第80話 誰も気づかなかったわけではありません
食事を終えて、店の外へ出た。
腹はいっぱいだったが、すぐに鞆まで戻るには、まだ少し距離があった。
美咲さんが車のドアを開けかけて、僕を振り返った。
「お茶でも一杯飲んでいきますか」
「いいですね」
僕たちは車で少し移動した。
大きな道から少し外れたところに、小さな喫茶店があった。
店の前には、地域で作られた菓子と茶を販売しているという案内板が置かれていた。
扉を開けて中へ入ると、焙じた茶葉の香りがした。
美咲さんがメニューの一角を指した。
「世羅茶がありますね」
「世羅茶ですか」
「広島県の世羅というところで作られているお茶です。たくさん生産されているお茶ではありませんけど、この地域では時々見かけます」
メニューには、煎茶とほうじ茶が一緒に書かれていた。
僕はほうじ茶を選んだ。
美咲さんも同じものを注文した。
しばらくして、小さな急須と湯のみがテーブルの上に置かれた。
急須から湯のみに茶を注ぐと、淡い茶色の茶とともに、香ばしい香りが立ち上がった。
僕は湯のみを両手で包むように持った。
温かさが感じられた。
一口飲むと、焙じた香りが先に来て、そのあとには苦すぎないすっきりした味が残った。
「どうですか」
「思ったよりまろやかですね」
「食事のあとに飲むにはいいでしょう?」
「はい。口に残っていたソースの味も、少し和らぐ気がします」
美咲さんは湯のみを置きながら言った。
「ところで、気になっていることがあります」
「何ですか」
「当時の韓国では、戦争が起きるとはまったく思っていなかったんですか」
僕はすぐには答えなかった。
朝鮮戦争が六月二十五日の明け方に突然始まったことは知っていた。
けれど、その日以前に何もなかったわけではない。
「三十八度線の近くでは、戦争が起きる前から衝突が続いていました」
「衝突ですか」
「銃撃戦もありましたし、小さな部隊同士が戦うこともありました。南と北のどちらも、相手側の地域を攻撃したことがありました」
「それなら、戦争が起きる可能性も考えなかったのでしょうか」
「少し待ってください」
僕はスマートフォンを取り出した。
新しい検索窓を開いた。
一九五〇年六月。北朝鮮の平和攻勢。韓国軍の非常警戒態勢。
内容を確認してから答えた。
「北朝鮮軍の動きが尋常ではなかったので、韓国軍も警戒に入りました。ですが北朝鮮は、突然、平和統一を語り始めたんです」
「平和統一ですか」
「南北の政治家と社会団体の代表が会おうと提案しました。朝鮮半島全体で選挙を行い、ソウルで統一された議会を開くという具体的な計画も出していました」
美咲さんが少し目を大きくした。
「戦争を準備しながら、そんな提案をしたということですか」
「僕が確認した内容では、そうです」
僕はスマートフォンの画面を、美咲さんのほうへ少し向けた。
そして日本語翻訳機能を使い、彼女が読めるようにした。
「選挙を行う日付と、統一議会を開く日付まで示していました。表面上は、戦争を始めようとしている側の言葉には聞こえなかったはずです」
「対話をしようと言いながら、実際には軍隊を動かしていたんですね」
「はい。そのころ北朝鮮軍の戦闘部隊は、すでに三十八度線付近へ移動していました」
美咲さんはしばらく、湯のみの中のお茶を見つめていた。
「韓国軍は、ずっと警戒していたんですか」
「そうではありませんでした」
僕は画面を少し下へ送った。
「六月二十三日、韓国軍の非常警戒態勢が解除されました」
「六月二十三日というと……」
「戦争が始まる二日前です」
美咲さんが湯のみを持ったまま、動きを止めた。
「北朝鮮の平和提案ひとつで警戒が解除されたと、断定することはできません。警戒が長く続いて疲労がたまっていた可能性もありますし、ほかの事情や判断もあったのでしょう」
僕は日付の表示された画面を見た。
六月二十三日。
そして六月二十五日。
よりによって南への全面侵攻を前に、韓国軍の警戒が解かれた。
