第73話 二つの言葉が重なった
画面が開いた。
手帳には、こう書かれていた。
「崔上等兵と話をするうちに知ったことだ。
彼の幼いころから、日本軍に入ったあとの話まで、私はここに書き残そうと思う。
彼が私にすべてを話したわけではない。
私もまた、彼の話をすべて理解したとは言えない。
しかし、彼がなぜそういう人間になったのか、少しはわかった。
だから私は、彼が話したことと、私が聞いたことを、ここに残す。」
僕はその文を読みながら、ゆっくりとまばたきをした。
それは、完全な記録ではないのかもしれなかった。
けれど、祖父が記憶しようとした一人の姿だった。
僕は次の文を読んだ。
すると不思議なことに、文字は画面の上にとどまらなかった。
文章が、場面のように浮かび上がってきた。
古い手帳の文字のあいだから、僕はまだ顔もよく知らない崔上等兵の生涯を見ているような気がした。
◆◆◆
私は、かつて朝鮮という国があったと教わった。
けれど、それは私とはあまり関係のない話だった。
私が生まれたとき、すでにこの土地は大日本帝国の一部だった。
学校では、日本語を「国語」として教えられた。
そして学校を終えて家に戻ると、働かなければならなかった。
私の家は、地方の小作農の家だった。
土地は私たちのものではなかった。
父は他人の土地を耕し、母は他人の家の仕事をした。
私は幼いころから、土の匂いの中で生きていた。
雨が降れば田があふれ、日が長く照りつければ田がひび割れた。
そのたびに大人たちはため息をついた。
私はそのため息を聞きながら育った。
一生、このまま生きなければならないのだろうか。
幼いころから、そんなことを考えていた。
そんなある日、支那戦線で皇軍が勝利したという話が聞こえてきた。
私はその言葉を聞き、胸が高鳴った。
皇軍の勝利。
けれど、大人たちの中には、黙って聞いているだけの人もいた。
だが子どもだった私は喜んだ。
自分が属する帝国が勝っていると思ったからだ。
それからほどなく、朝鮮人志願兵制度が始まったという話が村に広がった。
朝鮮人も軍人になれるのだという。
人々は危険だと言って避けた。
けれど私には、機会のように見えた。
軍人になれば、少なくとも一生、他人の土地だけを耕して生きなくてもよいかもしれない。
私は志願した。
その話を聞いた父は長く黙り、母は泣き始めた。
けれど結局、誰も私を引き止めることはできなかった。
引き止められなかった、と言うほうが正しいのかもしれない。
私は訓練所へ行った。
初めて受け取った軍服は見慣れず、訓練は苦しかった。
それでも私は耐えた。
耐えれば、軍人になれると信じていた。
まれに外出が許された日があった。
一日中ではなく、ほんの少しの時間だった。
それでも部隊の外へ出られるというだけで、訓練兵たちは浮き立った。
私はほかの訓練兵数人と一緒に、街へ出た。
市場があった。
人々が行き交い、食べ物の匂いがした。
私は久しぶりに、訓練所の食事ではないものを食べてみたかった。
小さな菓子を売っている商人がいた。
私はその前で足を止めた。
商人は朝鮮人だった。
その話し方は、私の故郷の言葉と同じで、懐かしかった。
思わず、同じ方言で話しかけた。
商人は驚いた顔で私を見て、言った。
「まさか、こんなところで同郷の人に会うとは」
私たちは短く言葉を交わした。
たいした話ではなかった。
けれど、そのわずかな会話だけで、私は長く忘れていた場所へ戻ったような気がした。
そのときだった。
向かい側にいた日本人の青年数人が、こちらを見た。
彼らは笑いながら近づいてきた。
最初は、そのまま通り過ぎるのだと思った。
けれど彼らは、私の前で止まった。
「お前、朝鮮人か」
私は答えなかった。
その中の一人が、私の帽子を小突いた。
別の一人が、私の肩を指で突いた。
「軍人のまねをしているのか」
彼らは笑った。
私は口を閉ざした。
どうすればいいのか、わからなかった。
その中の一人が、私の買ったものを奪った。
そして地面に投げ捨てた。
土がついた。
