第2話 二つの名前
僕は木箱の中にあったものを、慎重に紙箱へ移し替えた。
古い書類は、少し力を入れただけで角が崩れそうだった。写真はもう一度封筒に戻し、軍服は埃が落ちないよう布で包んで、一番下に置いた。
倉庫の外へ出ると、午後の日差しが目に刺さった。
そう遠くない場所では、空き家がひとつ、もう取り壊されていた。
僕は箱を車の後部座席に積み、それからしばらくその場に立っていた。
この中にあるものが何を意味しているのか、まだわからなかった。
数日遅ければ、木箱も、紙も、名前も、あの土埃の中に紛れていたのだと思う。
◆◆◆
田舎の家の小さな部屋は、静かだった。
窓の外からは虫の鳴く声が聞こえ、ときおり遠くを車が通り過ぎる音が、かすかに混じった。
昼間は、倉庫がもうすぐ消えるということばかりが先に立ち、とにかく手を動かしていた。けれど夜になると、箱を開けることが、祖父が生涯閉ざしていた扉を無理にこじ開けることのように思えた。
僕はしばらく箱の前に座っていた。
それから、蓋に手をかけた。
一番上には、古い書類の束があった。
日本語がとても得意というわけではない。けれど仕事の関係で、基本的な文章なら読むことができた。
そこに並んでいたのは、戦争が終わったあと、日本へ帰ろうとした人たちの名前だった。
古い紙だと思っていたものが、急に人の列のように見えた。
その中のひとつが、ふたたび目に入った。
佐伯春雄。
横に置いた韓国語の書類には、僕の知っている祖父の名前があった。
金春雄。
姓は違っていた。
けれど、名前の骨だけは同じだった。
その一致に気づいた瞬間、釜山、引揚、昭和二十年という言葉が、ただの古い文字ではなくなっていった。
僕はさらに書類を探った。
誰かの名前の横には丸がつけられ、誰かの名前の横には黒い線が引かれていた。
ある紙には印が押され、ある紙は半分ほど破れていた。
読める言葉は多くなかった。
ただ、釜山、引揚、連絡、名簿という文字だけが、何度も目に残った。
その紙の上でだけ、佐伯春雄と金春雄は近くにあった。
僕は最後に写真を取り出した。
鞆の浦にて
千代子と
昭和十八年秋
僕はスマートフォンの検索窓を開いた。
検索窓には、さっき入力した履歴が残っていた。
そのまま画像検索を押した。
鞆の浦。
小さな画面の上に、古い港町の風景が現れた。
狭い路地と古びた瓦屋根の向こうに海があり、岸辺には、灯台というには低く、石の灯籠にも似た古い構造物が立っていた。
遠くには、小さな島も見えた。
写真の背景はぼやけていた。
それでも、画面の中の風景と重なるものがあった。
似ている。
場所がはっきり写らないように撮られた写真の端で、数十年前の海だけが、かすかに残っているように見えた。
僕は長いあいだ、画面を見つめていた。
そのとき、扉の外から母の声がした。
「まだ寝ないの?」
僕はスマートフォンの画面を消した。
「うん。もう少しだけ見る」
扉がゆっくり開いた。
母は水の入ったコップを持って入ってこようとして、部屋の真ん中に置かれた箱と書類を見て足を止めた。
「それ、倉庫から出てきたもの?」
「うん」
母は部屋の中へは入らず、戸口に立っていた。
その表情は、どこか妙だった。
驚いているようにも見えたし、いつかこんな日が来ると、前から知っていたようにも見えた。
僕は写真を持ち上げた。
「母さん。これ、見たことある?」
母は少しためらってから、そばへ寄ってきた。
写真を受け取った母の目が細くなった。
「初めて見るわ」
「本当に?」
「うん。こんな写真は初めて」
母は写真の中の若い男を、長く見つめていた。
「おじいちゃんの若いころみたいね」
