第84話 佐伯春雄の一日
祖父の記録は、いつもより長かった。
その日に見た人々や収容棟の様子も残っていて、祖父の心の中までわかるようで、一編の随筆を読んでいるようだった。
その文を追っていくと、祖父が捕虜収容所で過ごした一日が、頭の中に浮かんできた。
◆◆◆
目を覚ましたとき、まだ暗かった。
前線から遠く離れたところまで来ていたが、軍隊の朝は変わらなかった。
寒くても起きなければならず、疲れていても起きなければならなかった。
起床ラッパの音とともに、私は軍靴を履いて外へ出た。
海のほうから吹いてくる風が冷たかった。
補給廠の前には、トラックが止まっていた。
荷台には、米袋と木箱がぎっしり積まれていた。
今日運ばなければならない物資の一覧を受け取った。
私は手早く項目を確認した。
「はあ、またか……」
そのとき、向こう側の兵士が不満そうにこぼした。
よりによって検収を担当するのが私だったので、嫌そうな顔をしていた。
だが私は気にせず、米袋を数え始めた。
途中まで数えたところで、誰かが話しかけてきた。
私はまた最初から数えた。
帳簿より一袋足りなかった。
もう一度数えた。
それでも足りなかった。
「一袋足りません」
「それで?」
彼は不機嫌そうに言った。
「足りません」
「寒いんですから、お互い苦労せずに済ませましょう。倉庫の鼠に食われてなくなったことにして処理すればいいじゃないですか」
そう言いながら、彼は私に煙草を一箱押しつけようとした。
「そういうものは受け取りません」
そう言って、私はトラックの上へ上がった。
隅に箱が一つ見えた。
私がそれを押すと、その後ろに袋が一つあった。
「そこにあったみたいですね」
私に煙草を渡そうとした兵士が、調子よく言った。
「これも下ろしてください」
彼は顔をしかめながら、その袋も下ろした。
ようやく帳簿の数字と実際の数が合った。
兵士はトラックに乗り込み、一人で悪態をつきながら去っていった。
私は倉庫へ入った。
同じ物資でも、行き先によって別に分けた。
北朝鮮軍捕虜へ行くもの。
中共軍捕虜へ行くもの。
将校たちのいる収容棟へ送るもの。
「これは収容棟別に積み直せ」
上等兵である私は、ここでは二等兵や一等兵に指示を出す立場だった。
彼らは物資を収容棟別に積み直した。
すべてを確認してから、私は倉庫の扉に鍵をかけた。
鍵は首に掛けておいた。私がいないあいだに、誰かに物資を抜き取られないようにするためだった。
これで、明け方の仕事は終わった。
私は朝食を取ったあと、物資を運ぶために動き始めた。
「出発します」
三台のトラックに物資を積み、収容棟へ出発した。
私はいちばん後ろのトラックに乗っていた。
遠くに鉄条網が見えた。
近づくほど、鉄条網は多くなった。
鉄条網を一つ過ぎると、また別の鉄条網が出てきた。
その後ろにも、鉄条網があった。
収容棟が見えた。
収容棟ごとに番号がついていた。
「止まれ!」
警備兵が手を上げた。
車両が速度を落とした。
そのあいだにも私は、トラックから物資が落ちていないか、誰かが車両によじ登って盗んでいないかを確認した。
車両が速度を落とすときが、危ない瞬間だった。
「通過!」
車両が中へ入ると、捕虜たちが鉄条網の向こうからこちらを見た。
落ちくぼんだ目、痩せた体。
彼らは、私が持ってきた物資を見ていた。
収容棟の中から、捕虜が数人出てきた。
一人は紙と鉛筆を持っていた。
捕虜代表だった。
米袋を下ろすたびに、彼が数を記録した。
「袋が一つ足りないが?」
その声は低く沈んでいた。
一緒にいた兵士が、銃を持つ手に力を込めるのがわかった。
「少し待て。確認する」
私はそう言って、トラックの上へ上がった。
雑穀の袋を持ち上げると、その下に米袋が一つ敷かれていた。
私はそれを取り出して下ろした。
捕虜代表は米袋を確認してから、紙に印をつけた。
「確かに受け取った」
米の次には雑穀を下ろし、靴と石鹸も渡した。
靴を受け取った捕虜たちは、まず靴底を押してみて、サイズを確認した。
足に合わない靴を受け取った者たちは、周囲を回りながら互いに交換した。
最後まで合う靴を見つけられなかった捕虜は、靴の中に布を入れた。
大きな靴ならああして履けるが、小さい靴を受け取ったら、そのときはどうするのだろうと思った。
だが、そこまでは私にどうにかできることではなかった。
石鹸を受け取った者たちが目に入った。
ある者は、受け取るなり服の中へ入れた。
石鹸を持ち上げ、鼻を近づけて匂いを嗅ぐ者もいた。
「石鹸がだいぶ足りません」
「上に言ってみます」
私は捕虜代表の言葉に、そう答えた。
物資を受け取った捕虜たちが、米と雑穀を収容棟の奥へ運んでいくのが見えた。
中では、大釜に火を起こしていた。
捕虜たちが自分たちで飯を炊いていた。
米と雑穀の炊ける匂いが、鉄条網の外まで広がった。
