第77話 見慣れない箱
僕は検索語を入力した。
砲防部。
「砲防部……ですか?」
美咲さんが画面の文字を読み、まばたきをした。
僕は少し笑った。
「正式な名称ではありません。韓国の国防部を、冗談のようにそう呼ぶ言葉です」
「国防部をですか?」
「はい。砲兵の『砲』と、国防部の『防部』をかけた言葉です。つまり……砲が大好きすぎる国防部、くらいの冗談ですね」
美咲さんは少し考えてから言った。
「砲が大好きすぎる国防部」
口に出してみると妙に聞こえたのか、彼女が少し笑った。
その笑いのおかげで、さっきまで重く沈んでいた空気が、ほんの少しゆるんだ。
僕はまた画面を見た。
「初期の韓国軍には、日本軍式の戦闘教義の影響が少なくありませんでした。精神力を強調するやり方です。ですが、戦争を経験しながら、すべてが少しずつ変わっていきました」
「変わった?」
「北朝鮮軍の戦車をうまく止められなかった記憶がありましたし、中共軍と戦う中では、人が次々に押し寄せてくる戦場を見ました。それを止めるには、結局、火力が必要でした」
「火力……」
「砲、弾薬、補給。もっと多くの砲と、もっと多くの弾薬が必要だったわけです」
僕は検索結果を少しスクロールした。
ウクライナ戦争。
「砲兵と自走砲を多く備えるやり方は、古い考えだと批判されることもありました」
美咲さんが僕を見た。
「古い考え、ですか」
「精密兵器、空軍力、電子戦のような言葉のほうが、新しく聞こえたからです。砲と弾薬をたくさん準備するやり方は、旧式に見えることもありました。ですが砲防部は、粘り強く火力、もっと多くの火力を叫び続けたわけです」
その言葉に、美咲さんがまた笑った。
僕は画面を下へスクロールした。
「ですがウクライナ戦争を見て、砲兵と弾薬、そしてそれを送り続ける補給がどれほど重要なのか、あらためて確認されています」
美咲さんはゆっくり言った。
「古いやり方ではなくて……捨てられない基本だったんですね」
「はい」
僕はうなずいた。
長津湖で祖父が見ていたものは、現代の韓国軍が火力と装備を重視するあり方と、奇妙なほど似ていた。
そのとき、美咲さんが慎重に言った。
「そろそろ出ましょうか」
僕は顔を上げた。
「もうそんな時間ですか」
「はい。少し早めの夕食には、ちょうどいい時間です」
僕は窓の外を見た。
いつの間にか、カフェのガラスには外の光がぼんやり映っていた。
戦争の話を読み続けていたせいで、時間が流れるのをほとんど感じていなかった。
考えてみれば、実質的な昼食は乾パンとコーヒーだけだった。
「今日は鯛ではなく、別のものを食べてみましょうか」
「おすすめはありますか」
「福山うずみという郷土料理があります」
「うずみ、ですか」
「ご飯の下に具を埋めるように入れた料理です。見た目は普通のご飯のように見えるんですけど、下にいろいろな具が隠れています」
「ご飯の下にですか」
「はい。埋まっているものをすくって食べるんです」
僕たちはカフェを出た。
外の空気は、昼より少し冷たかった。
けれど長津湖の寒さとは比べものにならない、やわらかな夕方の空気だった。
店の中へ入ると、温かい匂いがした。
出汁の匂いと、ご飯の匂い。
戦争の記録を読んだあとだからか、その普通の匂いが妙にはっきり感じられた。
美咲さんはメニューを見ながら言った。
「うずみがありますね」
僕はうなずいた。
「それにします」
少しして、器が出てきた。
ひと匙食べると、温かいご飯が口の中に広がった。
僕はもう一度、匙を入れた。
今度はご飯の下から、別の具が出てきた。
小さく切られた野菜と、汁を含んだ具が、ご飯のあいだから姿を見せた。
外からは見えなかったものが、匙を入れるたびに少しずつ出てきた。