「そうだよね?」
「うん。目が同じ」
母の視線が、その隣に立つ着物姿の女へ移った。
「この人は……」
母は、言葉を最後まで続けなかった。
僕は静かに尋ねた。
「おばあちゃんじゃないよね?」
母はすぐには答えなかった。
写真をもう少し近くで見つめたあと、ゆっくり首を横に振った。
「違うわ。あなたのおばあちゃんは、こういう顔じゃなかった」
わかっていた。
それでも母の口から確かめられると、写真の中の女が、さらに遠い人になったような気がした。
祖母ではない女。
それなのに、祖父が生涯隠していた写真の中に残っていた女。
「母さん」
僕は少しためらった。
写真を持つ母の指が、さっきより少し固くなっている気がした。
それでも、口にした。
「おじいちゃんって、日本人だったの?」
部屋の空気が止まった。
母は写真を持ったまま、僕を見た。
「どうしてそんなことを言うの?」
僕は答える代わりに、二枚の書類を差し出した。
佐伯春雄。
金春雄。
母は日本語をほとんど読めなかった。
それでも、ふたつの名前の横にある漢字だけは、しばらく見つめていた。
「これは何?」
「こっちは日本語の書類にあった名前。佐伯春雄。こっちは、おじいちゃんの名前。金春雄」
「……」
「姓は違う。でも、春雄という字だけは同じなんだ」
母はゆっくり書類を下ろした。
「私も、詳しくは知らないの」
その答えは、すぐに出てきたものではなかった。
知らないから言っているというより、ずっと前から用意していた言葉を、ようやく取り出したように聞こえた。
「本当に知らないの?」
「本当に、詳しくは知らない」
母は部屋の隅に腰を下ろした。
「おじいちゃんは、昔の話をほとんどしなかったの。戦争の話も、若いころどこにいたのかも、あまり話してくれなかった」
「日本語は?」
母の指が、写真の角に触れた。
「たまに」
僕は息を呑んだ。
「たまに?」
「寝言みたいに口にしたことはあるわ。本当にまれに。少しお酒を飲んだ日とか、熱を出した日とか」
「何て言ってたの?」
「そんなの、私にわかるわけないでしょう。その頃は、それが日本語なのかどうかもはっきりわからなかった。ただ……韓国語ではない言葉だと思っただけ」
僕は幼いころのあの部屋を思い出した。
薬の匂い。
古い布団の匂い。
敷居の近くに座っていた僕。
そして祖父の最後の声。
「白い飯に、梅干しを……」
「おばあちゃんは?」
母の目が、わずかに揺れた。
「おばあちゃんは、知っていたのかな」
母は答えなかった。
ただ、写真から目を上げるまでに、少し時間がかかった。
「母さん」
「あなたのおばあちゃんは……」
母は言葉を選ぶように、ゆっくり口を開いた。
「おじいちゃんがそういう言葉を口にすると、不思議なくらい静かになったの」
「静かになった?」
「怒るわけでも、尋ねるわけでもないの。ただ口を閉ざすのよ。そして次の日には、何事もなかったみたいに食事を出していた」
「じゃあ、おばあちゃんは何か知っていたんだね」
「そうだったのかもしれないわね」
母は写真の中の女をもう一度見た。
「でも、私は尋ねなかった」
「どうして?」
「あの時代の人たちは……聞いたからといって、何でも話してくれる人たちじゃなかったから」
その言葉は、言い訳には聞こえなかった。
むしろ、あまりにも現実的な答えだった。
母にとっても、祖父の沈黙は、簡単に越えられるものではなかったのだろう。
それでも食卓は続き、祖母は次の日も同じようにご飯をよそったのだと思う。
「じゃあ、この写真の女の人は?」
「わからないわ」
「千代子って書いてある」
僕は写真の裏面を見せた。
鞆の浦にて
千代子と
昭和十八年秋
