第68話 乾パンがこぼれていた
僕は最後の文をしばらく見つめてから、コーヒーを一口飲んだ。
カフェモカはまだ少し温かく、口の中に甘さが広がった。
僕は画面を進めた。
「上等兵の言葉が心に残った。
残りの乾パンは懐に入れた。
ほどなく、移動しろという命令が下った。」
美咲さんはカップを持ち上げたが、すぐには飲まなかった。
視線は画面に固定されていた。
僕は次の行を読んだ。
「山へ上がった。
道は暗かった。
前の者の背中を見て歩いた。
後ろでは、誰かがずっと荒い息をしていた。
私もだんだん息が荒くなった。
休みたかったが、できなかった。」
そのとき、美咲さんが言った。
「どこへ向かっているのでしょう」
「おそらく、山のほうに配置されたのだと思います。多富洞の戦いの範囲の中では、一か所にとどまるのではなく、命令に従って動き続けていたはずですから」
僕は画面を少し下へ送った。
「時間が過ぎた。
伏せろという声が聞こえた。
全員が伏せた。」
美咲さんが静かに息を呑んだ。
僕は読み続けた。
「土が跳ねた。
誰かが叫んだ。
砲弾が落ちた。
耳がぼうっとした。
私は頭を上げられなかった。」
文は短かった。
それなのに、読むのに時間がかかった。
僕はコーヒーカップを見下ろした。
まだ半分ほど残っていたが、手が伸びなかった。
僕はまた画面を見た。
「撃てと言われた。
私はM1を握った。
前がよく見えなかった。
それでも撃てと言われた。
私は撃った。」
僕はその文を読みながら、手帳には書かれていない光景を思い浮かべた。
祖父は、地面に伏せていたのだろう。
M1小銃を両手で握り、体を低くしたまま、まともに頭を上げることもできなかったはずだ。
どこから飛んでくるのかもわからない弾が、土を跳ね上げていたのだろう。
砲弾が落ちるたびに、体は地面へ押しつけられたはずだ。
その状況で、狙うということができたのだろうか。
僕にはわからなかった。
もしかすると、銃口だけをどうにか前へ出して、手と肩の感覚だけで引き金を引いたのかもしれない。
僕は予備軍訓練で、M1小銃を撃ったことがある。
長く、重く、反動が強かった。
そして八発を撃ち終えると、クリップが跳ね上がり、乾いた金属音がした。
それと同じ音を、祖父も聞いたのだろう。
その音がしたあと、また装填する時間はあったのだろうか。
手は震えていなかったのだろうか。
隣にいた人が倒れたとき、その音も、悲鳴も、砲声も、互いに混じり合って聞こえたのではないか。
今の僕には、わからなかった。
美咲さんは何も言わなかった。
カフェの中には静かな音楽が流れていた。
今読んでいる戦闘の状況とは、あまりにも違う空気だった。
僕はまた手帳の次の部分を読んだ。
「誰かが私を呼んだ。
新兵たちに指示を出せと言った。
答えられなかった。
また砲弾が落ちた。」
「佐伯さんは、ああいう状況にいらしたんですね」
美咲さんが低く言った。
「はい」
僕は小さく答えた。
「祖父も、何をすればいいのかわからなかったはずです。でも、一等兵だったから、わからないとは言えなかったのでしょう」
美咲さんはカップを両手で包んでいた。
けれど、まだ飲んではいなかった。
僕は次の記録へ進んだ。
「音がしばらく止んだ。
煙で前がよく見えなかった。
人を数えろという指示が下った。
私は数を数えた。
新兵は半分ほど見えなかった。
一等兵も、三人に一人は見えなかった。
けれど私は生き残った。
乾パンを出して食べようとした。
そのとき、たくさん食べるなと言った上等兵が倒れているのが見えた。
彼の懐から、乾パンがこぼれていた。
新兵が何人か、それを見た。
私は離れろと言った。
彼らは下がった。
私は上等兵の水筒を開けた。
口元に水を当てた。
彼は飲めなかった。
こぼれていた乾パンを、彼の懐に戻した。
私にできることは、それだけだった。
彼は、もう起き上がらなかった。」
美咲さんの唇が、わずかに開いた。
「その方は……結局……」
僕はゆっくりうなずいた。
「たぶん、そうだったのだと思います」
「そんな……」
とても小さな声だった。
祖父に乾パンを残しておけと言った人は、もう戻ってこなかった。
美咲さんは、その事実を受け止めきれないようだった。
僕は冷めていくコーヒーを一口飲んだ。
最初より、甘さが弱くなったような気がした。
美咲さんはまだ画面を見ていた。
「祖父は、その日も生き残りました」
僕は言った。
「でも、その一文を書くまでに、誰が戻らなかったのか、その一人ひとりの名前までは、手帳には書かれていません」
「そうですね」
美咲さんは、そっと目を閉じた。
それが祈りなのか、黙祷なのかはわからなかった。
僕も、しばらく目を閉じた。