「北朝鮮の平和攻勢が、緊張を緩める一因になった可能性はあります」
僕は少し考えてから付け加えた。
「僕が兵役に就いていた時に受けた精神教育でも、韓国でいう六・二五戦争直前の平和攻勢を例に挙げながら、北朝鮮の平和提案を警戒すべきだと教わりました」
美咲さんが静かに言った。
「それなら、当時の普通の人たちは戦争を予想しにくかったでしょうね」
「そうですね。戦争が起きる一週間前にも、全国規模の野球大会の決勝戦が開かれたそうです」
「韓国でも、当時から野球が好きだったんですね」
「はい。人々は戦争が始まるとは知らずに、昨日と変わらない一日を過ごしていたわけです。祖父も同じだったのでしょう」
僕はほうじ茶を一口飲んだ。
「でも、誰も気づかなかったわけではありません」
美咲さんが僕を見た。
「気づいた人がいたんですか」
「韓国軍の中には、北朝鮮軍の動きを調べていた部署がありました。陸軍本部情報局というところです」
「情報機関のようなところですか。日本の内閣情報調査室みたいな?」
「完全に同じではありません。当時、軍の内部で北朝鮮軍の動きを収集し、分析していた部署です。身近な組織にたとえるなら、日本の内閣情報調査室やアメリカのCIA、旧ソ連のKGBを思い浮かべることもできます。ただ、実際には軍事情報部門に近い組織でした」
僕はまた検索した。
陸軍本部情報局。年末総合敵情判断書。
検索結果の中から、いくつかを開いた。
「一九四九年末、情報局では、それまでの散発的な交戦ではなく、北朝鮮軍の全面侵攻を警告する報告書を作成したそうです」
「戦争が始まる半年前ですね」
「はい。もともとは、北朝鮮軍の攻撃時期を一九五〇年三月ごろと予想していたそうです」
「三月ですか」
「はい。ただ、中国共産軍にいた朝鮮系兵力の北朝鮮軍への編入が遅れれば、攻撃も六月へ延びる可能性があると見ていたそうです」
美咲さんが何かを思い出したように言った。
「あ、あの時、佐伯さんが相手にしていたパン・ホサンの部隊も、中国内戦を戦った朝鮮系兵力で作られたと言っていましたよね?」
「はい。パン・ホサンの部隊も、中国共産軍から北朝鮮へ入った朝鮮系兵力が主力でした。報告書が注目していたのも、そうした朝鮮系兵力の移動と編入だったようです」
美咲さんが驚いた表情をした。
「兵力が編入される時期を見て、攻撃時期まで予想したんですか」
「後年の関係者の証言によれば、そうです」
「それなのに、どうして備えられなかったのでしょう」
僕は少し考えを整理してから言った。
「すでに起きた結果を知ったうえで過去を見ると、すべての警告がはっきり見えるものです。ですが当時は、多くの情報が一度に上がってきていたはずです」
「そういうことも、ありそうですね」
「北朝鮮の全面侵攻を警告する報告と、平和統一を提案するという知らせが一緒に入ってくる中で、韓国軍の首脳部が警告を十分に受け入れなかったのかもしれません」
「確実ではないと思ったのでしょうか」
「そうだったのかもしれません。同じ民族同士の局地的な衝突が、全面戦争にまで広がるとは、簡単には信じられなかったのかもしれませんし。平和的な統一を望む人も少なくなかったはずです」
僕は画面を下へ送った。
北朝鮮の全面侵攻を警告した人はいたが、戦争を止めることはできなかった。
その結果、祖父は自分が日本人であることを証明する時間もないまま、軍服を着なければならなかった。
美咲さんが尋ねた。
「攻撃の時期まで予想していたなんて、驚きです。誰がその報告書の作成を主導したんですか」
僕は画面に出た内容を、もう一度確認した。
「僕が確認した資料によると、当時、報告書の作成を提案し、分析を主導した人物は朴正熙だったとされています」
「朴正熙ですか?」
美咲さんは、その名前を確かめるように繰り返した。
僕は少し間を置いた。
「後に韓国の大統領となった男です」
個人的な事情により、昨日投稿予定だった分を本日投稿いたします。遅くなってしまい、申し訳ありません。




