくした。


「千代子……」


彼女の指先が、写真に触れそうなところで止まった。


触れたら、写真の中の時間まで壊れてしまうと思っているように見えた。


「祖母の字ではないと思います。でも……」


彼女は小さく息を吸った。


「名前は、同じです」


僕はもう一度、翻訳アプリを開いた。


[お祖母さんの若い頃の写真はありますか?]


[見せていただくことはできますか?]


彼女は画面を読んで、しばらく視線を落とした。


「若い頃の写真は……少しだけ、残っていると思います」


その言葉を聞いた瞬間、僕は写真を見直した。


もう、僕だけの手がかりではなかった。


僕はもう一度尋ねた。


「あなたは……」


日本語でどう言えばいいのか、少し迷った。


彼女は僕の言葉を待っていた。


僕は短く言った。


「お名前は?」


彼女はそこで、自分がまだ名乗っていなかったことに気づいたようだった。


「あ……すみません」


少し慌てた顔で、彼女は頭を下げた。


「藤井美咲です」


僕はその名前を、胸の内で繰り返した。


それから自分の名前を言った。


「キム・ハルです」


美咲は、慎重に繰り返した。


「キム……ハルさん」


発音は少しぎこちなかった。


けれど不思議と、そのぎこちなさは嫌ではなかった。


僕だって、彼女の名前をきちんと呼べる自信はなかったからだ。


僕たちはしばらく、互いを見つめていた。


言葉がうまく通じない二人だった。


けれど手の中の写真だけは、僕たちのあいだで、不思議なほどはっきりしていた。


◆◆◆


美咲は、近くに静かな場所があると言った。


彼女は手で、路地のほうを示した。


「少し、座って話しませんか」


僕はうなずいた。


僕たちは港から少し離れた路地へ入った。


古い家並みが続いていた。


壁には年季の入った板が張られ、小さな植木鉢が低い戸口の前に置かれていた。


路地は狭かった。


二人が並んで歩くには少し足りず、ひとりが先に歩き、もうひとりがあとについていくしかなかった。


美咲は前をゆっくり歩いた。


僕はそのあとを追いながら、鞄の中で写真の封筒が折れていないか、何度も確かめた。


路地の奥に、小さなカフェがあった。


観光客向けの華やかな店ではなかった。


入口には古びた看板が掛かり、中からはコーヒーの匂いと木の匂いが混じって流れてきた。


美咲が先に扉を開けた。


小さな鈴の音が鳴った。


店の中に、客は多くなかった。


窓際の席で老人がひとり新聞を読んでいて、厨房の奥では中年の女性がカップを拭いていた。


美咲はその女性に軽く挨拶した。


顔なじみのようだった。


僕たちは窓から少し離れた席に座った。


テーブルは古い木でできていた。


表面には、小さな傷がいくつもあった。


僕はその上に、写真の封筒をそっと置いた。


美咲も、紙袋を膝の上に置いたまま座った。


しばらく沈黙が流れた。


どこから説明すればいいのか、すぐには決められなかった。


美咲も同じようだった。


結局、僕が先にスマートフォンを取り出した。


翻訳アプリを開き、ゆっくり入力した。


[私は韓国から来ました。]


[さっきの写真と一緒に、古い書類も見つかりました。]