「次の収容棟へ行きましょう」
車両に乗って移動した。
次は、中共軍捕虜たちがいる収容棟だった。
彼らは、私には聞き取れない言葉で互いに話していた。
何を言っているのかはわからなかったが、彼らとは漢字を使って筆談することができた。
中共軍捕虜の代表も、帳簿を持っていた。
数字が合うと、紙に印をつけた。
続いて、将校たちがいる収容棟へ移動した。
私が乗ってきた三台目のトラックに積まれていた物資を、彼らに渡した。
将校たちには配給表が別にあった。
一般兵出身の捕虜より、少し多く配給された。
配給を終えて車両に乗ると、運転兵が言った。
「ここでは、煙草が金みたいに使われるそうです。知っていましたか?」
「そうなのか?」
煙草を使って、手袋のような物や追加の食糧を得るらしい。
そのとき、向こう側で捕虜たちがボールを蹴っているのが見えた。
反対側では捕虜たちが洗濯をしていて、誰かは服を干していた。
「あれは散髪をしているのか?」
「そのようです」
散髪をしている男の隣では、別の男が靴を修理していた。
「散髪代や靴の修理代も、煙草で払うのだろうか?」
「そうかもしれません」
また車両に乗り、昼ごろに補給廠へ戻った。
飯が出た。
冷えた飯と汁だった。
汁の上には、薄い油が少し浮いていた。
おかずは、野菜以外にはなかった。
「捕虜たちのほうが、私たちよりよく食べているんじゃないですか?」
一緒に来ていた一等兵が不満を漏らした。
「これ、誰かが食費をくすねているに決まってますよ」
「前線よりはましだろ。お前、前線へ行きたいのか?」
向かい側の別の一等兵がそう言うと、彼はすぐに口を閉じた。
「しっかり食べておけ。午後にもまた移動しなければならないからな」
私の言葉に、皆は特に何も言わず飯を食べ始めた。
そうして食事を終えたあと、また車両に物資を積んだ。
追加の物資移送が予定されていた。
再び車両で移動した。
トラックから物資を下ろす前に、収容棟の中で大きな声がした。
捕虜二人が、互いに押し合っているのが見えた。
「喧嘩が起きたみたいですね」
「煙草のせいか?」
私たち補給兵は、鉄条網の向こうからその様子を見ていた。
けれど彼らの叫ぶ言葉を聞くと、煙草のせいではなかった。
「南側の宣伝にだまされてはいけない!」
すると、別の男が叫んだ。
「お前こそ、北で聞いた話にだまされているんだ!」
「裏切り者」
「誰が裏切り者だ?」
彼らが争うのを見ていると、隣で誰かが言った。
「北朝鮮軍の捕虜たちは、今、二派に分かれているそうです」
そのとき、周囲の捕虜たちが二人を引き離した。
警備兵たちが鉄条網の前へ走ってくると、騒ぎは少しずつ収まっていった。
一方の集団は、収容棟の左側へ下がった。
もう一方は、右側に集まった。
彼らは遠く離れてからも、互いをにらんでいた。
「そろそろ運びましょう」
「そうだな」
私は物資を補給するために動いた。
さっきの騒ぎのせいか、警備兵が増員され、銃を持ったまま私たちの近くに立っていた。
幸い、大きな問題もなく補給を終えることができた。
すべての作業を終えるころには、いつの間にか夕方が近づいていた。
笛の音が聞こえた。
捕虜たちが収容棟の外へ出て、列を作るのが見えた。
人数を確認しているのだった。
警備兵だけでなく、捕虜代表も人数を確認した。
数が合うと、人々はまた動いて収容棟の中へ入っていった。
私は車両に乗って戻ろうとした。
そのとき、収容棟の中から歌が聞こえてきた。
伴奏もなかったが、声は収容棟の天幕と鉄条網を越え、遠くまで届いた。
どこかで聞いたことのある曲だった。
『オー・ソレ・ミオ』。
私は運転兵に尋ねた。
「あの歌は、誰が歌っているんだ?」
「捕虜の中に、日本で声楽を学んでいた人がいると聞きました」
「日本で?」
「はい。時々、夕方にああして歌うんです」
「止めないのか?」
「騒ぎを起こしているわけでもありませんし、聞いていて悪くないじゃないですか。警備兵たちも、あの人が歌っているあいだは静かに聞いています。捕虜たちも同じです」
鉄条網の中にいる人の顔は見えなかった。
名前もわからなかった。
戦争が起きていなければ、彼はどこかの舞台で歌っていたのかもしれない。
「今日は運がいいですね。では出発します」
車両が収容所の外へ出た。
補給廠に着いたあと、私は倉庫の中の物資をもう一度確認した。
幸いだった。
すべての物資が、そのまま残っていた。
宿舎へ戻り、野戦寝台に体を横たえた。
目を閉じた。
そのとき、運転兵が言っていた言葉が浮かんだ。
今日は運のいい日だと言っていた。
物資が足りなくなることもなく、捕虜たちとの争いに巻き込まれることもなかった。
補給を終えたあとには、『オー・ソレ・ミオ』まで聞いた。
私も今日は、悪くない一日だったと思った。
次も、今日のように運のいい日ならいい。




