第83話 チョウンゲ、チョウンゴダ
「今はスマートフォンで見ているので、これ以上詳しく確認するのは難しそうですね」
画面が小さく、見づらかった。
続くファイルを、ずっとこのまま見るわけにはいかなかった。
「宿に戻って、先に確認してみます。僕が確認した内容があれば、整理してお伝えします。それで、明日の朝、カフェでまた一緒に見ましょうか」
美咲さんがうなずいた。
「はい。私もそのほうがいいと思います」
僕たちは席を立ち、車に乗って宿へ向かった。
車の中は静かだった。
僕は窓の外を流れていく街を見ていた。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
画面に、見慣れた名前が出ていた。
イ・ジフンチーム長。
休暇に入ってからも、僕をずっと探していると同僚から聞いていた。
けれど、直接電話をかけてきたのは初めてだった。
「美咲さん、すみません。会社からの電話なので、少し出てもいいですか」
「もちろんです」
僕は通話ボタンを押した。
「はい。キム・ハルです」
―今、電話できるか?
「運転中ではありません。どうぞ」
―急ぎの件が一つできた。宿にWi-Fiはあるよな? スマホで会社のアプリにログインできるだろ?
会社の業務用アプリは、スマートフォンにも入っていた。
登録された端末で本人認証を通せば、会社のアカウントにアクセスできた。
「何の件ですか」
―法人カードの利用明細が一件、財務チームで差し戻された。
「どの利用分ですか」
―担当役員が外部の人たちと会ったときに使った費用だ。ホテルのラウンジで決済したものなんだが、使用目的と参加者がきちんと入っていないから、申請を上げ直せと言われた。
「うちのチームに関係する費用ですか」
電話の向こうで、短い沈黙が流れた。
―お前が担当しているプロジェクトの対外協力費として処理すればいい。
「その日、うちのプロジェクトに関する社外関係者との会議はありませんでした」
―外部の人たちに会ったのは事実だ。ほかは全部処理してある。
「どう処理されたという意味ですか」
―プロジェクトコードを変えて、残っていた出張費の一部を会議費に回しておいた。お前が会社のアカウントにアクセスして、承認だけすればいい。数字はもう合わせてあるから。
僕はできるだけ穏やかに言った。
少なくとも、僕の基準ではそうだった。
「そういう処理は困ります」
―何が困るんだ?
「実際の使用目的と違う費用を、僕のプロジェクト予算に計上するのは、正しい会計処理ではありません」
―ハル。そんな大げさな話じゃない。
「プロジェクトと関係のない法人カードの利用明細を、プロジェクト費用に入れるということです」
―役員が外部の人に会ったのは事実だ。項目だけ変えるんだよ。
イ・ジフンチーム長は、最後まで誰に会ったのかを言わなかった。
ホテルのラウンジ。遅い時間の決済。
参加者も、業務目的もはっきりしない費用。
それを、僕が担当しているプロジェクトの対外協力費に入れようとしていた。
担当役員が個人的に使った酒代なのか、実際の接待費なのかは、今の時点ではわからなかった。
けれど少なくとも、チームのプロジェクトと関係のない費用であることは明らかだった。
―もともと全部こうやって処理してきたんだ。今までは何の問題もなかったのに、今回急に規定が変わって引っかかっただけだ。
規定が急に変わったのではなかった。
ようやく誰かが確認し始めたか、以前のようには隠せなくなっただけだった。
そして、今まで問題がなかったわけでもなかった。
ただ、見えないようにしていただけだった。
「承認できません」
―これは俺だけの問題じゃない。担当役員まで困ることになる。
「それでも、実際と違う形で処理することはできません」
―ほかの人たちはみんなやっていることだ。お前が承認すれば終わるんだよ。
「僕は今、休暇中です」
―お前、あとで自分が責任を取らされると思ってそうしているのか?
「そういう問題ではありません」
―心配するな。お前に責任を取らせることはない。俺が全部話を通しておく。
僕は少し息を吸ってから、はっきりした声で言った。
「たとえ今会社にいたとしても、承認するつもりはありません」
電話の向こうで、イ・ジフンチーム長の声が低くなった。
―チョウンゲ、チョウンゴダ。
その瞬間、祖父の手帳の内容が浮かんだ。
―お前、本当にいつまでもそういう態度でいると、会社でやっていくのが難しくなるぞ。
僕はスマートフォンを、少し耳から離した。
「僕は、チョウンゲ、チョウンゴダという言葉で、間違った処理をそのまま通すつもりはありません」
―ハル。
「これ以上申し上げることはありません。失礼します」
僕は返事を待たずに通話を切った。
車の中が、また静かになった。
美咲さんはしばらく何も言わなかった。
それから、慎重に口を開いた。
「あの……」
「はい」
「さっきの電話で、チョウンゲ、チョウンゴダ……とおっしゃっていたように聞こえたんですけど……」
韓国語で交わした会話だったので、彼女には内容はわからなかったはずだ。
けれど、以前僕が手帳を読みながら聞かせたその表現の音は、覚えていたらしい。
「はい。そうです」
「何か、問題になることがあったんですか」
「担当役員が使った法人カードの費用を、僕が担当しているプロジェクト費用に変えて承認してほしい、という話でした」
「実際には、そのプロジェクトに使ったお金ではないのに、ですか」
「はい」
美咲さんは少し驚いた表情で僕を見てから、また前を向いた。
「それで断ったんですね」
「祖父がその言葉に従わなかったように、僕も従うつもりはありません」
「そうですね」
美咲さんは、とても小さくうなずいた。
僕は少し考えてから、付け加えた。
「ただ、韓国でチョウンゲ、チョウンゴダという言葉が、いつも悪い意味で使われるわけではありません」
「そうなんですか」
「大したことではないなら、お互い少し譲って、争わずに穏やかに済ませようという意味で、普通に使うこともあります」
「でも、さっきはそういう意味ではなかったんですね」
「はい。間違ったことを知っていながら、知らないふりをしろという意味でしたから」
僕が嫌いなのは、その言葉そのものではなかった。
その言葉で求められる沈黙だった。
しばらくして、車が宿の前に止まった。
「明日の朝九時で大丈夫ですか」
僕が尋ねた。
「はい。いつものカフェで会いましょう」
「わかりました。今日も送ってくださってありがとうございます」
僕が車を降りようとすると、美咲さんが言った。
「ハルさん」
「はい?」
「ノートパソコンで確認しても、あまり遅くまで見ないでくださいね」
「努力してみます」
「努力だけになりそうですね」
美咲さんが少し笑った。
僕もつられて笑い、車を降りた。
宿の部屋に戻った僕は、ノートパソコンを立ち上げた。
母が送ってくれた写真をダウンロードした。
捕虜収容所での補給兵生活。
祖父はそこで、どんなことを経験したのだろうか。
僕はゆっくりと手帳の内容を確認し始めた。
今回の記録は、これまでのものより長かった。
その日に運んだ物資の種類と、収容棟で見た人々の姿が、いつもより詳しく書かれていた。
僕は最初の部分を読んだ。
「一九五一年二月。
捕虜収容所補給廠に着いた。
明日から、収容棟へ物資を運ぶ。
米と雑穀。靴と石鹸。煙草などだった。
煙草の包みには、自由、正義、世界平和と書かれていた。
鉄条網の中の捕虜に配る物だ。」
そのあとも、記録は続いていた。
祖父が捕虜収容所で過ごした一日が、手帳の中に残っていた。




