第69話 テーブルの上の乾パン
僕はゆっくり目を開けた。
美咲さんも、ほとんど同じころに目を開けた。
彼女はしばらく画面を見なかった。
「今日は……」
美咲さんが慎重に言った。
「ここまでにしましょうか」
僕は時計を見た。
思っていたより、時間が経っていた。
「はい。今日はここまでにしたほうがよさそうです」
美咲さんは小さくうなずいた。
僕はノートパソコンを閉じた。
美咲さんは、冷めたカフェモカを一口飲んだ。
僕もカップを持った。
最初より、甘さが弱くなったような気がした。
いや、コーヒーの味が変わったわけではないのかもしれない。
ただ僕のほうが、同じ味として受け取れなくなっていただけなのかもしれなかった。
僕たちはカフェを出た。
特に言葉を交わしたわけではなかったが、自然と海辺のほうへ歩いていた。
港のほうから風が吹いてきた。
同じ風のはずなのに、今日は少し冷たく感じられた。
美咲さんが、長く息を吐いた。
「戦争というものは、私には遠い話だと思っていました。けれど、こうしてその時代の記録を読んでみると……胸の奥が落ち着かなくなります」
「僕も同じです。美咲さんが変なのではないと思います」
「ありがとうございます」
少し話をしたあと、僕たちはまた歩いた。
「明日も……同じ時間で大丈夫ですか」
「はい」
「では、また明日」
美咲さんはそう言って、少しだけためらった。
何かをもう少し言おうとしているようだったが、結局言わなかった。
僕たちは短く挨拶をして別れた。
宿へ戻る道でも、手帳の文がずっと浮かんでいた。
乾パンがこぼれていた。
こぼれていた乾パンを、彼の懐に戻した。
私にできることは、それだけだった。
僕は拳を軽く握った。
祖父はそのとき、何を考えていたのだろう。
いや、もし僕がそんな状況にいたら、何を考えただろう。
生き残った人と、戻ってこなかった人のあいだには、とても薄い線しかなかったのかもしれない。
いつの間にか宿に着いていた。
僕は部屋へ戻り、鞄を下ろした。
服を着替え、ベッドの端に座って携帯電話を取り出した。
韓国にいる母に電話をかけた。
呼び出し音が何度か鳴ったあと、母が電話に出た。
「ハル?」
「うん、母さん。今、大丈夫?」
「大丈夫。ハルは? 資料は見たの?」
「うん。見たよ」
僕はそう答えて、少し言葉を止めた。
今日見たことを、どこから話せばいいのかわからなかった。
母は、僕がすぐに続きを言わないのを聞いて、先に話題を変えた。
「今日は指が少し楽だったから、もう少しやってみたよ」
「指、大丈夫?」
「大丈夫。そんなに痛いわけじゃないの。ただ、長くやっていると、また少しこわばるのよ」
「無理しないで」
「そうする」
「スキャンしたものは?」
「少しだけ送ったよ。たくさんはできなかった。字が小さいし、紙も古いから、長く見ていると目も痛くなって」
「ゆっくりでいいよ」
僕は携帯電話を耳に当てたまま、うつむいた。
「わかった。あなたも無理しないで。それで、ハル」
「うん?」
「前に話した人、いたでしょう」
僕は一瞬、母の言っている意味がわからなかった。
「誰のこと?」
「この前、話したでしょう。母さんの知り合いの娘さん。年はあなたと同じくらいで、仕事もしっかりしていて、性格も落ち着いているって」
そこでようやく思い出した。
日本に来る前、母が何気なく出した話だった。
一度会ってみたらどうかと言っていた人。
僕はそのときも、はっきりした返事をしなかった。
「その話、急にどうして?」
「急にというわけじゃないの。あなたが日本にいるのに、今すぐ会いなさいという話ではないよ。ただ、帰ってきたら、負担に思わないで、一度お茶でもしてみたらどうかと思って」
母の言葉は慎重だった。
けれどその慎重さのせいで、かえって僕はすぐには答えられなかった。
その瞬間、なぜか美咲さんのことが浮かんだ。
僕と一緒に資料を調べていた彼女の姿。
瀬戸田レモンのお菓子を分け合ったときの記憶。
「ハル?」
母の声が、僕をまた現実に戻した。
「聞いてる?」
「うん。聞いてる」
「嫌なら嫌だと言っていいのよ。ただ一度聞いてみただけだから」
「嫌なわけじゃないよ」
僕はゆっくり言った。
「でも、まだよくわからない」
「そう?」
「今は旅の途中だから。韓国に戻ってから、もう一度考えてみるよ」
僕がそう言うと、母はしばらく黙っていた。
「わかった。母さんが急ぎすぎたのかもしれないね」
「そんなことないよ」
「じゃあ、今はあなたがしていることを、ちゃんと終わらせなさい。その代わり、ご飯はきちんと食べて」
「うん」
「それから、あまり遅くまで資料を見ないこと」
「わかった」
電話を切ってからも、僕はしばらく携帯電話を手に持っていた。
やがて、もう一度体を起こし、机の上にノートパソコンを置いた。
何度か手を動かしかけたが、結局開かなかった。
次の記録は、美咲さんと一緒に見たかった。
ただ、そう思った。
明かりを消して横になったが、すぐには眠れなかった。
窓の外からは、ときどき車が通り過ぎる音が聞こえた。
僕は目を閉じた。
すると、祖父が歩いたであろう山道が浮かんだ。
僕が受けた行軍訓練でも、険しい道を歩かなければならなかった。
銃を持ち、重い装備を背負わなければならなかった。
けれど、祖父が歩いた山道は、それとは比べものにならなかった。
そんなことを考えているうちに、眠りに落ちた。
翌日、僕は約束の時間より少し早くカフェに着いた。
まだ美咲さんは来ていなかった。
いつもの席には、誰かが座っていた。
結局、今回は窓際の席にした。
僕はノートパソコンをすぐには出さず、代わりに窓の外を見た。
通り過ぎる人たちを見ながら、美咲さんが来るかどうかを見ていた。
それから、僕はノートパソコンを取り出した。
そのとき、小さな鈴の音が鳴った。
顔を向けると、美咲さんが見えた。
「すみません、少し遅れました」
「大丈夫です。僕も今来たところです」
美咲さんは席に着く前に、カウンターのほうを一度見た。
それから、慎重に鞄を椅子の横へ下ろした。
「今日はコーヒーを注文する前に、先にお見せしたいものがあります」
「見せたいもの、ですか」
「はい」
美咲さんは鞄の中から、小さな袋を取り出した。
ビニールがかさりと鳴った。
彼女はそれを、テーブルの上にそっと置いた。
袋の表には、大きな文字でこう書かれていた。
乾パン。
「昨日の帰りに探してみました。今は、防災用の食品として売っているんですね」
美咲さんは袋を見つめてから、静かに言った。
「これを食べたからといって、あの時代のことがわかるわけではないと思います。でも……」
彼女は、最後まで言葉を続けられなかった。
僕も、その先を代わりに言うことはできなかった。
テーブルの上の「乾パン」という文字が、僕たちのあいだに置かれていた。




