第67話 川を渡らせるな
「少し待ってください。地図を確認します」
僕は検索窓を開き、朝鮮半島南部の地図を表示した。
美咲さんも画面を見つめてから、慎重に尋ねた。
「多富洞の戦いというのは、そこだけで起きた戦いだったんですか」
「いいえ」
僕は地図を少し拡大した。
「名前だけ見ると、ひとつの村で起きた戦いのように見えますが、実際には大邱の北側から洛東江防衛線へつながる広い範囲で、長く続いた戦いでした」
「そうなんですね」
「手帳の内容だけでは、正確にどこだったのかまではわかりません。ですが、最前線だったという事実は変わりません」
美咲さんは黙ってうなずいた。
僕は次の手帳の紙片を開いた。
「川を渡らせるなと言われた。
避難民の中に、敵がいるかもしれないからだ。
兵士たちが川の前で人々を止めていた。
泣く者もいた。怒る者もいた。
けれど誰も、私たちが守っている道を通ることはできなかった。」
美咲さんが低く言った。
「避難民を止めたということですか」
「そうだったようです」
僕は画面から目を離せなかった。
「では、どうすれば……」
「軍人たちが止める以上、別の道を探すしかなかったはずです。ただ、彼らにそれだけの時間があったのかはわかりません」
美咲さんは何も言わなかった。
僕は次の行を読んだ。
「女が老人を背負っていた。
その後ろに、女と子どもに見える人たちがいた。
自分たちは清州のほうから来たキリスト教徒だと言った。
人民軍がキリスト教徒を殺すという話を聞いて、避難してきたのだと言った。」
美咲さんが、その文で息を呑んだ。
「キリスト教徒を……殺すということですか」
「はい」
僕は少し言葉を止めた。
「北側では、すでに追放されたり、処刑されたりした人たちもいたはずです。ですから、その人たちがそう言って逃げてきたとしても、不思議ではありません」
「そんなことが……」
美咲さんの声が小さくなった。
僕は画面を見ていて、ふと以前確認した記録を思い出した。
「以前見た亞里さんの祈りにも出てきました。共産政権下でのキリスト教徒への迫害について書かれていました」
美咲さんも、すぐに思い出したようだった。
「あ……あの時の……」
「はい」
僕は小さくうなずいた。
それから、また手帳の次の行を確認した。
「隊長が言った。
主の祈りを唱えてみろ。」
美咲さんが画面を見つめた。
「主の祈り……」
「キリスト教で唱えられる、基本的な祈りです」
僕は短く付け加えた。
「本当に信仰を持って教会に通っていたキリスト教徒なら、主の祈りは当然知っているはずです。隊長は、彼女たちが嘘をついているのかどうかを確かめようとしたのだと思います」
僕はまた手帳を読んだ。
「女は震える声で、主の祈りを唱え始めた。
子どもが泣いた。
それでも女は、最後まで言った。」
僕は指を止め、その短い数行を見つめた。
少ししてから、次の行を読んだ。
「隊長はしばらく黙っていた。
女と老人と子どもだ、と言った。
この者たちを通せ、と言った。
兵士たちが川へ入った。
私も続いて川に入り、子どもの手を取った。
別の兵士が老人を支えた。
水は冷たかった。」
美咲さんは画面から目を離せなかった。
「助けたんですね」
美咲さんが静かに言った。
「はい」
僕は答えた。
「隊長は、川を渡らせるなという命令を受けていました。けれど、それでも目の前にいる女性と老人と子どもを、完全には見捨てられなかったのだと思います」
美咲さんは、唇を少し結んだ。
「助けられた人たちは……よかったですね」
「はい」
「でも、助けられなかった人たちもいたのでしょうね」
僕はすぐには答えられなかった。
たぶん、そうだったのだろう。
その川の前にいたすべての人が、渡ることを許されたわけではなかったはずだ。
僕はまた手帳の最後の部分を確認した。
「私たちは、ほどなく別の場所へ配置された。
だんだん騒がしい音が近づいていた。」
僕は最後の行を長く見つめた。
その音が何だったのか、手帳には書かれていなかった。
けれど祖父は、その音のするほうへ行かなければならなかった。
「もう少し読みます」
僕は次の文へ進んだ。
今度はさっきとは違い、文字に少し力が入っているように見えた。
「乾パンをもらった。」
「乾パン? 私が知っている、あの乾パンですか」
美咲さんが言った。
僕はうなずいた。
「はい。美咲さんが知っている、その乾パンだと思います」
僕は少し画面から目を離した。
「乾パンは、もともと長く保存できるように作られた硬いパン、あるいはビスケットのようなものでした。日本軍でも軍用食として使われていましたし、その形が韓国軍にも残っていたのだと思います」
「ハルさんも食べたことがあるんですか」
「はい。軍隊にいたころに食べたことはあります。ただ、除隊してからは食べたことがありません」
僕にとって乾パンは、もう過去の食べ物だった。
けれど当時の祖父にとっては、とても貴重な補給品だったはずだ。
僕は次の行を読んだ。
「乾パンをもらって、うれしかった。
けれど、先にそこにいた上等兵の表情は固かった。
私がなぜかと聞くと、彼は言った。
こういう補給品が出るということは、もうすぐ大きな戦闘があるということだ。
たくさん食べるな。
あとで必要になるかもしれない。
私は少しだけ食べた。
残りは懐にしまった。」
僕はその文を読んで、思わず息を呑んだ。
戦闘は、もうすぐそこまで近づいていた。




