第75話 前線よりは安全な場所だった
新しいファイルが開いた。
今回のファイルは、これまで見てきた手帳と少し違っていた。
文字に力が入っていた。
線は前より太く、行も少し前へ傾いていた。
不思議なことに、明るく見える文字だった。
僕はゆっくり最初の行を読んだ。
手帳には、こう書かれていた。
「多富洞を守った。
多くの人が死んだ。
しかし敵は道を通れなかった。
私は生き残った。
上等兵になった。」
そこまで読んで、僕はしばらく画面から目を離した。
上等兵。
祖父はまた昇進していた。
生き残ったから与えられた階級だった。
僕はまた画面を見た。
「数日後、私は後方へ行けという命令を受けた。
物資管理のほうだと言われた。
理由は説明されなかった。
私の名前が名簿にあると言われた。
最初は、なぜ私がそこへ行かなければならないのかわからなかった。
だが、前線よりは安全な場所だった。」
僕は次の行を読んだ。
「最初に任された仕事は、箱を運ぶことだった。
その次は、箱に書かれた数字を書き写した。
品目と数量を合わせる仕事だった。
英語の単語はよくわからなくても、数字は見ることができた。
補給所では、数量が合わないことが多かった。
私は受け取ったものと出ていったものを書いた。
箱をもう一度数えた。
私が担当したところでは、物がほとんどなくならなかった。
それから、米軍兵士たちが私をよく呼ぶようになった。」
美咲さんが小さく尋ねた。
「物がなくなるというのは……?」
僕は画面を見ながら答えた。
「戦争中の補給品は、ほとんどお金と同じだったのだと思います。食べ物、服、煙草、燃料、薬品まで、すべて貴重だったはずですから」
僕は少し言葉を選んでから、付け加えた。
「戦争中ですから、実際になくなることもあったでしょう。どこかへ消えることもあったでしょうし、誰かが持ち出すこともあったのだと思います。ですが、祖父が担当したところでは、そういうことがほとんどなくなったようです」
美咲さんはゆっくりうなずいた。
僕はまた手帳へ視線を戻した。
「米軍兵士たちは、私をPFC Kimと呼んだ。
時には、ただPFCとも呼んだ。
それで十分だった。
彼らと多く話をする必要はなかった。
書類を見て、箱を数え、物を出せばよかった。
私には、そのほうが楽だった。」
「PFC……?」
美咲さんがためらうように尋ねた。
「Private First Classの略だと思います。米軍式では、上等兵に近い階級として訳せると思います。当時の韓国軍の階級を米軍がそのまま理解するのは難しかったでしょうから、ただそう呼んだのだと思います」
「PFC Kim」
美咲さんが小さく繰り返した。
僕はうなずいた。
「米軍の立場では、それがいちばん楽だったのでしょう。役に立つ韓国軍の上等兵として覚えるほうが」
僕はまた手帳を読んだ。
「日本語の書かれた標識や書類があると、私はそれを読んだ。
最初は、ときどき呼ばれて行った。
あとになると、日本語の混じった書類が来れば、ほとんど私の手を通るようになった。
米軍兵士たちは、私がどんな文字を読んでいるのかはよくわかっていなかった。
だが私が読むと、箱と数字が合うことはわかっていた。
私はそこで、英語を少しずつ覚えた。
英語が得意になったわけではなかった。
それでも、仕事を処理できるくらいにはわかるようになった。
私はその仕事が嫌いではなかった。
銃を持って前へ走るよりはよかった。」
美咲さんは黙って画面を見ていた。
僕は次の行へ進んだ。
「仁川に上陸したという話が聞こえた。
敵が退いた。
これから私たちが上がっていくのだと言われた。
皆、戦争はすぐに終わりそうだと言った。
私は米軍と一緒に動くことになった。
北へ行く。」
手帳の文は、そこで少し途切れていた。
