表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
69/89

第69話 テーブルの上の乾パン

僕はゆっくり目を開けた。


美咲さんも、ほとんど同じころに目を開けた。


彼女はしばらく画面を見なかった。


「今日は……」


美咲さんが慎重に言った。


「ここまでにしましょうか」


僕は時計を見た。


思っていたより、時間が経っていた。


「はい。今日はここまでにしたほうがよさそうです」


美咲さんは小さくうなずいた。


僕はノートパソコンを閉じた。


美咲さんは、冷めたカフェモカを一口飲んだ。


僕もカップを持った。


最初より、甘さが弱くなったような気がした。


いや、コーヒーの味が変わったわけではないのかもしれない。


ただ僕のほうが、同じ味として受け取れなくなっていただけなのかもしれなかった。


僕たちはカフェを出た。


特に言葉を交わしたわけではなかったが、自然と海辺のほうへ歩いていた。


港のほうから風が吹いてきた。


同じ風のはずなのに、今日は少し冷たく感じられた。


美咲さんが、長く息を吐いた。


「戦争というものは、私には遠い話だと思っていました。けれど、こうしてその時代の記録を読んでみると……胸の奥が落ち着かなくなります」


「僕も同じです。美咲さんが変なのではないと思います」


「ありがとうございます」


少し話をしたあと、僕たちはまた歩いた。


「明日も……同じ時間で大丈夫ですか」


「はい」


「では、また明日」


美咲さんはそう言って、少しだけためらった。


何かをもう少し言おうとしているようだったが、結局言わなかった。


僕たちは短く挨拶をして別れた。


宿へ戻る道でも、手帳の文がずっと浮かんでいた。


乾パンがこぼれていた。


こぼれていた乾パンを、彼の懐に戻した。


私にできることは、それだけだった。


僕は拳を軽く握った。


祖父はそのとき、何を考えていたのだろう。


いや、もし僕がそんな状況にいたら、何を考えただろう。


生き残った人と、戻ってこなかった人のあいだには、とても薄い線しかなかったのかもしれない。


いつの間にか宿に着いていた。


僕は部屋へ戻り、鞄を下ろした。


服を着替え、ベッドの端に座って携帯電話を取り出した。


韓国にいる母に電話をかけた。


呼び出し音が何度か鳴ったあと、母が電話に出た。


「ハル?」


「うん、母さん。今、大丈夫?」


「大丈夫。ハルは? 資料は見たの?」


「うん。見たよ」


僕はそう答えて、少し言葉を止めた。


今日見たことを、どこから話せばいいのかわからなかった。


母は、僕がすぐに続きを言わないのを聞いて、先に話題を変えた。


「今日は指が少し楽だったから、もう少しやってみたよ」


「指、大丈夫?」


「大丈夫。そんなに痛いわけじゃないの。ただ、長くやっていると、また少しこわばるのよ」


「無理しないで」


「そうする」


「スキャンしたものは?」


「少しだけ送ったよ。たくさんはできなかった。字が小さいし、紙も古いから、長く見ていると目も痛くなって」


「ゆっくりでいいよ」


僕は携帯電話を耳に当てたまま、うつむいた。


「わかった。あなたも無理しないで。それで、ハル」


「うん?」


「前に話した人、いたでしょう」


僕は一瞬、母の言っている意味がわからなかった。


「誰のこと?」


「この前、話したでしょう。母さんの知り合いの娘さん。年はあなたと同じくらいで、仕事もしっかりしていて、性格も落ち着いているって」


そこでようやく思い出した。


日本に来る前、母が何気なく出した話だった。


一度会ってみたらどうかと言っていた人。


僕はそのときも、はっきりした返事をしなかった。


「その話、急にどうして?」


「急にというわけじゃないの。あなたが日本にいるのに、今すぐ会いなさいという話ではないよ。ただ、帰ってきたら、負担に思わないで、一度お茶でもしてみたらどうかと思って」


母の言葉は慎重だった。


けれどその慎重さのせいで、かえって僕はすぐには答えられなかった。


その瞬間、なぜか美咲さんのことが浮かんだ。


僕と一緒に資料を調べていた彼女の姿。


瀬戸田レモンのお菓子を分け合ったときの記憶。


「ハル?」


母の声が、僕をまた現実に戻した。


「聞いてる?」


「うん。聞いてる」


「嫌なら嫌だと言っていいのよ。ただ一度聞いてみただけだから」


「嫌なわけじゃないよ」


僕はゆっくり言った。


「でも、まだよくわからない」


「そう?」


「今は旅の途中だから。韓国に戻ってから、もう一度考えてみるよ」


僕がそう言うと、母はしばらく黙っていた。


「わかった。母さんが急ぎすぎたのかもしれないね」


「そんなことないよ」


「じゃあ、今はあなたがしていることを、ちゃんと終わらせなさい。その代わり、ご飯はきちんと食べて」


「うん」


「それから、あまり遅くまで資料を見ないこと」


「わかった」


電話を切ってからも、僕はしばらく携帯電話を手に持っていた。


やがて、もう一度体を起こし、机の上にノートパソコンを置いた。


何度か手を動かしかけたが、結局開かなかった。


次の記録は、美咲さんと一緒に見たかった。


ただ、そう思った。


明かりを消して横になったが、すぐには眠れなかった。


窓の外からは、ときどき車が通り過ぎる音が聞こえた。


僕は目を閉じた。


すると、祖父が歩いたであろう山道が浮かんだ。


僕が受けた行軍訓練でも、険しい道を歩かなければならなかった。


銃を持ち、重い装備を背負わなければならなかった。


けれど、祖父が歩いた山道は、それとは比べものにならなかった。


そんなことを考えているうちに、眠りに落ちた。


翌日、僕は約束の時間より少し早くカフェに着いた。


まだ美咲さんは来ていなかった。


いつもの席には、誰かが座っていた。


結局、今回は窓際の席にした。


僕はノートパソコンをすぐには出さず、代わりに窓の外を見た。


通り過ぎる人たちを見ながら、美咲さんが来るかどうかを見ていた。


それから、僕はノートパソコンを取り出した。


そのとき、小さな鈴の音が鳴った。


顔を向けると、美咲さんが見えた。


「すみません、少し遅れました」


「大丈夫です。僕も今来たところです」


美咲さんは席に着く前に、カウンターのほうを一度見た。


それから、慎重に鞄を椅子の横へ下ろした。


「今日はコーヒーを注文する前に、先にお見せしたいものがあります」


「見せたいもの、ですか」


「はい」


美咲さんは鞄の中から、小さな袋を取り出した。


ビニールがかさりと鳴った。


彼女はそれを、テーブルの上にそっと置いた。


袋の表には、大きな文字でこう書かれていた。


乾パン。


「昨日の帰りに探してみました。今は、防災用の食品として売っているんですね」


美咲さんは袋を見つめてから、静かに言った。


「これを食べたからといって、あの時代のことがわかるわけではないと思います。でも……」


彼女は、最後まで言葉を続けられなかった。


僕も、その先を代わりに言うことはできなかった。


テーブルの上の「乾パン」という文字が、僕たちのあいだに置かれていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