誰かがその上に唾を吐いた。
彼らは私を見て、チョーセンジンと言った。
私は拳を握った。
けれど、動くことはできなかった。
彼らが笑いながら去ったあと、私は地面に落ちたものを拾った。
拾ったものは、もう食べられなかった。
けれど私はそれを手にしたまま、しばらくその場に立っていた。
表情が固まった。
そして、一度固まってしまった私の表情は、簡単には戻らなかった。
訓練所に戻ってからも、そうだった。
翌朝もそうだった。
食事の時間にも、私は黙っていた。
飯を口に入れても、味がしなかった。
教官がそれを見た。
「君、どうした」
私は、何でもないと言った。
「何でもない顔ではない」
教官は簡単には引き下がらなかった。
私はもう一度、大丈夫だと言った。
けれど彼は、問い続けた。
結局、私は前日にあったことを話した。
それを聞いた教官の表情が固くなった。
彼はしばらく何も言わなかった。
そして立ち上がり、どこかへ行った。
私はそれで終わったのだと思った。
けれどしばらくして、彼は別の将校と一緒に戻ってきた。
訓練兵たちを預かっている森田少佐だった。
私はすぐに立ち上がり、気をつけの姿勢を取った。
森田少佐は私を見た。
目つきが鋭かった。
「話は聞いた。昨日の場所へ行くぞ」
私はすぐには、その意味がわからなかった。
けれどすぐに軍用車が用意された。
私は教官と森田少佐と一緒に車へ乗った。
部隊の外へ出ていくあいだ、心臓が妙に鳴っていた。
何が起きるのか、わからなかった。
森田少佐が言った。
「君に絡んだ連中が見えたら、言え」
車は市場の通りの近くを、ゆっくり進んだ。
私は窓の外を見た。
道の片側に集まっていた青年たち。
私は彼らを見覚えていた。
「あの者たちです」
車が彼らの前で止まった。
森田少佐と教官が先に降りた。
私もあとに続いて降りた。
森田少佐が、私にもう一度尋ねた。
「あの者たちか」
「はい。間違いありません」
その瞬間、青年たちの一人が私に気づいた。
「あれ、昨日の朝鮮野郎じゃないか」
その言葉が終わるより早く、森田少佐が腰に差していた刀を抜いた。
刃が光った。
周囲の音が、一瞬消えた。
「貴様ら!」
森田少佐の声が、市場の通りに響いた。
「そんなことをして、ただで済むと思ったのか!」
青年たちの顔から笑いが消えた。
彼らは後ずさった。
「あ、あいつは朝鮮人です」
誰かが震える声で言った。
けれどその言葉は、森田少佐には何の意味もないようだった。
彼は一歩前へ出た。
「天皇陛下の軍人を侮辱するとは!」
その言葉に、青年たちはその場にへたり込んだ。
「お許しください」
「申し訳ありませんでした」
彼らは地面に頭を下げた。
私はその姿を見て、息を呑んだ。
森田少佐の目には、本当に斬りかねない殺気があった。
私が口を出さなければ、何が起きていたのかわからなかった。
私は急いで言った。
「ありがとうございます。これで十分です」
森田少佐はしばらく私を見た。
そして、もう一度青年たちに向かって叫んだ。
「失せろ」
彼らは慌てて立ち上がった。
「もう一度こんなことをしたら、生かしてはおかない」
青年たちは逃げた。
本当に、逃げていった。
市場の人々は、誰も何も言えなかった。
私も何も言えなかった。
森田少佐は刀を収めた。
「行こう」
私はまた車に乗った。
訓練所へ戻る道は静かだった。
車の揺れだけが感じられた。
私はしばらくして、ようやく口を開いた。
「ありがとうございます」
森田少佐は前を見ていた。
「朝鮮人の私を、ここまでかばってくださって、ありがとうございます」
その言葉に、森田少佐の顔が固くなった。
彼は私を見た。
「君が朝鮮人かどうかは重要ではない」
私は息を止めた。
彼が言った。
「我々は同じ飯を食い、同じ訓練を受けている、天皇陛下の軍人だ」
その言葉は、不思議なほど私の中へ入り込んだ。
朝鮮人かどうかは重要ではない。
天皇陛下の軍人。
その言葉を聞いた瞬間、涙が流れた。
私は泣くまいとした。
けれど涙は止まらなかった。