僕は画面から目を離せなかった。
美咲さんが僕に尋ねた。
「戦争がすぐに終わりそうだったとありますけど……実際にはそうではなかったんですよね」
僕はうなずいた。
「はい。仁川上陸作戦のあと、戦況は大きく変わり、北朝鮮軍は押し戻されました」
僕は少し言葉を選んだ。
「けれど、中共軍が介入します」
美咲さんの目が少し細くなった。
「中共軍、ですか?」
「はい。当時の韓国では、中国軍を中共軍と呼んでいました。中共軍が戦争に入ってくることで、米軍もその規模と動きに虚を突かれることになります」
僕は画面を見下ろした。
「米軍部隊が包囲され、殲滅の危機にまで追い込まれます」
美咲さんはしばらく何も言わなかった。
それから静かに尋ねた。
「では……米軍と一緒に動いていた佐伯さんも危険なのではないですか」
僕はすぐには答えられなかった。
手帳の中の祖父は、まだその未来を知らなかった。
「その可能性はあります」
僕はそう言って、次のページを開いた。
ファイルの中の画像が変わった。
また手帳の文字が続いていた。
「寒くなった。
最初は、ただ秋が終わるのだと思った。
だが、この寒さは違った。
私はこんな寒さを経験したことがなかった。
息をすると、鼻の奥が痛かった。
水筒の水が凍った。
指先の感覚がなくなった。
米軍兵士たちは寒さに驚き、悪態をついた。
私もまた、とても寒かった。
服が薄すぎた。」
僕は手帳から目を離して言った。
「朝鮮半島は、夏と冬の気温差が大きいです。特に北側の山岳地帯の冬は、南で育った人にとっては、まったく別の世界のように感じられたはずです」
美咲さんは静かにうなずいた。
僕はまた手帳を読んだ。
「長津湖付近に着いた。
寒さは、だんだんひどくなった。」
僕はその一行を見て、思わずつぶやいた。
「長津湖……」
美咲さんが僕を見た。
「どうしました?」
僕はすぐには答えられなかった。
「これは先に検索してから説明したほうがよさそうです」
僕は検索窓を開いた。
そして長津湖の戦いを検索した。
少しして、写真が出てきた。
厚い防寒服を着た米軍兵士たちと、凍りついた顔。雪と土が混じった道。
そして関連する説明が出てきた。
僕はページの文字を日本語に変換した。
美咲さんが画面をゆっくり読んだ。
酷寒と包囲。凍傷。補給不足といった言葉が並んでいた。
僕は静かに言った。
「長津湖の戦いをきっかけに、在韓米軍の冬の装備がアラスカ駐屯軍と比べられるほど重要視されるようになり、韓国軍も寒冷地訓練を重視するようになった。そういう内容を、僕も軍隊で教わったことがあります」
僕は画面の中の、凍りついた兵士たちの顔を見た。
「もちろん、いくつもの理由があったのでしょう。それでも、長津湖がその中心にあることは確かだと思います」
美咲さんは画面から目を離さなかった。
「すさまじい場所だったんですね」
僕はうなずいた。
「はい」
検索結果には、いくつかの逸話も一緒に出ていた。
凍りついた補給品と、まともに動かない装備。あまりの寒さに銃と手がくっついたという話。
傷よりも先に凍傷が兵士を倒したという話。
弾薬を意味する暗号が誤って伝わり、キャンディが補給品として落とされたという話まであった。そして、それがかえって助けになったという話も。
戦場の話は、ときどきあまりに奇妙で、信じがたかった。
けれど、あまりに奇妙な話ほど、かえって真実に近いこともあった。
美咲さんがためらうように尋ねた。
「では佐伯さんは……長津湖の戦いを経験したんですか」
僕は手帳の文をもう一度見た。
「長津湖付近に着いた。」
「米軍と一緒にその付近にいたのなら、その可能性は高いと思います」
それ以上は言えなかった。
朝鮮戦争でも、最悪の戦場の一つに数えられる場所。
そこに、佐伯春雄がいた。




