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第78話 別の意味の前線

翌日、僕は美咲さんに会うなり、先に言った。


「昨夜、少し先に読みました」


美咲さんがコーヒーカップを置いた。


「手帳をですか」


「はい。長津湖の次は興南でした」


「興南?」


美咲さんは静かに、その名前を繰り返した。


「興南撤収と呼ばれる出来事です。国連軍と韓国軍が、中共軍の介入後に興南港から船に乗り、南へ撤退した作戦です」


僕はノートパソコンを開く前に、昨夜読んだ部分を短く説明した。


祖父は興南港で、米軍の補給に関係する仕事をしていた。


ところがその仕事をしているうちに、祖父は撤収する時間を逃してしまった。


「それで?」


美咲さんが低く尋ねた。


僕は少し息を整えた。


「艦のほうへ走ったのですが、米軍兵士に止められました。僕が読んだのは、そこまでです」


僕はノートパソコンを開いた。


画面には、昨夜最後に読んだ文が出ていた。


「私は、北に残されるのかもしれないと思った。」


美咲さんはその文を読んで、何も言わなかった。


僕は息を整え、次の行を開いた。


「そのとき、後ろから誰かが叫んだ。


Our Kim.


長津湖で聞いた声だった。


彼が、私を止めていた米軍兵士に何かを言った。


そのおかげで、私は艦に乗ることができた。」


「本当に、ぎりぎりで助かったんですね」


「そうですね。もしその艦に乗れなかったら、北に残されていたはずです。おそらく捕虜になっていたでしょう。そして……」


僕は韓国軍捕虜が置かれた悲惨な状況を思い浮かべた。


国際法に基づいて捕虜を管理した米軍とは違い、北朝鮮軍は韓国軍捕虜をきわめて残酷に扱ったのだ。


僕はまた手帳を読んだ。


「甲板に上がると、足の力が抜けた。


艦はすぐに動き始めた。


埠頭には、まだ人々が残っていた。


兵士もいたし、避難民もいた。


私は彼らを見た。


だが、何もできなかった。」


手帳の文字は、さらに震えていた。


「向こう側に大きな船があった。


艦ではなかった。


民間船だと誰かが言った。


貨物を積む船だと言った。


だがその船には、人がぎっしり乗っていた。


甲板にも人がいて、中へ入る場所にも人がいた。


人があまりにも多く、船が人でできているように見えた。」


美咲さんが息を呑んだ。


「民間船にですか」


「はい」


僕は検索窓に手を置いた。


興南撤収。民間船。避難民。


いくつかの検索結果が現れた。


僕はその中の一つを開いた。


「興南撤収のとき、動いたのは軍艦だけではありませんでした。民間の貨物船も避難民を乗せました。代表的なものとして、メレディス・ヴィクトリー号という船が有名です」


「メレディス……?」


「Meredith Victory。もともとは貨物船です。けれど興南で避難民を乗せ、南へ下りました。一隻に一万人を超える人々が乗ったと記録されています」


「一万人を超える人が、一隻にですか」


「はい」


僕は画面を見つめた。


手帳に書かれていた大きな民間船が、その船だったのかはわからなかった。


けれど、当時の切迫した状況をそのまま見せていた。


僕はまた手帳を読んだ。


「大きな船に乗った人々が、こちらを見た。


誰かは手を振っていた。


誰かは泣いていた。


私は彼らがどこへ行くのか、わからなかった。


私も、どこへ行くのかわからなかった。


ただ、北から遠ざかっていた。


それだけはわかった。」


手帳はそこで終わっていた。


僕はしばらく言葉が出なかった。


美咲さんも、何も言わなかった。


「今回も、生き残られたんですね」


「はい。また生き残りました。運がよかったと言うべきでしょうか」


僕の言葉に、美咲さんが言った。


「もちろん運もあったでしょうけど、佐伯さんの誠実さが助けになったように思います。そうでなければ、助けてもらえる機会もなかったでしょうから」


「それは、そうですね」


祖父は長津湖で生き残った。


そして興南でも、幸い米軍の艦に乗り、南へ下ることができた。


けれど、戦争が終わったわけではなかった。


そのとき、携帯電話が鳴った。


母だった。


僕はすぐにメッセージを開いた。


新しいファイルを送ったよ。

量は多くないよ。


「手帳の後ろの部分が来たんですか」


美咲さんが尋ねた。


「はい。今届きました」


僕はメールを開き、添付ファイルをダウンロードした。


新しいスキャンデータが画面に現れた。


今回は、手帳の紙片だけではなかった。


古い文書の一部と、手帳のページが一緒に貼られていた。


僕は先に、手帳のほうを開いた。


「再び韓国軍所属になった。