美咲は画面を読んだ。


そして、とても慎重に尋ねた。


「お祖父さんのお名前は?」


僕はノートを取り出した。


そこに書いておいたふたつの名前を見せた。


佐伯春雄。


金春雄。


美咲はまず、佐伯春雄を読んだ。


「さえき……はるお」


次に、金春雄のところで止まった。


僕は言った。


「キム……チュヌン」


韓国式の読み方をゆっくり教えると、美咲が繰り返した。


「キム、チュヌン」


少しぎこちなかったが、聞き取ることはできた。


僕はうなずいた。


それから、ノートの下に書いておいた漢字を指で示した。


春雄。


「ハルオ。チュヌン」


僕が短く言うと、美咲もすぐに理解したようだった。


「同じ字……」


僕はうなずいた。


同じ文字なのに、読み方は違った。


美咲が「さえき、はるお」と読み、僕が「キム、チュヌン」と言うあいだ、祖父の名前はテーブルの上で少し揺れているように見えた。


美咲はしばらくノートを見つめていた。


「祖母は……」


彼女は言いかけて、止まった。


「祖母は、若い頃の話をあまりしませんでした」


その言葉に、僕は母のことを思い出した。


韓国の家で聞いた言葉と、鞆の浦の小さなカフェで聞いた言葉が、不思議に重なった。


それ以上のことは、まだ何もわからなかった。


テーブルの上の写真だけが、二人のあいだに置かれていた。


◆◆◆


僕はスマートフォンに保存していた書類の写真を、数枚、美咲に見せた。


あまりに古い書類は、直接持ち歩くのが怖くて、写真に撮ってきていた。


美咲はゆっくりと文字を読んだ。


「引揚……」


彼女の声が低くなった。


美咲は画面を一枚ずつ、丁寧に見ていった。


「詳しいことは、私にもわかりません。でも……」


彼女は写真へ視線を移した。


「亡くなった祖母が暮らしていた家に、古い写真が少し残っています」


僕は彼女の言葉を聞き逃さないよう、集中した。


「手帳のようなものも、あったような気がします」


その単語だけは、はっきり聞き取れた。


手帳。


僕は写真の封筒を見た。


もしそれが千代子の手帳なら、写真の裏の三行だけでは届かなかった場所に、少し近づけるかもしれない。


けれど美咲は、すぐに首を横に振った。


「ただ、全部見たことはありません。祖母が亡くなったあと、母が片づけて、そのままになっているものが多いので」


僕は翻訳アプリに入力した。


[もし可能なら、見せていただくことはできますか?]


画面の日本語を読んでも、美咲はすぐには答えなかった。


当然だった。


初めて会った外国人の男に、自分の祖母の古い写真や手帳を見せると、すぐに言えるはずがない。


僕は慌てて付け加えた。


[無理でしたら、大丈夫です。]


[急に来てしまって、すみません。]


美咲は画面を読んで、ほんの少し笑った。


「いえ」


彼女はもう一度、写真を見た。


「私も、知りたいです」


その短い言葉だけは、聞き返さなくてもわかった。


美咲は写真の中の千代子の顔を指すのではなく、そのまわりの空気だけをそっと指先でなぞるようにした。


写真の中の人を、むやみに触れないようにしているみたいだった。


「この人が本当に祖母なら……」


彼女はそこで少し言葉を止めた。


「この写真が撮られた時のことを、私も知りたいです」


僕はその言葉を、完全には理解できなかった。


美咲は翻訳アプリを指さした。


僕はスマートフォンを差し出した。


彼女が自分で日本語を入力すると、画面に韓国語の翻訳が浮かんだ。


少し硬い文だった。


けれど、意味は十分に伝わった。


◆◆◆


カフェの外へ出たとき、日は少し傾いていた。


港のほうから風が吹いてきた。


美咲は僕に、明日は時間があるかと尋ねた。


僕はすぐには答えられなかった。


初めて会った人の家へ行くこと。


それも、古い家族写真と手帳を確かめるために行くこと。


韓国だったとしても、僕は簡単にうなずけなかったはずだ。


けれど、ここまで来た。


福山駅からバスに乗り、見知らぬ海の前で写真を持って立っていた。


そしてその写真の中の女を見て、誰かが祖母だと言った。


僕は鞄の中の封筒に触れた。


それから、うなずいた。


「明日……大丈夫です」


美咲は少し安心したようだった。


「では、明日。母に確認してから、祖母の写真を見てみましょう」


僕はその言葉を、胸の中でゆっくり繰り返した。


美咲は小さな紙袋を抱えたまま、港へ続く道のほうを見た。


「今日は、どこに泊まるんですか?」


僕は予約していた宿の名前を見せた。


美咲は場所を確かめてから、道を教えてくれた。


美咲の説明は、ゆっくりだった。


僕がわかっていない顔をしていると、彼女は手振りでもう一度説明してくれた。


僕は何度もうなずいた。


僕たちは港の近くで別れた。


美咲は路地の奥へ歩いていった。


僕はしばらく、その後ろ姿を見つめていた。


少し前まで、彼女は見知らぬ人だった。


けれど今は、同じ写真を別の側から見つめている人だった。


僕は鞄の中の写真の封筒に、もう一度触れた。


紙は相変わらず薄かった。


その向こうで、港の水面が夕方の光を少しだけ返していた。




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