第3話 鞆の浦へ
福山駅に降りたとき、海はまだ見えなかった。
聞き慣れない案内放送と、足早に行き交う人たち。
福山。
僕は駅の中に立ったまま、しばらくその二文字を見つめていた。
駅の表示を見ているうちに、鞄の中の封筒へ自然と手が伸びた。
数日前、画面の上で見ていた地名が、今は足元の案内板にあった。
駅の外へ出た。
日差しは、韓国の田舎で見るものとそれほど変わらなかった。
バス停には、何人かの人が立っていた。
制服姿の学生と、買い物帰りのような老人。
それから、小さなキャリーケースを引いた、僕のような旅行者。
僕は停留所の標識に、鞆港という文字を探した。
その文字を見つけた瞬間、封筒の中の写真が急に重く感じられた。
薄い紙の感触が、指先に伝わった。
その中には、若い祖父がいた。
そして僕はいま、祖父が遠い昔に訪れた場所へ向かおうとしていた。
しばらくして、バスが来た。
僕は人々のあとについて乗り込んだ。
窓際の席に座ると、バスはゆっくりと駅前を離れていった。
窓の外の建物は低くなり、道は少しずつ狭くなっていった。
やがて、海が見えた。
遠くに灰色がかった水平線が先に見え、それから水の色が見えた。
小さな船の浮かぶ港を通り過ぎ、海のほうへ傾くように並んだ屋根が見えた。
僕は思わず、身を乗り出した。
写真の中の海は、ぼやけていた。
白黒写真の背景の片隅にかろうじて残っていた、消されかけた跡のような海だった。
けれど今は、バスの窓の外で光っていた。
船が一艘、ゆっくりとその上を横切っていった。
僕は窓に映った自分の顔を見た。
その顔の向こうを、海が過ぎていった。
祖父も、どこかでこの海を見たのだろうかと思った。
◆◆◆
鞆の浦に着いたとき、バスの中に残っている人は多くなかった。
僕は案内放送を聞いて、慌てて席を立った。
バスを降りると、風が吹いた。
海の匂いがした。
潮の匂いというより、古い木と濡れた石のあいだに、薄く染み込んでいる匂いに近かった。
僕はしばらく、動けずに立っていた。
目の前には町があった。
古い家並みのあいだから、海が見えた。
祖父が見たかもしれない海が、特別な顔をするでもなく、そこにあった。
僕はゆっくり歩き出した。
少し進むと、海が広く開け、その向こうに小さな島が見えた。
写真の中で黒い影としてだけ残っていた輪郭に、少し似ていた。
千代子も、この海を見たのだろうか。
祖父も、この海の前に立ったのだろうか。
二人は写真を撮るとき、何を思っていたのだろう。
僕には、まだ何もわからなかった。
海沿いのほうへ足を向けた。
写真の中で手がかりになりそうなのは、古い灯りのようなものの、かすかな輪郭だった。
僕は封筒から写真を取り出した。
風に飛ばされないよう、指で角を押さえた。
写真の中の二人は、変わらず若かった。
その後ろの風景は、やはりぼやけていた。
僕は写真を手に、ゆっくりと周囲を見回した。
どこか似ているようでいて、ぴたりと重なる場所はなかった。
何度も写真を持ち上げ、角度を変えた。
一歩横へ動き、少し後ろへ下がって、また前へ近づいてみた。
それでも、写真の中の背景は相変わらず曖昧だった。
輪郭だけが残った場所を、もう一度現実の中から探し出すのは、思っていたよりずっと難しかった。
僕は小さく息を吐いた。
「ここで合ってるのかな……」
韓国語が口からこぼれた。
近くにいた老人がちらりと僕を見たが、すぐに何事もなかったように通り過ぎていった。
僕はもう一度、写真を見つめた。
とくに、古い灯りのようなもののかすかな輪郭に目を凝らした。
そして顔を上げた。
そう遠くないところに、海へ向かって立つ石造りの灯りのようなものが見えた。
僕はそちらへ歩いた。
近づくほどに、写真の中のぼやけた輪郭と、目の前の構造物がどこか似ているように思えた。
確信はできなかった。
それでも祖父は、このあたりのどこかに立っていたのかもしれないと思った。
千代子も、その隣にいたのかもしれない。
僕は写真を胸の高さに持ったまま、もう一度あたりを見回した。
そのときだった。
背後から、遠慮がちな声がした。
「あの……」
突然聞こえた日本語に、僕はびくりとして振り返った。
ひとりの女の人が立っていた。
僕と同じくらいの年に見えた。
淡い色のカーディガンを羽織り、手には小さな紙袋を持っている。
観光客というより、この町の人のように見えた。
彼女は僕を見ていなかった。
僕の手にある写真を見ていた。
正確には、写真の中の女を見ていた。
僕はとっさに写真をしまおうとした。
けれど彼女が、一歩近づいた。
「その写真……」
彼女は写真から目を離せないまま、ゆっくりと尋ねた。
「どこで、それを……?」
その意味はわかった。
その写真を、どこで手に入れたのか、と聞いているのだ。
僕は何と答えればいいのかわからなかった。
韓国から持ってきたと言えばいいのか。
祖父の倉庫で見つけたと言えばいいのか。
それとも、先に尋ねるべきなのか。
あなたは、この女の人を知っているのか、と。
僕はもう一度、写真を見た。
着物を着た若い女。
そして、目の前に立っている女の人。
二人は似ていた。
まったく同じではない。
けれど、目元が似ていた。
唇を閉じて、何かをこらえているような表情も、どこか似ていた。
彼女の視線は、僕の顔ではなく、写真の中の女に吸い寄せられていた。
手にしていた紙袋の持ち手が、指の間で少し歪んでいた。
僕はようやく口を開いた。
尋ねたかったのは、この人をご存じですか、ということだった。
けれど動揺したせいで、思わず韓国語が飛び出した。
「혹시……이 사람을 아세요?」
僕の韓国語は、風の中に散っていった。
彼女には、僕の言葉がわからなかったようだった。
それでも写真から目を離さないまま、ごく小さくつぶやいた。
「おばあちゃん……?」
彼女の声は、ほとんど風に紛れるほど小さかった。
僕は写真を持ったまま、何も言えなかった。
千代子。
裏面に書かれたその名前が、急に近くなった。