母はその文字を長く見つめてから、静かに言った。
「女の人の名前みたいね」
「うん」
「あなたのおじいちゃんが、ずっと持っていたの?」
「倉庫の木箱の中にあった。書類と軍服と一緒に」
「軍服も?」
「うん」
母の表情が少し強ばった。
母はそれ以上尋ねなかった。
僕も、それ以上は尋ねなかった。
しばらくのあいだ、部屋の中には虫の鳴く声だけが入ってきた。
母は写真を僕に返した。
「あなたが知りたいなら、調べなさい」
僕は母を見た。
その言葉は意外だった。
「調べてもいいの?」
「だめと言っても、もう見てしまったでしょう」
母はかすかに笑った。
けれど、その笑みは長く続かなかった。
「ただ、ひとつだけ覚えておいて」
「何を?」
「あなたのおばあちゃんを、あまり簡単にかわいそうな人にしないで」
僕は何も言えなかった。
母はゆっくり言葉を続けた。
「あの人も、自分の人生を生きたの。あなたのおじいちゃんの隣で。私たちの知らないことを知っていても、知らないふりをしながら」
その言葉は、写真の中の千代子よりも、僕がこれまで一度もきちんと考えたことのなかった祖母へ向けられていた。
僕は幼いころ、祭壇の横に置かれていた祖母の写真を思い出した。
ぼんやりとした顔。
きちんと撫でつけられた髪。
固く結ばれた唇。
表情のない目。
僕はその写真を、まともに見たことがなかった。
ただ祖母だと教えられたから、祖母だと思っていただけだった。
母が部屋を出ていったあとも、僕はしばらく動けなかった。
箱の中には、千代子と写った祖父の写真があった。
そしてアルバムの中には、僕がまともに見たことのなかった祖母の顔があった。
僕は箱の中の写真と、古いアルバムのほうを交互に見た。
祖父のことを調べているつもりだったのに、いつのまにか、見ないままにしてきた家の奥へ入り込んでいた。
◆◆◆
翌朝、僕は古い家族アルバムを取り出した。
本棚の一番下の段に差し込まれていたアルバムには、埃が積もっていた。
僕は床に座り、一枚ずつページをめくった。
一歳の誕生日の写真、小学校の入学式の写真、ぎこちなく背広を着た父の若いころの写真、前庭で撮った親戚たちの集合写真が順に出てきた。
そして古い法事の写真の片隅に、祖母の遺影が小さく写っていた。
僕はその部分を拡大してみた。
やはり違っていた。
千代子とは、まるで違う。
けれど不思議なことに、二枚の写真を並べると、どちらも祖父の沈黙の中に閉じこめられているように見えた。
ひとりは、ぼやけた海の前に立っていた。
ひとりは、祭壇のそばの小さな額の中に残っていた。
僕は二枚の写真を、長いあいだ見つめた。
祖父は、何を懐かしんでいたのだろう。
千代子という人だったのか。
祖母にも言えなかった時間だったのか。
それとも、ふたりのどちらにも最後まで渡せなかった言葉だったのか。
答えはなかった。
僕はもう一度スマートフォンを開いた。
検索窓には、昨夜の痕跡が残っていた。
画面の中の鞆の浦と、写真の端に残った海を、何度も見比べた。
その場所へ行かないまま、この箱を閉じることはできない気がした。
祖父が若いころ、千代子とともに立っていた場所。
そして、生涯、家族には語らなかった海辺の町。
僕は会社の勤怠システムを開いた。
休暇申請のフォームが画面に表示された。
数日前まで、残っている有給休暇は、いつか休むためのただの数字にすぎなかった。
けれど今は違った。
僕は理由欄に指を置いた。
少し迷ってから、短く書いた。
家族関係の整理。
嘘ではなかった。
僕は申請ボタンを押した。
それから写真を新しい封筒に入れた。
その上に、小さな字で書いた。
鞆の浦。