さっき読んでいた画面の中には、凍りついた食糧と、動かない銃があった。
そして今、僕の前には温かいご飯と汁があった。
「おいしいですね」
「お口に合ってよかったです」
食事を終えて外に出ると、空は少しずつ暗くなっていた。
僕たちはすぐには戻らず、しばらく海のほうへ歩いた。
「祖父は、そこで何を考えていたんでしょう」
僕がそう言うと、美咲さんが隣で歩みを少し遅くした。
「長津湖で、ですか?」
「はい」
「生き残ること、それをずっと考えていたのではないでしょうか」
「そうだったかもしれませんね。動き続けて、また動き続けて……」
凍え死なないためには動かなければならなかった、という言葉が浮かんだ。
「それでも、とにかく生き残ったから、ハルさんがここにいるんですよね」
祖父は生き残った。
だから父が生まれ、母が僕を産み、僕は今ここで、美咲さんと一緒に海を見ている。
長津湖の雪と、瀬戸内海の海。
その二つのあいだに、一人の生存があった。
「残りの話は、明日続きを読みましょう」
「そうですね。母がまた送ってくれると言っていましたから」
長津湖の戦いを経験した佐伯春雄。
祖父は、このあとまたどんな戦いを経験するのだろうか。
そして僕は、部屋へ戻るなり、その内容を知ることになった。
母が、スキャンデータを僕の予想より早く送ってくれたのだ。
どうしよう。
僕は少し迷った。
けれど美咲さんと一緒に見る前に、僕が先に読んで説明したほうがいいような気がした。
僕はノートパソコンを起動した。
スキャンされた手帳のページが、びっしりと並んでいた。
文字は前の記録よりさらに乱れていた。
僕は最初の行を読んだ。
「興南へ行くと言われた。
道は塞がっていた。
港で船に乗ると言われた。」
僕は手を止めた。
興南撤収。
僕はその名前を知っていた。
朝鮮戦争当時、北へ上がっていた国連軍と韓国軍が、中共軍の介入後、興南港を通じて南へ撤退した作戦。
僕はもう一度、検索窓に手を置いた。
興南撤収。一九五〇年十二月。避難民。港の爆破。
短い言葉が画面の上に浮かんだ。
僕はまた手帳へ目を戻した。
「港には箱が多かった。
米軍将校が印をつけた。
私は帳簿に記入した。」
僕は画面を少しスクロールした。
「見慣れない箱が来た。
米軍工兵が手ぶりをした。
彼らは私に、運ぶ場所を指した。
私は言われたとおりにした。
続けて箱を運び、数字を書いた。
ある時から、埠頭に残る人が減っていった。
そのとき、私は自分が遅すぎたことを知った。」
遅すぎた、という言葉に、僕は一瞬息が詰まるようだった。
僕は次の行を読んだ。
「遠くで大きな音がした。
最初は砲の音だと思った。
誰かが、港を壊しているのだと言った。
敵に使わせないためだと言った。
倉庫のほうで光が上がった。
黒い煙がのぼった。
私はそちらを見た。
私が運んだ箱があった場所だった。」
僕は指を止めた。
検索結果にあった言葉が浮かんだ。
港の爆破。残された補給物資の破壊。
祖父が運んだ見慣れない箱。
それらは、港を壊すための爆薬だったのだろう。
僕はまた読んだ。
「私は艦のほうへ走った。
渡り板の前で、米軍兵士が私を止めた。
彼は早口で何か言った。
私はすべてを聞き取れなかった。
だが、この艦は米軍が乗る艦だ、という意味に聞こえた。
彼の銃口が私のほうへ動いた。
これ以上来るなという意味だった。
私は、北に残されるのかもしれないと思った。」
僕は、それ以上読めなかった。
指先が固まってしまったようだった。
長津湖では、止まれば凍え死んだ。
興南では、遅れれば残されるかもしれなかった。
そして祖父は、その最後の瞬間に止められていた。
このあとの話は、美咲さんと一緒に読むべき部分だと思った。
僕はノートパソコンを閉じることもできないまま、その場に座っていた。