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます」
私は初めて、自分が帝国の臣民として認められたように感じた。
初めて、自分が天皇陛下の軍人として扱われたように感じた。
その日から、私はさらに懸命に訓練した。
私は帝国の軍人になりたかった。
そして私は、本当に日本陸軍の軍人になった。
南方へ行った。
海は果てしなく広かった。
空気は重く、湿っていた。
じっとしていても汗が流れた。
虫がわいた。
人は病で死に、飢えで死に、銃弾で死んだ。
それでも最初は、それも使命なのだと思っていた。
鬼畜英米を追い払うこと。
アジアを守ること。
帝国の戦争を遂行すること。
そう教わり、そう信じようとした。
しかし戦争は、だんだん変わっていった。
最初に聞いていた勝利の知らせは減った。
代わりに、敗北の知らせが増えた。
食糧は足りず、薬も足りなかった。
仲間が一人、また一人と消えていった。
米軍が近くまで来ているという噂が回った。
誰かは、もう持ちこたえられないと言った。
誰かは、最後まで戦うべきだと言った。
最後は、特攻の覚悟で玉砕するしかないという話が出た。
私は死を考えた。
そのころの私は、死さえも命令のように受け入れようとしていた。
死ねと言われれば、死ななければならないと思っていた。
天皇陛下万歳。
その言葉を叫んで死ぬことが、軍人の終わりなのだと思っていた。
私たちは待った。
米軍がさらに近づいているという話を聞いた。
最後の戦闘が来るのだと思った。
ところが、戦闘は来なかった。
代わりに、信じられない知らせが来た。
戦争が終わったという。
日本が負けたという。
最初は誰も信じなかった。
誰かは嘘だと言った。
誰かは怒った。
誰かは泣いた。
私は何も言えなかった。
天皇陛下万歳と叫んで死ぬ覚悟をしていたのに、
その死は来なかった。
生き残ったという安堵より、虚しさのほうが先に来た。
自分が信じてきたものが何だったのか、わからなかった。
帝国は終わった。
私は朝鮮へ戻った。
誰かは解放だと言った。
誰かは新しい国だと言った。
けれど私は、自分がどこに立てばいいのかわからなかった。
◆◆◆
僕はそこで目を開けた。
いや、目を開けたわけではなかった。
僕はずっとカフェの中にいた。
ノートパソコンの画面の前に座っていた。
カフェモカは冷めていき、美咲さんは僕の隣で静かに画面を見ていた。
けれど、ついさっきまで僕は別の場所にいた。
暑く湿った南方の空気の中にいて、
見知らぬ市場の通りで刀を抜いた日本軍少佐の声を聞いていて、
一人の朝鮮人兵士の固まった表情を見ていた。
それが手帳に書かれた事実そのものなのか、
崔上等兵が祖父に語った記憶なのか、
それとも僕がその文を読みながら思い浮かべた想像なのかはわからなかった。
けれど、一つだけははっきりしていた。
崔上等兵は、天皇陛下の軍人として認められたと信じた人だった。
そしてその記憶は、彼の中で簡単には消えなかったはずだ。
僕はまた画面を見た。
長い随筆のように続いていた文章は、ある瞬間からまた短くなっていた。
まるで祖父が、もう長く書くことができなくなったように。
最後の部分には、こう書かれていた。
「崔上等兵の最後について聞いた。
彼は大韓民国万歳と叫びながら、戦車へ向かって突撃したという。
そして彼は、戦車を止めた。
二度と戻ってこなかった。」
僕はその文の前で止まった。
天皇陛下万歳。
大韓民国万歳。
二つの言葉が、僕の中で重なった。
しかしその先にいたのは、同じ人だった。
崔上等兵。
彼は、天皇陛下の軍人として認められたいと願っていた。
そして最後には、大韓民国の軍人として死んだ。
僕はそれを、簡単には理解できなかった。
美咲さんも何も言えなかった。
彼女は、何かを言わなければならないと思っている顔をしていた。
けれど、最後まで言葉を見つけられなかった。
しばらくして、彼女は静かに頭を下げた。
僕も何も言わなかった。
カフェの中の静かな音楽だけが、僕たちのあいだを通り過ぎていた。




