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第85話 鉄条網の中の社会

翌朝九時。


僕は美咲さんと約束したカフェに入った。


美咲さんは先に来ていた。


「おはようございます、ハルさん」


「おはようございます」


僕は向かいの席に座るなり、ノートパソコンを開き、昨日整理しておいた内容を表示した。


「祖父が捕虜収容所補給廠へ移ったあと、そこで過ごした一日が書かれていました」


「どんな一日だったんですか」


「朝から補給品を収容棟へ運んでいたようです。祖父が物資を持っていくと、捕虜代表がもう一度確認していました」


「捕虜代表がいたんですね」


「はい。それだけでなく、煙草を貨幣のように使っていたという内容もありました」


そのとき、注文したコーヒーが出てきた。


僕はカップを脇へ寄せ、検索窓を開いた。


巨済島捕虜収容所。捕虜の自治。収容棟の管理。


関連する資料が画面に現れた。


美咲さんが画面を見ながら尋ねた。


「巨済島はどこにある島なんですか」


僕は地図画面を開き、位置を拡大した。


巨済島コジェドは韓国の南海岸にあります。釜山の南西に位置する大きな島です」


「大きさはどのくらいですか」


僕は巨済島と規模が近い日本の島を検索した。


「巨済市全体の面積は約四百平方キロメートルです。瀬戸内海の東側にある淡路島が約六百平方キロメートルなので、大体その三分の二ほどと見ればよさそうです」


「思ったより広いところなんですね」


地図を見てみると、巨済島捕虜収容所の規模を少し想像しやすくなった。


「当時、捕虜がとても多かったそうです」


「どれくらい多かったんですか」


「最初から一度に集まったわけではありませんが、のちには巨済島に設置された収容所区域全体に、十万人をはるかに超える捕虜が収容されたと書かれています」


美咲さんが画面をのぞき込んだ。


「一つの収容所に、そんなに多くの人がいたんですか」


「一つの柵の中に全員が集められていたわけではありません。巨済島の各地に、複数の収容棟や収容地区が設けられた大規模な収容所だったようです」


「その規模なら、いくつもの区域に分けるしかなかったでしょうね」


「管理する兵士もだんだん増えましたが、捕虜の数と比べると足りませんでした。だから捕虜たちの中から代表を選んだようです。その代表たちを通して、収容棟を管理していたんですね」


「捕虜が捕虜たちを管理したんですか」


「そう見ることもできると思います。そして収容棟の中には、放送班や新聞班もあったそうです」


「新聞も作っていたんですか」


僕は資料の中にある写真を拡大した。


「ここにあります」


収容棟の中で作られた新聞の写真だった。


公演を知らせる記事や、捕虜たちが書いた文章が載っていた。


「本当に新聞ですね」


「公演や運動もしていましたし、必要な物を自分たちで作ることもあったそうです」


美咲さんが画面を見ながら言った。


「鉄条網の中に、町が一つあったみたいですね」


「僕も昨日の記録を読んでいて、似たように思いました」


僕は昨日まだ整理しきれていなかった手帳の写真を、もう一度開いた。


「祖父の記録には、こんな内容もありました」


僕は画面にある文を読んだ。


「石鹸二箱が来なかった。


担当者は次回送ると言った。


今日は石鹸を配給すると、すでに知らせてある。配給できなければ、捕虜たちが騒ぎを起こす。


私はそう言ったが、通じなかった。


急いで別の倉庫から二箱を持ってきた。


幸い、約束を守ることができた。」


美咲さんが尋ねた。


「佐伯さんは、何とかして石鹸を手に入れようとしたんですね。石鹸がないと捕虜たちが困るとわかっていたからでしょうか」


僕は少し考えた。


「捕虜たちを気にかける気持ちもあったかもしれません。でも、それだけではなかったと思います」


「ほかの理由もあったんですか」


「約束した補給品が来なければ、当然捕虜たちは抗議するでしょうし、その過程で補給兵たちが危険になることもあります」


「そうでしょうね」


「それに祖父は、約束を破ることを嫌っていたようです。捕虜代表に石鹸を配給すると言ってあったので、何とかそれを守ろうとしたのかもしれません」


僕は検索結果をもう少し下へスクロールした。


初期の捕虜収容所では、物資と配給をめぐる不満がよく起きていた。


すると、目に留まる部分があった。


「しばらくのあいだ、捕虜たちが警備兵よりもよい配給を受けていた場合もあったそうです。祖父の手帳にあった内容とも関係があるのかもしれません」


美咲さんの目が少し大きくなった。


「捕虜のほうが、よい配給を受けていたんですか」


「捕虜には国際法の基準に合わせて食糧を支給しなければなりませんでしたが、韓国軍の補給は安定していなかった可能性もあります。特に前線と比べれば、後方の捕虜収容所を警備する兵士たちは、補給の優先順位が低かったのかもしれません」