私は今回も補給の仕事をすることになった。


米軍側が推薦状を書いてくれたおかげだった。」


僕は静かに読んだ。


「また韓国軍に配属されたようです」


「そのあとも補給を担当したんですね」


「はい。米軍側の推薦が影響したようです。当時の韓国軍の立場からすれば、米軍と関係のよい兵士なら有用だと判断したのでしょう」


「前線よりはずっと安全ですよね」


「そうですね。以前の長津湖の戦いは、実際には予想できなかったことだったでしょうから」


「よかったです」


僕は次の行を読んだ。


「缶詰。毛布。燃料。医薬品など。


米軍が供与した補給品の箱は、次々に入ってきて、次々に出ていった。


私は誠実に、徹底して帳簿に記入した。」


僕は画面を少しスクロールした。


「物品をいくつか、倉庫の裏へ運べと言われた。


帳簿には書くなと言われた。


私は理由を尋ねた。


尋ねるなと言われた。


私は拒んだ。」


僕は一瞬、表情が固まった。


美咲さんも同じだった。


僕は次の行を読んだ。


「私がいないあいだに、物品が運ばれた。


私が倉庫の裏へ走っていくと、私の先任者が民間人たちと一緒にいた。


彼らが持ってきたトラックに、物資の入った箱が移されていた。


先任者は私を丸め込もうとした。


お前にも分け前をやるから、黙っていろ。


チョウンゲ、チョウンゴダ。


見なかったことにしろ。


だが私は、彼の言葉に従うことができなかった。


上に報告した。


そして、


報復が始まった。」


「チョウンゲ、チョウンゴダ……これは、どういう意味ですか」


美咲さんがためらうように尋ねた。


僕はしばらく口を閉ざした。


「韓国語の言い回しです。良いものは良いものだ。直訳すれば、本当にそのまま、良いものは良いものだ、くらいの意味です」


「良いものは、良いもの……?」


「はい。でも実際には、あまり良い言葉ではない場合が多いです。余計な問題にせず、お互いよい形で済ませよう、という意味で使われることもあります。特に不正や汚職をするとき、それを覆い隠す言葉のように出てくることがあります」


僕は画面の中の文をもう一度見た。


チョウンゲ、チョウンゴダ。


「僕がいちばん嫌いな言葉の一つです。韓国では、こういう場面で決まり文句のように出てくるんです」


美咲さんは顔をしかめた。


「良い言葉のように聞こえるのに、悪いことを隠す言葉なんですね」


「はい。だから、余計に嫌なんです」


「補給品の横流しですか」


美咲さんが低く尋ねた。


「おそらく」


僕は当時生まれていた闇市を思い浮かべた。


「戦争中は、缶詰一つ、毛布一枚、燃料缶一つでもお金になったはずです。帳簿から消えた物資は、誰かのトラックに積まれて闇市へ行ったのかもしれません」


僕はまた読んだ。


「営倉に入れられた。


補給品を横流ししたという理由だった。


夜に先任者が現れた。


書類を書き直せと言った。


そうすれば出してやると言った。


だが私は拒んだ。


すると彼は私に警告した。


お前は死ぬかもしれない。


もう一度よく考えろと言った。」


「これはいったい……」


美咲さんがつぶやいた。


「むしろ、不正を通報した人が捕まったんですか」


「おそらく、かなり上のほうまで関わっていたのかもしれません。彼らの立場からすれば、祖父は融通の利かない補給兵だったのでしょう。もしかすると、米軍の推薦で入ってきた者だったから、最初から警戒されていたのかもしれません」


「でも、あまりにも悔しいじゃないですか。今回は営倉に入れられた……」


美咲さんは何かを言いかけて、口を閉じた。


僕はそれが、以前、千代子さんと一緒にいて留置場に入れられたことを言おうとしたのだと気づいた。


「とにかく、かなり危険な状況だったのかもしれません。不正をしていた者たちは、祖父を目の上のたんこぶのように思っていたでしょうから」


「それでも、佐伯さんは正直に仕事をして、むしろ不正行為を報告した人なのに……」


僕よりも、美咲さんのほうが悔しそうだった。


僕は胸が重くなった。


朝鮮戦争当時にあった暗い面を見ている気がした。


「実際、補給品が闇市に流れたという話は、朝鮮戦争について調べていると、しばしば出てきます。当時は、今のように徹底した管理システムが整っていたわけではありませんでしたから。ですが、その中で祖父のように規則を守ろうとした人たちは、被害を受けたこともあったのでしょう」


営倉に入れられた祖父は、どうなったのだろうか。


後方だと思っていた。


前線よりは安全な場所だと思っていた。


だがそこは、別の意味で前線と同じくらい危険な場所だった。


僕は次の画面へ進んだ。


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