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第86話 母が知っていた名前

僕はしばらく、ノートパソコンの画面を見つめていた。


そのとき、カフェの店主が小さなグラスを二つ持って、僕たちの席へ近づいてきた。


「失礼します。もしよろしければ、今試作しているメニューを少し味見していただけませんか」


「新しいメニューですか」


美咲さんがグラスを見ながら尋ねた。


グラスの中には、淡い茶色のラテが入っていた。上にはキャラメルソースが細くかかっていた。


仙酔島せんすいじまの塩を使った塩キャラメルラテです。まだメニューには載せていないんですが、お二人のご意見を聞いてみたくて」


「ありがとうございます」


僕はグラスを持ち、一口飲んだ。


最初は牛乳とキャラメルの甘みが感じられた。少ししてから、ごく弱い塩気が舌先に残った。


「塩が入っているのに、あまりしょっぱくはないですね」


「あまり多く入れると、コーヒーの味が消えてしまいますから。甘みが強くなりすぎないように、ほんの少しだけ入れています」


美咲さんもラテを味わった。


「後味がいいですね。キャラメルだけのときより、甘すぎない感じがします」


「そうですか」


店主がうれしそうにうなずいた。


そのとき、美咲さんが鞄の中を探し、小さな袋を取り出した。


前に海辺で一緒に食べた、瀬戸田レモンのお菓子だった。


「すみませんが、このお菓子をここでいただいても大丈夫でしょうか」


「もちろんです」


「ありがとうございます。よろしければ、おひとついかがですか」


「私もですか」


店主は菓子の包みを受け取り、笑った。


「私もこれ、好きなんです。瀬戸田レモンを使ったお菓子はいろいろありますけど、これはレモンの香りが強すぎなくていいですね」


その言葉を聞いて、僕も包みを開けた。


柔らかい菓子の中から、甘いレモンの香りがした。


美咲さんが、改めて周囲を見回した。


「前から古い民家の感じが残っているとは思っていましたけど、このカフェは奥が思ったより深いんですね」


入口から見たときより、建物の中が長く続いていた。


天井には古い木の梁がそのまま残っていて、壁の一部には修繕の跡が見えた。


「もともとカフェだったわけではありません」


「昔はどんな建物だったんですか」


「かなり大きな日本家屋だったと聞いています」


僕は天井を見上げた。


「建物を直したんですか」


「はい。今カフェとして使っているところは、昔の建物の一部です。もともとは部屋も多くて、奥へもっと広く続いていたそうです」


「今はかなり変わったんですね」


「年月を経るうちに建物がいくつかに分かれたり、何度も直されたりしたそうです。それでも天井の梁と奥の壁の一部は、昔のまま残っています」


店主が指したほうを見ると、カフェの奥の壁のそばに、別の空間へ続いていたように見える木の柱があった。


「では、お二人でごゆっくり」


店主が席を離れた瞬間、美咲さんの携帯電話が鳴った。


美咲さんは画面を確認してから、少し体を横へ向けて電話に出た。


「はい。今カフェです」


短い通話が続いた。


電話を切った美咲さんが、申し訳なさそうな顔をした。


「ハルさん、すみません。私、先に失礼しないといけないみたいです」


「何かあったんですか」


「ちょっと家に寄らないといけなくなって。大したことではないんです」


「それなら、早く行ったほうがいいですよ」


「今日はもうお手伝いできませんね」


「十分手伝っていただきました。僕も残りの資料だけ整理して戻ろうと思っていました」


美咲さんは席を立ち、鞄を持った。


「では、明日連絡しますね」


「はい。気をつけて」


美咲さんがカフェを出ていった。


僕はノートパソコンの画面へ視線を戻した。


けれど美咲さんが出ていくと、もうここで作業を続ける気になれなかった。


僕は店主に挨拶をして、カフェを出た。


店主が妙な目で僕を見ていた。


僕と美咲さんが何をしているのか、どうしてずっとここにいるのか、気になっているようだった。


デートだとしたら、かなり変わったデートだと思うだろうか。


むしろ、仕事仲間のように見えたかもしれない。


そのとき、空腹を感じた。


朝からコーヒーとラテ、菓子しか口にしていなかったせいか、今さら腹が減ってきた。


宿へ戻る道で、コンビニが見えた。


僕はコンビニの中へ入り、おむすびの棚の前に立った。


鮭、ツナマヨネーズ、明太子入りのおむすびが順に並んでいた。


そのあいだに、塩むすびが見えた。


以前、祖父が食べていた塩むすびのことを思い出して、この商品を買ったことがあった。


今回もそれを手に取った。


次は飲み物だった。


棚に並んだレモンティーの中で、「瀬戸内レモン使用」という文字が目に入った。


これがいい。


僕はレモンティーも一緒にレジへ持っていった。


宿に戻ってから、祖父が食べていた塩むすびを思い浮かべながら包みを開けた。


おむすびを食べ終えたあと、レモンティーを数口飲んだ。


意外と組み合わせは悪くなかった。


腹が満たされると、ようやく頭がまた働き始めた。


母に連絡しておこう。


僕はスマートフォンを手に取り、電話をかけた。


数回呼び出し音が鳴ったあと、母が電話に出た。


「ハル?」


「はい、母さん。今、電話しても大丈夫ですか」


「大丈夫よ。今日も資料を見たの?」


「はい。送ってくれたスキャンのおかげで、資料をひととおり見ることができました」


「そう」


母は、僕が日本にいるあいだ食事はちゃんとしているのか、不便なことはないのかと尋ねた。


僕は、特に問題はないと答えた。


「日本で食べられる特別なものも、ずっと選んで食べています。こういうのが旅行の醍醐味ですよね」


僕は目の前に置いたレモンティーを写真に撮り、母に送った。


そのとき、ふと思い浮かんだことがあった。


「ところで、母さん」


「うん?」


「祖父の知り合いで、朴相吉という名前、聞いたことありますか」


「朴相吉……」


母がその名前をゆっくり繰り返した。


「朴相吉……」


電話の向こうが、しばらく静かになった。


「あ」


少しして、母が言った。


「それ、あなたのおばあちゃんのお父さんの名前よ」


「おばあちゃんのお父さんですか?」


「うん。あなたからすると……ひいおじいさんになるのかしら?」


母は少し考えてから、言葉を続けた。


「とにかく、その方のお名前が朴相吉よ。ところで、あなたはその名前をどうして知っているの?」


僕はすぐには答えられなかった。


祖父の手帳と帳簿に、何度も登場した朴相吉。


僕にとって朴相吉という名前は、祖父と長く取引していた朝鮮人の仲介人を指すだけのものだった。


けれど、その名前は僕自身にもつながっていた。


祖父は、朴相吉の娘と結婚した。


朴相吉は、僕の曽祖父だった。

第三部「別の名前で呼ばれた男」は、ここまでです。


佐伯春雄と金春雄。二つの名前を追った第三部の最後に、朴相吉もまた、ハルの中で「仲介人」から「曽祖父」へと呼び名が変わりました。


第三部では、朝鮮戦争や満洲国をめぐる歴史的背景を扱いました。史実を参考にしつつ、登場人物の視点や解釈には、物語としての創作が含まれています。


次回から第四部が始まります。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


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