「そうだったのかもしれませんね」


僕は捕虜収容所に関する別の資料を開いた。


水不足と衛生問題についての内容もあった。


大勢の人間が一つの場所に集まって暮らしていたため、食糧と同じくらい水と便所が重要だった。


水がきちんと供給されなければ炊事や洗濯に問題が起きたし、便所とごみの処理がうまくいかなければ病気が広がる可能性があった。


「収容所を維持するには、思ったよりさまざまなことに気を配らなければならなかったんですね」


「そうですね。捕虜を管理するには、食糧だけでなく、水と便所、ごみの処理も必要ですから。ですが、こういうことが原因で衝突が起きることもありました」


「どんな衝突があったんですか」


僕は検索結果をさらに下へたどった。


「北朝鮮軍の将校捕虜たちが、便所用の穴とごみ捨て穴を掘れという指示を拒否したことがありました」


作業指示を拒否して抗議すると、警備兵たちが収容棟の中へ入り、捕虜たちが警備兵に向かって石を投げた。


結局、発砲があり、捕虜三人が命を落とした。


美咲さんの表情が暗くなった。


「トイレの穴を掘らせることが、そこまで大きなことになったんですか」


「外から見れば単純な作業のように見えるかもしれませんが、思ったより複雑な問題だったようです」


僕は軍隊にいたころを思い出した。


「将校は、単に兵士より階級が高い人というだけではありません。命令を出し、部隊を指揮し、その結果に責任を負う人です」


美咲さんは僕の言葉を注意深く聞いていた。


「だからジュネーヴ条約でも、将校捕虜は階級と年齢に合った待遇を受けるよう定めています。将校に労働を強制することもできません」


美咲さんがまた画面を見た。


「それなら、将校捕虜たちにとって、便所の穴を掘れという言葉は、単なる作業指示には聞こえなかったでしょうね」


「はい。彼らにとっては、受け入れがたい要求だったのかもしれません」


僕はコーヒーを一口飲んだ。


「ですが、管理する兵士たちの立場では、誰かが必ずしなければならない仕事だったはずです」


「そうですね」


将校捕虜にとっては、階級と権利の問題だった。


だが収容所を管理する兵士たちにとっては、衛生と秩序の問題だった。


どちらにも、それぞれの理由があった。


ただ、双方の主張を調整する人や手続きが足りなかった。


美咲さんが言った。


「映画では、普通、脱出や反乱のような大きな事件ばかり出てくるじゃないですか」


「はい」


「でも実際に捕虜収容所にいた人たちにとっては、石鹸が届かないことや、便所を誰が掘るのかのほうが、もっと身近な問題だったのでしょうね」


「そうだったと思います」


しばらくコーヒーを飲んだあと、僕は手帳の次の内容を確認した。


「石を投げる捕虜がいた。


警備兵たちが走っていった。


石には紙が結びつけられていた。


別の収容棟へ送る伝言だった。」


美咲さんはその内容を聞いて、控えめに笑った。


「手紙を石に結びつけて送ったんですか」


「風に飛ばされず、正確に送るためだったのでしょうね」


「投げ損ねて人に当たったら、喧嘩が始まることもありそうですけど」


「実際に警備兵たちは、最初、攻撃だと思ったようです」


鉄条網は、捕虜たちを分けていた。


けれど彼らは、会話を交わす方法を見つけ出していた。


「本当に、捕虜収容所はそれ自体が一つの社会だったんですね。そこまで自分たちで回っていたのなら、大きな問題なく維持されることもあったのではないですか」


僕は、前に調べた事件を思い出した。


「ですが、そう遠くないうちに、捕虜収容所は大きな混乱に陥ることになります」


「何が原因だったんですか」


「後のことではありますが、休戦会談が始まったあと、捕虜をどう送還するかが最大の争点の一つになります」


「捕虜を送り返す方法ですか」


「はい。北朝鮮軍・中共軍側は、捕虜をもともと所属していた側へ全員送り返すべきだと主張しました。これに対して国連軍側は、送還を拒む捕虜まで強制的に送ることはできないとしました」


美咲さんが尋ねた。


「国際法では、どう定められていたんですか」


「大学で法学を専攻していたとき、国際法の授業でこの問題をもう少し詳しく学びました」


僕は画面に表示された内容をもう一度確認した。


「ジュネーヴ条約には、敵対行為が終われば、捕虜を遅滞なく釈放し、送還しなければならないと定められていました。だから共産軍側には、全員を送還することが条約に合っていると主張する根拠がありました」


「それなら、国連軍側の主張は条約に反していたんですか」


「そう単純ではありませんでした。条約には、捕虜本人が送還を拒否した場合にどうすべきかが、はっきり定められていなかったからです」


画面をもう少し下へ動かした。


「北朝鮮や中共へ送還されれば、処罰されるかもしれないと恐れる捕虜たちがいました。国連軍側は、そうした人たちを強制的に送り返してはならないと主張しました」


「韓国政府は、国連軍と同じ立場だったんですか」


韓国政府の立場は、休戦問題まで絡んでいて、もう少し複雑だった。


けれどそこまで説明すると、話が長くなりすぎる気がした。


僕は今必要な部分だけを話すことにした。


「北へ帰ることを拒む捕虜は、南に残すべきだという立場でした」


北へ帰るのか。


南に残るのか。


一人の捕虜の前には、二つの行き先があった。


佐伯春雄。


金春雄。


祖父の前には、二つの名前があった。


一人の人間がどこに属するかを、誰が決めるのだろうか。


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